善男子、是の善男子、善女人、譬えば竜子始めて生まれて七日に、即ち能く雲を興し亦能く雨を降らすが如し。善男子、是れを是の経の第五の功徳不思議の力と名づく。
竜の子供が七日で雨を降らせるように、御本尊様を拝んだ者は、わずかの期間でありましょうとも、入信して七日、一年といっても、竜の子が雨を降らせるように偉大な力があるというのです。そういう自信の上にたって信心をしていかなければなりません。
善男子、第六に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子、善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、是の経典を受持し読誦せん者は、煩悩を具せりと雖も、而も衆生の為に法を説いて、煩悩生死を遠離し一切の苦を断ずることを得せしめん。
ゆえに煩悩がある。決して特別な偉い人というのはいるものではない。しかし凡夫の姿、凡夫位でありながら、あらゆる人を救うところの力を持つようになるというのです。
衆生聞き已って修行して得法、得果、得道すること、仏如来と等しくして差別なけん。
それで聞いた方は、すなわち折伏された方は、得道・得果即仏と同じ境涯になることができる。それが功徳です。はじめ折伏などできなかったが、だんだんと折伏ができるようになってくる。
譬えば王子復稚小なりと雖も、若し王の巡遊し及び疾病するに、是の王子に委せて国事を領理せしむ。王子是の時大王の命に依って、法の如く群僚百官を教令し正化を宣流するに、国土の人民各其の要に随って、大王の治するが如く等しくして異なることあることなきが如く
たとえば王様がいる。そして王子はまだ小さい。しかし王様が国を巡遊し、あるいは病気になったという場合、その間の国事を小さい王子様に任せる。王子様はでたらめにやるというのではないのです。法にしたがって、この国法を用いて政治を執るならば、あたかも大王の命令と同じように、国がきちんと治まっていくのです。それと同じように御本尊を信ずる者は、王子になるのであると。これは次の項になってきます。
持経の善男子、善女人も亦復是の如し。若しは仏の在世若しは滅度の後、是の善男子未だ初不動地に住することを得ずと雖も、仏の是の如く教法を用説したもうに依って而も之を敷演せんに、衆生聞き已って一心に修行せば、煩悩を断除し、得法、得果、乃至得道せん。善男子、是れを是の経の第六の功徳不思議の力と名づく。
初不動地、すなわち初めて十地の位のうちの、信心が動揺ない境地です。もう十地となれば、これはもうすぐ等覚妙覚位に上る位です。大菩薩の位です。あたかも王様の旅にいる間に、その王子が法にしたがって国を治めて、大王が国を治めたのと同じように、王子が治めたが、王子は王子で大王ではない。同じく、仏の滅度の後において、自分はまだ初不動地にまで上っていない。大菩薩の境涯にはなっていなくても、仏の教えたごとく教えるならば、その衆生は、それにしたがって皆幸福になるというのです。ですから、こうなると教える方は楽です。自分が偉くならなくても良いのですから、おそわる方が大事なのです。教える方は不動地に上らないけれども、おそわった方は仏様になる、だから私は仏様のいったとおりを教えているのですから、皆さんが偉くならなければならないように、皆さんに責任があるのです。
善男子、第七に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子、善女人、仏の在世若しは滅度の後に於いて、是の経を聞くことを得て、歓喜し信楽し希有の心を生じ、受持し読誦し書写し解説し説の如く修行し、菩提心を発し、諸の善根を起し、大悲の意を興して、一切の苦悩の衆生を度せんと欲せば、未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前し、即ち是の身に於いて無生法忍を得、生死・煩悩一時に断壊して、菩薩の第七の地に昇らん。
これは大事なところです。折伏しなさいという原理はここにあるのです。自分はまだできあがらなくても、ただ折伏して皆を救おうと決心し、そうしてやかましく皆を折伏していくと、無生法忍という位を得て、それで自分が仏の境涯を得るというのが、第七の功徳力です。それをやっていきなさいといっているのです。折伏しなさいというと、何か班長さんのためにやるような、あるいはまた地区部長のためなどと、そうではないのです。きちんと第七の功徳を得るために、折伏するのです。ここは今までは人に人にといってたでしょう、今度は自分自身がそうなるのであるとこういうのです。
譬えば健かなる人の、王の為に怨を除くに、怨既に滅し已りなば王大に歓喜して、賞賜するに半国の封悉く以って之を与えんが如く、持経の善男子、善女人も亦復是の如し。諸の行人に於いて最も為れ勇健なり。六度の法宝求めざるに自ら至ることを得たり。
すなわち"六波羅蜜自然に在前し"と前にありますように、釈迦仏法では六波羅蜜の修行をさせるのです。ところが、大聖人の仏法では六波羅蜜の修行をとめるのです。やっていけないというわけではない。やらなくてもよいということなのです。御本尊様を拝むと六波羅蜜の修行などしなくても、結果が自然に出てくるというのです。
あたかも国王のために非常に勇敢に働いたものがいれば、国王は喜んで自分の領地を半分そのままくれる。そのように、仏のために折伏を行ずる者には、その功徳として、六波羅蜜の修行をしないで、仏が六波羅蜜の功徳をくれるというのです。それは半国だけです。六波羅蜜ですから。しかるに進んで大聖人様の仰せでは、そんな半国どころではないというのです。仏の功徳を全部あげるというのです。そんなにケチケチしないというのです。どうせもらうなら、半分ぐらいもらったのではつまらない。全部もらった方がいい、どうせもらうなら。(笑い)
生死の怨敵自然に散壊し、無生忍の半仏国の宝を証し、封の賞あって安楽ならん。善男子、是れを是の経の第七の功徳不思議の力と名つく。
功徳の自現が安楽ならんとは、幸福になるということです。しあわせになる、これが御本尊様の功徳だとこういうのです。
善男子、第八に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子、善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、人あって能く是の経典を得たらん者は、敬信すること仏身を視たてまつるが如く等しくして異ることなからしめ、是の経を愛楽し、受持し読誦し書写し頂戴し、法の如く奉行し、戒、忍を堅固にし、兼ねて檀度を行じ、深く慈悲を発して、此の無上大乗無量義経を以って、広く人の為に説かん。若し人先より来、都(す)べて罪福あることを信ぜざる者には、是の経を以て之を示して、種種の方便を設け強いて化して信ぜしめん。経の威力を以っての故に、其の人の信心を発し欻然(こつねん)として回(え)することを得ん。信心既に発して勇猛精進するが故に、能く此の経の威徳勢力を得て、得道、得果せん。是の故に善男子、善女人、化を蒙る功徳を以っての故に、男子、女人即ち是の身に於いて無生法忍を得、上地に至ることを得て、諸の菩薩と以って眷属と為りて、速かに能く衆生を成就し、仏国土を浄め、久しからずして無上菩提を成ずることを得ん。善男子、是れを是の経の第八の功徳不思議のカと名づく。
要するに、もうどこまでも折伏になってきます。それで自分に罪福、しあわせがないと思う者には、この経を信じさせて、御本尊を信じさせて、そして自分に罪福があることを思わせる、それでやってみる。そうするとかならず無上菩提を成ずることができる。そうなるには、折伏以外にないということを説いている。それで自然にできるようになる。力がついてくる。自分のからだに力がついてくる。だから、まずすなおに御本尊様を信じて拝むことです。
善男子、第九に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子、善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、是の経を得ることあって歓喜踊躍(ゆやく)し、未曾有なることを得て、受持し読誦し書写し供養し、広く衆人の為に是の経の義を分別し解説せん者は
ここは前のところと書き出しは同じですが、要するにこの経すなわち御本尊様をたもち踊躍歓喜して、法のごとく修行するならば、というのです。
即ち宿業の余罪重障、一時に滅尽することを得
これが大事なところです。前世の余罪の残った罪が、太陽の光りにあった露のようにいちじに滅尽するというのです。なくなるという。久遠以来の宿業は一時に滅尽するといっているのですから「こういう罰は宿業ですか、謗法ですか」と、そんなことは聞く必要がありません。総本山にきて、まじめに御本尊様を拝んだから前の世の宿業が一時に滅尽するのではありませんか。本当に御本尊様を真剣に拝みなさい。そうでなければ、宝の山へはいってきて、宝を持たないで帰るようなものです。御開扉を受けて大御本尊様におすがり申して、その宝を受けてくるのです。
便(すなわ)ち清浄なることを得て、大弁(たいべん)を逮得(たいとく)し、次第に諸の波羅蜜を荘厳し、諸の三昧、首楞厳(しゅりょうごん)三昧を獲、大総持門に入り、勤精進力を得て速かに上地に越ゆることを得、善能く分身散体して十方の国土に遍じ、一切二十五有の極苦の衆生を抜済(ばっさい)して悉く解脱せしめん。是の故に是の経に此(かく)の如きの力(ちから)います。善男子、是れを是の経の第九の功徳不思議の力と名づく。
総持門にはいりとありますが、総持とは梵語の陀羅尼のことなのです。陀羅尼というのは、一切の悪を寄せつけない法という意味です。また分身散体するという言葉があります。分身散体するというのは、今この本山に大御本尊様が御安置してあります、それがわれわれの家庭にこの大御本尊様の写しを頂戴しています。これが分身散体です。ですから大御本尊様の分身仏です。少しも変わっていません。またわれわれの命を論ずれば、また分身散体の義によって一切衆生を救うことができるのです。これは第九の功徳です。
善男子、第十に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子、善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、皆し是の経を得て大歓喜を発し
御本尊を拝して、大歓喜を発しというのが大切です。
希有の心を生じ
そうです。希有の心を生じ、すなわち惜しげなく信心することなのです。ありがたいことだ、大御本尊様に恋慕、感謝の心を生ず。
既に自ら受持し読誦し書写し供養し説の如く修行し、復能く広く在家出家の人を勧めて、受持し読誦し書写し供養し解説し、法の如く修行せしめん。
そこで自分もやる、人にもやらせる。その対象は在家の人にも出家した人にも折伏する。この功徳はどうかとこういうのです。
既に余人をして是の経を修行せしむる力の故に
折伏する力のゆえにという意味です。
得道、得果せんこと、皆是の善男子、善女人の慈心をもって勤(ねんご)ろに化する力に由るが故に、是の善男子、善
女人は即ち是の身に於いて便(すなわ)ち無量の諸の陀羅尼門を逮得(たいとく)せん。凡夫地に於いて、自然に初めの時に能く無数阿僧祇(むしゅあそぎ)の弘誓(ぐせい)大願を発し、深く能く一切衆生を救わんことを発し
すなわちこれは仏の境涯になることです。ここで、色々の言葉でいっていますが、みずからが仏の境涯になるということです。
大悲を成就し、広く能く衆の苦を抜き、厚く善根を集めて一切を饒益(にょうやく)せん。而(しこう)して法の沢(うるおい)を演ベて洪(おおい)に枯涸に潤し、能く法の薬を以って諸の衆生に施し、一切を安楽し、漸見超登して法雲地に住せん。恩沢普く潤し慈被(ひ)すること外なく、苦の衆生を摂して道跡(どうしゃく)に入らしめん。是の故に此の人は、久しからずして阿耨多羅三貌三菩提を成ずることを得ん。善男子、是れを是の経の第十の功徳不思議の力と名づく。
第十はみずからも修行し、人にも修行させることによって、自分が仏の境涯を完全につかむことができるとこういうのです。これらの経文は御本尊の十の功徳をあらあらいっているのであります。