雪山童子・薩埵王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし
仏法というものは時によらなければならない。雪山童子や薩埵王子は肉もなにもないときに鬼がきて、肉をよこせ、あるいは腹が減っているから身を布施にしろ、そうすれば仏法を教えてやると責められた。そういう時には、身を布施にして仏教を習うということが仏になる道です。またからだの皮をはいで紙として仏教の言葉を書く、これは紙のない時代にやることです。骨を筆にして仏教のために何か一文でも書いておく、これは筆のない時の修行です。
今の時代に、肉を売って仏教を習う。あるいはからだの皮をはいで仏教を習う。そんなバカなことをしていったい何になる。今、もしも、おまえのからだを食べさせれば仏にしてやろうということになれば「そんなに肉を食べたいか、ちょっと待っててくれ」といって、肉屋で五百円も買って食わしてやります。紙は紙屋で買ってくればいい。筆がある時に骨を削って筆にするなどというバカはいません。
書写行というのがありまして、法華経を書き写す修行をした時代がありました。だから邪宗では今も法華経を書けば功徳があると思っている。あんなことをやると罰がでるのです。なぜかというと、印刷機械があるのに書く必要がないではないですか。そんなバカなことをやらせては、人間が働く時間を粗末に扱う、からだを休めずに粗末にする。そんなことをひろめる者は、仏法のためにやるのではない人だから罰を受ける。そのように世の中の時に合うことをやらなければ、仏道修行にならないのです。今、題目を唱えることだけをはやらせてもダメなのです、すでにみな題目は知っています。一閻浮提第一の御本尊を知らない時であればこそ、今、大御本尊様を人に持たせることこそ、仏道修行の根本なのです。今、大御本尊様の流布をやって、人に悪口いわれておけば、かならず仏になるに違いない。これは今、時のことを論じているのです。
破戒・無戒を毀り持戒・正法を用ん世には諸戒を堅く持べし儒教・道教を以て釈教を制止せん日には道安法師・慧遠法師・法道三蔵等の如く王と論じて命を軽うすべし
破戒、無戒を非難し、戒を持つことを仏が教えている時には戒をきちんと持った方がよいのです。それが仏教のためである。また道教、儒教 ー 道教とは老子の教え、儒教は孔子、孟子の教えでありますが ー その外道の教えをもって仏教を破る時には、法道三蔵のように王様と論判して、自分の身に罪を受けても、仏教を守る方が仏になれるのです。
神道が盛んで、仏教を粗末にしている時には、われわれは、本当に仏法を持って神道を破るのが、これが仏になる道なのである。今のように、デタラメな宗教ばかり横行し、何をもって正しい仏法とするかわけがわからない時に、あらゆるデタラメの仏法を破折して、本当の正法をたてるのが仏になる道です。
釈教の中に小乗大乗権経実経・雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は天台大師・伝教大師等の如く大小・権実・顕密を強盛に分別すベし
仏教の中でも大乗経、小乗経、顕教、密教あるいは、権大乗経、実大乗経と、牛の肉かあるいはロバの肉がごっちゃになったように、判別もつかぬ、わけのわからないように混じっている時には、天台や伝教のように仏法はこうであるということを厳密に立て、正しいものをめざしていくのが、時を得たことなのです。
畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる諛臣と申すは是なり強敵を伏して始て力士をしる
畜生道というのは、強い者を恐れペコペコして、弱い者にはいばるのです。皆さんの会社なんかでも上役にはペコペコして下の者にはいばっている人がいるでしょう。一閻浮提第一の大御本尊を受持していると、そうした畜生道のマネをする者はいないでしょうが、中に間違って、組長や組員の前ではいばって、支部長や地区部長の前に行くとペコペコおじぎばかりしている畜生道の人がいる。あれくらい見ずらいものはありません。今の役人などというのは、みんな畜生道に落ちているでしょう。まるでペコペコしている。とくに宗教関係の役人などというのはそうです。ほかの人もきっとそうだと思うのです。
われわれは師子王のごとくいかなければならない。仏教のためにはライオンなのですから、毅然と生きていきましょう。他のものが恐れをいだくから大丈夫です。
悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人(かたうど)をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し
今いったとおりでしょう。悪い僧侶が、悪い王様に味方して、正法を立てる者をいじめる時に、師子王のような心をもって、敢然と、それと戦う者が仏になるのだというのです。創価学会は日本の国を救わんと立ったのです。それはあなた方は、金持ちになりたいとか、からだが丈夫になりたいとかといって信仰しているでしょうが、学会精神というものは、日本の国、世界の国を救わんがためにやっているのです。実際に日本は貧乏な国です。
こういう貧乏な国を本当に助けて、全民族がしあわせに暮らせるようにするための広宣流布です。日本国を救おうというわれわれなのだから、われわれの精神は師子王のごとく誇りをもっていてもいいのです。そうしたら仏になれるそうです。「例せば日蓮が如し」です。これはおごって言っているのではない。高慢で言っているのではない。高慢ならば、かならずおどかされると小さくなってしまうからです。
これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべしおごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し
前に述べたように、おごって、高慢ならばおどかされるとかならず小さくなる。修羅が無熱池の蓮の中に帝釈と戦って隠れたようなものである。からいばりしている人だったら、おどかされると小さくなってしまう。日蓮はおごれるのではない。佐渡の国に流されてもけっして小さくなってはいない。堂々と自分の意見は述べているではないかというのです。そこがおごれる者と大確信のある者とは違うのだと仰せなのです。
あなた方も、口で日蓮正宗は正しい、御本尊様は御立派であるといっていても、ひとたび私に何か難でもあれば、私が何かで引っぱられたとします。「戸田先生はさんざん神様の悪口いったからだ」「戸田先生だって引っぱられたではないか、やめよう」などと、きっというでしょう。そんな人は、仏様にもなにもなれはしない。そういうのをおごっているというのです。何が起ころうと、御本尊様のためには、びくともしないようでなければだめなのです。新聞で少し悪口を書かれた、雑誌に少し悪口が出た。すると「創価学会もあまりいいものではないな。そんなに悪口いわれるようでは、やめようかな」などと、そんないくじなしには広宣流布、本尊流布などできません。悪口をいわれても、びくともしないことです。仏様になることは間違いないのですから、信仰は続けなさい。たとえ私にどのようなことがあっても、信心を離れたら損です。やった人と、やめた人と十年たったらすごい差がつくのです。いつとはなしにだんだんよくなる、これを冥益というのです。目に見えませんけれど、十年、十五年とたちますと、その人の性格が根から変わっていく。この信仰は、やっている者とやっていない者とはすごく違ってしまう。恐ろしいものです。だから人におどかされても、人が悪口をいっても、それでやめるなどとそれは弱々しいことです。
この間、宮城県の平というところで、班長に悪いのがいたのです。自分が何かひとつの宗旨を立てるような気持ちになって、五十何人かそろって学会をやめるといいだした。やめるならやめなさいと私は言った。そのかわり、こういってきなさいといってやりました。「そういうバカなことをやって、三年たって幸福であったら、戸田は創価学会をやめる。かならずひどい生活になるから、それを覚悟しておきなさい」といっておきましたら、案の定一年たたぬうちにひどい生活になってしまった。だから学会をやめるとか、信仰やめるなどという人はけっして止めないで下さい。あとでひどい目にあって苦しんだら、もういっぺん私の所へきなさいよといっておいて下さい。かならずひどくなります。生きた証拠ですから、見ていて下さい。
正法は一字・一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道なるべし千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。
正法というものは一字一句でも時にかなえば仏になれるし、時にかなわなかったらいくら経文を読んでも、仏にならない。
今、あなた方にこうして御書を読ましているわけですけれど、御書を読むことは何も仏になる道ではないのです。本当のことをいうとこれはいらないものです。いらないものを、なぜやるのかといわれても困りますが、やらないとまた退転するからです。退転なおし役としてやるのです。
今は御本尊流布することによって、仏になれる時なのです。なにも知らないでもいいのです。御本尊様はありがたい。あなたも南無妙法蓮華経をやりなさい。御本尊様を拝みなさい……。これでいいのです。なにも佐渡御書を覚えたからといって、仏になれるのではありません。だが、佐渡御書の精神がわかると信心が強くなるから、信心を強くさせるために御書を学ぶのです。御書の勉強はなんのためにするのかをよく覚えておきなさい。この御書を覚えて、誰かに偉そうな顔をしてやるためにやるのではない。知ったかぶりして教学をやる者はだめです。
信心を強くするためにやるのです。
宝治の合戦すでに二十六年今年二月十一日十七日又合戦あり外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るベし師子身中の虫の師子を食等云云
ここで宝治の合戦を述べておられるのは、これは、北条氏の内輪もめをさらけ出した事件です。北条氏が内輪もめをするたびに弱って行く。滅びて行く。非常に自界叛逆難が強くなってきた。大聖人様を佐渡に流したのでなお強くなった。
自界叛逆難が強まれば強まるほど、北条氏が滅びていくように、仏教というものも、内輪からこわされていくのだというのです。外からこわされるものではない。師子というのはライオンです。ライオンは、死んでもよそからライオンの肉を食いにいかない。師子の腹の中にいる虫が、だんだんと師子をはんでいく、すなわち、腐らせていくのと同じだというのです。
大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし
大きな果報をもって生まれてきた人は、外から破ることはできないけれども、内輪から、親しい人から破ることができるというのです。
薬師経に云く「自界叛逆難」と是なり、仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起らん」云云
内輪からものごとをぶちこわすのを、自界叛逆難というのです。仲間われです。
仁王経の七難については、立正安国論に詳しくありますから、読んでいただきたいと思います。「聖人去る時七難必ず起らん」と。日蓮大聖人様のような御立派な仏様、法華経を弘める人を佐渡に流したということは、かならず七難が起こるということです。
いま、国家を救わんがために、本尊流布を行なっている創価学会を、もし国家の権力をもっていじめたり、あるいはひどいことをすれば、かならず国に七難が起こる。断固として言いきっていいのです。私がいうのではないのですから、文句があったら大聖人様の所へ行ったらいいのです。
金光明経に云く「三十三天各瞋恨(しんこん)を生ずるは其の国王悪を縦にし治せざるに由る」等云云
三十三天というのは、忉利天ともいいまして、須弥山の四方にそれぞれ八天がある。ですから、四八、三十二天、忉利天は一番てっぺんで三十三天です。この忉利天と合わせて三十三天の天界が瞋(いか)って色々なことをするのは、その国の王をしかりつけるのです。それは、悪王があって、その国に悪い仏法があるのを、その悪い仏法を退治しないから三十三天が瞋りをなすのです。
立正安国論の定義によりますと、マッカーサーが日本の国を攻めにきたというのは、これは、隣の国の梵天・帝釈にいいつけて、日本の梵天・帝釈をしかりつける、日本の悪王をしかりつける。こういうことになっているのです。大聖人様がなくなられてから七百年もたっているのに、大御本尊様を日本国じゅうの人に知らせようとしないからです。三十三天が瞋恨をいだいて、日本の国が滅びるような結果になった。それは私も悪いがあなた方も悪いのです。これが今度は、変毒為薬といって、日本国に大御本尊が弘まる前兆になるのです。日本の国が滅びたということは、今度は正法が弘まるということです。弘める役目をわれわれがおおせつけられてきたのです。
天皇陛下からおおせつかったのではない。総理大臣からおおせつかってやるのでもない。久遠元初の自受用報身如来様という、南無妙法蓮華経様という仏様からおおせつかったのです。仏勅をこうむってわれわれはやるのです。
仏勅をこうむってやれば仏の使いです。仏の使いは仏と同じ力を持っているのです。それを悪口などをいう者は、可哀想ですが、罰が出ないわけがありません。お互いに、これでも仏様の使いなのです。皆さんもそうなのです。仏様の使いが貧乏しているようでは困る。(笑い)