般泥洹経に云く「善男子過去に無量の諸罪・種種の悪業を作らんに是の諸の罪報・或は軽易せられ或は形状醜陋衣服足らず飲食麤疎財を求めて利あらず貧賤の家及び邪見の家に生れ或は王難に遇う」等云云
軽易せられというのは人にバカにされることなのです。形状醜陋とは、顔つきが悪いということです。人相の悪い人のことなのです。衣服足らず、着物がない、オーバーがないというのです。飲食麤疎、食べものが悪い、粗末なのです。たとえば、毎朝おみをつけ一杯というように、財を求めて利あらずとは、金を欲しがってもさっぱりはいってこないというのです。
貧賤の家および邪見の家に生まれとは、金もなにもない家に生まれるのです。また謗法の家に生まれる、あなた方はみんな謗法の家に生まれているのです。あるいは王難に会う、というのは、牢に引っ張られることです。
このように八つあるというのです。
又云く「及び余の種種の人間の苦報現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり」等云云
これは、軽く受けるというのです、ここが大事なところです。南無妙法蓮華経を唱えているから軽く受けるのです。この腕一本取ったらおまえの罪を許してやるという時に、小指一本ですむ。ところがわれわれというものは罪障が深いもので、小指一本取られるとおこるのです、南無妙法蓮華経で小指取られたと、本当は腕を取られるところを小指一本ですましているのです。そういう意味が今の御書なのです。
此経文は日蓮が身なくば殆ど仏の妄語となりぬべし
この経文どおりの姿を、自分の身が現じているのであると。したがって、日蓮がいなければ、すなわち世の中に証明しなければ、御自身の身で、色々な実際行動面に実証しなければ、仏様の仰せになったことはみな虚妄となるであろうというのです。
一には或被軽易二には或形状醜陋三には衣服不足四には飲食麤疎五には求財不利六には生貧賤家七には及邪見家八には或遭王難等云云、此八句は只日蓮一人が身に感ぜり
これは般泥洹経の経文を要約されたものでありまして、この八つの罪は、大聖人様が一身にお受けになったというのです。どうして受けたかという意味は次にあるのです。
高山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん
ここは大事なところです。高山に登る者はかならずおりなければならない、これはきまったことです。いもを食べたらかならずへが出ると決まったことです(笑い)。君ら喜ぶけれどイモを食べてみたらかならずへが出る、それが軽く出ないといけない、(笑い)これは御法の功徳力による。
高山に登った者はかならず下らなければならない。これは仏法にあらずとも人生すベてそのとおり、人を賤しんだ者は、かならず人に賤しまれる、よく見てみなさい。人の悪口ばっかりいう人がいる。そういう人は、人にきっと悪口ばっかりいわれているものです。あんなヤツなんだと、人をさげすむ、これは自分が前世でやったことから今世でこうなるということなのです。
形状端厳をそしれば醜陋の報いを得
前の世で、きれいな立派な人を見て「あんなの、たいして美人ではないのに、立派そうにしたってデブデブ肥ってるではないか、あんなことをしたって、借金して食ベているんではないか」と、端厳の人を笑えば、かならず自分がきたない顔に生まれるそうです。今日帰って鏡を見たまえ、どんな人を悪口言ったのかと(笑い)、人相の悪い者は、皆前の世で人相のいい人を憎んだ罪だというのです。これは鏡も役に立ちます。今晩から、大阪で鏡がだいぶ売れるかもしれない。(笑い)
人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる
前の世で人の衣服や食べものを奪えば、今世では貧乏になるというのです。そう思ってみると、この中にも前世のドロボーが相当いるようです(笑い)。財布に金のはいっていない人はよっぽどやったのでしょう。私がいったのではない、大聖人様がそういったのです(笑い)。文句は大聖人様に言いなさい。
持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず
これは困る。持戒尊貴を笑えば、かならず貧乏人の所に生まれるそうです。本当に信心している人を、仏法を行じている者を憎んだり、笑ったりすると、貧乏の家に生まれてくるというのです。みんな気をつけて考えてごらんなさい。
正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇(あ)ふ
題目を唱えている家のことを悪口をいっていれば、かならずまた邪見の家に生まれてくる。
次は、僧侶の悪口をいってはだめだ、いけないといっているのです。善戒といいましても、今、日本の国で善戒という戒は、南無妙法蓮華経を唱えている人しかいないのです。その人を笑えば、あるいは憎めば、かならず国土の民となるというのです。このところの表現がおもしろい。これは民法にも通じ、刑法にも通じるところがありますが、国土の民にならなければ、王難に会いようがない。国家というもののない時に生まれた人は刑法上、罪を受けるわけがない。刑法のある国でなければならない。王難に会うというのは牢にはいるということです。
それは私がいつもいうように、日蓮正宗の御僧侶の悪口をいってはいけない、王難に会うような罪をつくるからいってはいけません。
だが、仏法守護のため、令法久住のために、いわなければならない場合もあります。「善戒を笑へば王難に遇ふ」その王難に大聖人様は会っていらっしゃる。そこで、なんで王難に会ったのかと、その理由を次にお述べになるのです。
是は常の因果の定れる法なり、日蓮は此因果にはあらず法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を或は上げ或は下て嘲弄せし故に此八種の大難に値るなり
大聖人様はこうおっしゃっている。この八つの難の因果というものは、通途の仏法の論議であるが、日蓮はそのためにあったのではない。この般泥洹経の八難を大聖人様は一身にお受けになっている。
これは常の因果にあらず、自分は過去に法華経の行者を苦しめた罪で、この八難を自分は受けているのだとおっしゃっているのです。大聖人様がこうおっしゃっている以上、われわれは安心です。大聖人様でさえ法華経の行者の悪口をいったのだから、われわれは安心です。われわれが悪口をいったってそう罪にはならない。
あなた方も信仰する前に法華経の行者の悪口をいったはずなのですから、その罪で貧乏していると思えばいいのです。
此八種は尽未来際が間一つつ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり
ここはおもしろい。この八つの難は、仏法では、一つずつなくなっていくことになっているのです。今生で形状醜陋、みっともなく生まれてきたと、それを今度は一生懸命にきれいな人をほめて、この次はきれいな人になる、そんなややこしいのでは困るでしょう。大聖人様は、そういう罪だってわが身にあったけれど、いっぺんに呼び起こしたのです。「南無妙法蓮華経といわなければだめだ」「大御本尊を拝みなさい」と、折伏したらいっぺんに出てきてしまった。病気がいっしょにでてくるみたいなものです。貧乏人が金持ちになろうとするときに、この御本尊を拝むというと、前から貧乏しなければならない宿命がいっぺんに出てくるのです。そうなったらたいへんなことです。そのときは、熱いフロへはいったように、じっとしていなければいけない(笑い)。しかし、そうなったときが大事なのです。そこで御本尊様をきちんと拝んでいくと、それがいちじにパーッと夢のように消えて、お金がサラサラとはいってくるのです。
大阪へきたら罰をどうして受けたらいいかと、聞いてきた人がいた。冗談ではありません、罰なんか受けたいというバカはいません。本当に信心すると悪瘡がいっぺんにでるように、生命にあるものはさっとでるのです。
そしてカラッとなって、福運がサーッとはいってきます。病気も同じなのです。一生懸命に御本尊を拝むというと病気が出てくるときがある。そのときは負けないで、御本尊を拝むと病気が治るのです。今のこの経文をよく読んでおきなさい。
譬ば民の郷郡なんどにあるにはいかなる利銭を地頭等におほせたれどもいたくせめず年年にのベゆく其所を出る時に競起が如し斯れ護法の功徳力に由る故なり等は是なり
昔、地頭職とか、守護職とかいう役職がありまして、百姓から税金を取って食うのが商売でした。村にいた百姓が、今度はこの村がいやだから、そっちへ行こうという。そのとき自分の領地から他へ行ったら、こっちの地頭職は金が取れないでしょう。だからいっぺんに取りたてようとするのです。と同じように、南無妙法蓮華経という仏になる信心をはじめるというと、前の世につくった罪をいっぺんに取り返されるみたいなものだと、こういうのです。
今の御文は、御本尊様を守った功徳のために、このように一度に罪障が出てくるのだというのです。しかしそう思えません。罰が出てくる、どんどん出てくる。さあこれをがまんしている間が骨なのです。それ護法の功徳力だといっても信用できません。今、大阪あたりはだんだん出てるさいちゅうではないかと思うのですが、どうです。出て困っているのではありませんか。「早くだしてしまいなさい」などと指導する地区部長や班長はだめです。罰など出ない方がいいのです。
出たときはしようがない。にげもかくれもできない、出たというときが大事なのです。よく罰が当たるというけれど、あれはやめてもらいたい。罰なんか当たるものではない。ウンコは出るもので、ウンコにあたるものではない(笑い)。体にある、自分にあるものが出てくるのです。罰だって同じで、出るもので、当たるものではない。そこを間違ってはだめです。折伏に行って「貴様やらなければ、罰が当たるぞ」などといったのでは折伏ではありません。折伏とは慈悲行です。折伏に行って、おこって帰ってくるのではいけないのです。