佐渡御書講義(御書全集九五六ページ)

 

 此文富木殿のかた三郎左衛門殿大蔵たうのつじ十郎入道殿等さじきの尼御前一一に見させ給べき人人の御中へなり

 

 ここはこの通りで、講義をすることもないと思います。皆一同へ、紙も少ないし、人も特別に書けばそれぞれわずらいがあるから、皆にいっしょに差し上げるというのです。

 

 京鎌倉に軍に死る人人を書付てたび候へ、外典抄文句の二玄の四の本末勘文宣旨等これへの人人もちてわたらせ給へ。

 

 鎌倉の軍で、すなわち自界叛逆難、後に宝治の合戦がでてきますが、鎌倉の自界叛逆難というのは有名です。その鎌倉で同士打ちして死んだ人々の名前を書いてよこしなさいというのです。祈念をして下さろうというのでありましょう。

 

 佐渡にいらして御不自由されていたので、いろいろな本を届けるようにとのことです。外典というのは仏法以外の書物を外典といいますが、外典抄とありますから儒教の本であると思います。そのうちの何か儒教中の特別なものを選んで書いてあるものだと思います。それから文句の二、これは法華文句といいまして天台の著わした書物でありますが、それと玄義の四の本末、それから勘文というのは、朝廷より賜わった何かの意見書だと思います。宣旨とは、法王および天皇方、朝廷方から出された告示であろうと思います。それらのものを佐渡にくる者がいたならば、ついでに持たせてよこしなさいと、こういうお手紙です。

 

 世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし牛馬猶身を惜む況や人身をや癩人猶命を惜む何に況や壮人をや

 

 これは、誰しも恐ろしいです。火の中に入れられて、火事にあって焼け死んだら大変です。火事と刀剣の影、刀を振り上げられたら、だれでも恐ろしくなる。それと、自分が病気で死ぬ、あるいは自然に死ぬ、このことが世の中で一番恐ろしいことなのだというのです。死ぬくらいいやなことはない。金もいらない命もいらないといいますが、命はいらないといっても殺すぞといったらみんな逃げるものです。犬や牛や馬でも命を惜しむ、まして人間が命を惜しまないわけがない。癩病の身で、生きるよりも死んだ方がましだと思うかもしれないが、それでも命を惜しむものです。まして丈夫な者が命を惜しまないわけがないというのです。

 

 仏説て云く「七宝を以て三千大千世界に布き満るとも手の小指を以て仏経に供養せんには如かず」取意

 

 それは七つの宝、すなわち金、銀、瑠璃、瑪瑙、真珠、硨磲、玫瑰、そういう七つの宝を地に敷き満つるほど供養するよりも、小指をもって仏に供養する方が供養のねうちがある。これはなかなか、自分の命の一部分をすりへらして仏様に御供養することは、できにくいものであるということをいっているのです。

 

 雪山童子の身をなげし楽法梵志(ぎょうぼうぼんじ)が身の皮をはぎし身命に過(すぎ)たる惜(おし)き者のなければ是を布施として仏法を習へば必仏となる身命を捨る人・他の宝を仏法に惜(おしむ)べしや

 

 すなわち、楽法梵志にしても、雪山童子にしても命をかけて仏法に供養している。ですから命がけの供養というものは大事である。これは大聖人様が、この前の顕仏未来記でも申しましたように、命をかけて折伏の行にたっているのです。佐渡におられた時には、いつ殺されるかわからないという状態です。命がけの折伏をしていらっしゃる。これで仏にならないわけがないではないかという理論をお説きあそばすのですから、このように、命の問題を取り扱っているのです。まして命をいらないとまでいう者が、仏教のために、物を惜しむということはないではないかと、こういう意味です。

 

 又財宝を仏法におしまん物まさる身命を捨べきや

 

 また命と金とを比べれば、金の方が命よりは軽いものであると仰せです。命を惜しくないという者であるからこそ、金も惜しまず供養するのであるが、金を惜しがる者が、命を供養するわけがないとこういうのです。今はちょっと世の中が変わりまして、命よりも金の方が大事であるなどという者が少し多いですから、昔と少し考え方が変わっています。

 

 世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数多し男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ

 

 重恩のためなら命を捨てる。主人のために命を捨てる者も数多い。恩を受けたからその御恩のために命を捨てる。主人のために命を捨てる、そんな人は今はいません。昔はいたらしいから、大聖人様の御書にも出てきますが、今日、主人のために命を捨てるなどという人はいません。大阪にはいますか。大阪にはとくにいないのではないでしょうか。借金のために首を吊って命を捨てた人はいるかもしれませんが、主人のために命を捨てる人はいないでしょう。いないことにしておきましょう。

 

 魚は命を惜む故に池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむしかれどもゑにばかされて釣をのむ烏は木にすむ木のひきき事をおじて木の上枝にすむしかれどもゑにばかされて網にかかる

 

 それほど大事な命でも、鳥にしても、魚にしても、餌にだまされて死ぬ場合がある。こういう意味です。

 

 人も又是くの如し世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるベし

 

 要するに、魚にしても鳥にしても餌にだまされて死ぬ。人間も世の中の浅い、世法のことには命を捨てることがあるけれども、仏教のために命を捨てる者はいない。だから仏になることもむずかしいのである。これは本当のことでしょう。仏教のために命を捨てるなどということは、ほとんどありません、きょうもある人がみえていうのには、私はずいぶん仏教のことで世間から悪くいわれているそうです。ただ悪くいわれることでも普通の人はいやがるのです。私は悪くいわれても平気です。最初から、この南無妙法蓮華経の本尊流布にあたれば、かならず悪口いわれるのは、決まり切っていることなのですから、覚悟しております。いくら悪くいわれても平気です。

 

 悪口などに驚いていたら何もできません。悪口など別に恐ろしいことないでしょう。向こうでしゃべっていても、こちらには聞こえません。新聞や雑誌に書いてあっても、そんなの見なければなんでもないことです。だから悪口など痛くも痒くもないのです。本当にたたかれたり、殺されたりしたら、ちょっとつこうが悪いように思われますが、それも覚悟の上です。十や二十なぐられたって平気です。まだ一つもなぐられません。これから相当なぐられると思います。もともと、われわれはほめられようと思うのが間違いです。「天理教、あれはダメです。念仏、あんなのはもちろんダメ、霊友会もダメです。仏立宗は、あれはバカの集まりだ」と、ひとつだってほめない。「神様、あんな神様インチキです。どれもこれもが全部だめです」と。どの宗教一つと妥協しようとしない、本当にだめなのだからしかたがない。

 それをいうから仏教界、宗教界ではほめるわけがありません。ほめられようと思うのも、大きな間違いです。悪くいわれようというのがこちらの願いなのです。

 

 仏法は摂受・折伏時によるべし譬ば世間の文・武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず

 

 仏教には摂受といって、自分だけその仏法を行なうのと、折伏といって、聞いても聞かなくても、人にこれをしゃぺるということと二種類ある。そのどちらを行ずるかは、時による。この時という字を誤って読んではいけない。「摂受・折伏時によるべし」というのだから、今は世聞がうるさいから摂受でやろう。みんななんにもいわないから折伏やろうというように、自分で考えて時をつくるのだと思っている人が多い。これは間違いです。

 この時という字は正法の時、像法の時、末法の時、という時なのです。ですから時によるべしとは、正法の時か像法の時か末法の時かということでありまして、末法の時は折伏、正法、像法の時は摂受と、こういうふうになっていて、末法の時は折伏以外にないのです。摂受などということは許されません。だから今は折伏の時だ。折伏の時に折伏できずして何が仏道修行か。本尊流布の時は本尊流布して、それで仏にならないわけがない。なるに決まっている。私達は折伏をして本尊流布し、時にかなっているのですから、仏になるのは間違いないのです。