是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり
そこで、これは日蓮が自作ではない。かってに作ったものではない。多宝塔中の釈迦牟尼世尊、多宝如来、分身の諸仏がもともとあった御本尊様を、すりかたぎ、すなわち刷った、印刷したというのです。そのまま写したところの大曼茶羅です。日蓮がかってに作ったものではない。すなわち三仏が、写し奉ったところの大御本尊である。こうおっしゃるのです。
されば首題の五字は中央にかかり
首題の五字は中央にかかり、南無妙法蓮華経と中央にあり、その次に日蓮とお認めです。ですから南無妙法蓮華経日蓮で人法一箇をあらわすのです。
四大天王は宝塔の四方に坐し
御本尊に向かって右方の上が東になっていますが、持国天王、これは民を安んずるという王様です。それから下の方は広目天王、西を意味する。これは悪眼と訳しますが、悪いことをした者をすぐ捕えるという王様です。
左の方の上は毘沙門天王、たえず仏の法座を守るがゆえに、仏法を多く聞くことができたという意味で多聞天といい、北の方にあたる。南の方は、増長天王という、これは免離(めんり)ともいい煩悩を離れしめる力のある王様です。
これを四天王といい、ともに仏法擁護のための王様であって、帝釈天の外将(がいしょう)である。すなわち家来です。帝釈天の命令どおりに国家を安んじ仏法を守る。ですから、あなた方が大御本尊を受持すれば、この四天王はたえずあなた方の家を護るのです。梵天帝釈はいうまでもありません。
釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ
まず、大御本尊様を拝し奉れば、右肩に多宝如来、左肩に釈迦牟尼仏、また右肩に上行と無辺行、左肩には安
立行、浄行がきちんとお並びになっている。
普賢・文殊等・舎利弗・目連等坐を屈し
その次の段のところには、向かって右に文殊、隣に薬王、左が普賢菩薩と。それから弥勒、大迦葉、右は舎利
弗と、そういう大菩薩連が厳然とすわっておられるのです。
日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り
その外に大日天王、大月天王、大明星天王が、きちんとすわっていた。向かって右側に書かれてあるのが愛染明王です。それから第六天の魔王がやはり御本尊様にきちんとすわっているのです。いるのですから、まずいといってもしようがない。
悪逆の達多・愚痴の竜女一座をはり三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等
提婆達多、十羅刹女、鬼子母神がきちんと並ぶというのは、おかしいではないかという人がいますが、また第六天の魔王や、鬼子母神や十羅刹がいるようではあぶないような気がするでしょうが、それはいてもらったほうが助かるのです。
なぜかというと、第六天の魔王が御本尊の中にいる。そうすると御本尊を拝み奉るときに、第六天の魔王は御本尊のいうことを聞くのです。第六天の魔王がほかの魔将を命令できちんと押えるのです。
十羅刹女、羅刹とは鬼ということで、鬼子母神がおかあさんです。いいことない。ところが、これが御本尊のことをよく聞くのです。十羅刹女や鬼子母神が御本尊の中にいるということは、男の人にとってはまことにありがたいことです。
女房というのは、いい女房ばかりとはきまらない、十羅刹女みたいな女房だっているのです。それがいつも十羅刹女みたいだったらこまります。娘でも、奥さんでも、それが南無妙法蓮華経と御本尊を受持すると、その十羅刹女がおとなしくなってしまう。御本尊の中の十羅刹女が、その奥さんの方にいる十羅刹女に向かって、おまえもきちんと御本尊様のいうことを聞かなくてはいけないと、こっちの十羅刹女に命令するのです。だから鬼みたいな奥様が(笑い)おとなしい、実に菩薩のような奥様に変わるのです。これで亭主は安心していられる。(笑い)
加之日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神・総じて大小の神祇等・体の神つらなる
以上のインドの神々に加えて、天照太神、左に正八幡大菩薩等の日本の神々もつらなっている。この天照太神と正八幡大菩薩は日本のあらゆる天神地祇、あらゆる神々を代表しているのですから、その後ろには、日本の神神がずーッと連なっているのです。だから天照太神と正八幡が二人だけきているのではありません。
さきほども申し上げましたように、こう拝しますと、仏界についても、多宝如来と釈迦牟尼世尊の二人しかきていないのではなくて、その後ろには、十方の分身の諸仏がずーッと並んでいるのです。また上行、無辺行、安立行、浄行の四菩薩も、そのあとに地涌の菩薩がずらりと続いているのです。あなた方もいっしょにいたのです。
私は前の方で聞いていたから、あなた方よりよけいに覚えているけれども、皆さんはずっと後ろで居眠りしていたらしい(笑い)。だからさっぱりわからないらしい。少しは今生で思い出して下さい。
其の余の用の神豈もるべきや
本体の神がそこにいるのですから、用の神、はたらきの神がもれるわけがない。
宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云
宝塔品に「もろもろの大衆を接してみな虚空にあり」と、すなわち、その姿は地上に並んでいる姿ではない。虚空にずーッと並んでいる姿なのです。これはたいしたものです。そこに君らも、本当にいたのです。いたからこそ、こんな雨の日に、私の講義を聞かなければならないのです。(笑い)
此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず
今、申しましたように、あなた方の知っている名前の神々は全部、あの御本尊の中にすわっていることになっているのです。たんなる紙ではないのです。紙に印刷したと思えばそれっきりです。本当に御本尊様を拝してごらんなさい。日蓮大聖人御一人がすわっているのではないのです。そう考えることを観心という。すなわち信心です。大聖人様を中心として、その後に、あらゆる仏菩薩や神々がずっと並ぶ、十羅刹女も鬼子母神も大竜王もおれば、薬王菩薩、文殊、弥勒菩薩も声聞衆もずっと並んでいるのです。それに対して南無妙法蓮華経と唱える。
そうすると、後から出てきますが、こちらの生命にも同じようにあるのです。己心の舎利弗、己心の文殊、御本尊様に対して南無妙法蓮華経と唱えると、かりに今、自分は病気で困っている、そうすると御本尊の中にあるところの薬王が働かざるをえない。こっちの薬王にいいつける。するとこっちの薬王が働く。医者に行って、どんなボロ医者でも、こっちの薬王が働いていますから、医者が自然にいい治療をせざるをえなくなるのです。
なにか困ると、梵天・帝釈が働くのです。向こうからきて助けるのではなく、こっちにあるところの梵天・帝釈が働きだすのです。南無妙法蓮華経に照らされて、御本尊様の方の梵天と帝釈がこっちに感応してくる。だから梵天・帝釈が働かざるをえなくなるのです。そして自然に商売でもなんでもよくなってくるのです。
御本尊には今、申しましたように何千、何万、何十万という大衆がいるのですから、それに商売繁盛させて下さいと頼むことになるのです。だからよくならないわけがない。信仰しないものでももっているのですが、働かないだけなのです。
また、そうだからといって、商売もしないで南無妙法蓮華経ばかり唱えたってだめなのです。店をしめておいて買いにきてくれといってもだめです。商売繁盛させたかったら、商売を一生懸命やらなければだめです。せっかく仏様の方で助けてやろうというのに、いらないいらないというようなものだ。「助けて下さい、助けて下さい」といいながら、助けに行けば、いやだというのと同じでしょう。
商売もしないで、夜の商売みたいに座談会ばかり行っている者がいるとか聞きます。座談会には行くべし、同時に商売を一生懸命にしなさい。商売と座談会とぶつかったら商売を先にするのです。商売が第一、座談会は第二。特等は勤行と、折伏です。休む時間で折伏、座談会をやるのです。これで貧乏する者は愚かです。
此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。
すなわち、南無妙法蓮華経日蓮とお認めの、その南無妙法蓮華経に照らされて、仏は仏、菩薩は菩薩、第六天の魔王は第六天の魔王というように、本有、すなわちもともとの立派な姿となって、御本尊の中にあらわれてくる。みな南無妙法蓮華経に照らされて本有の尊形となる。
南無妙法蓮華経に照らされなかったならば本有の尊形とならない。なぜかならば、第六天の魔王といえども、あるいは人の命を奪う鬼子母神であろうとも、みな仏法のための所作なのです。ですから南無妙法蓮華経をやらなかったら、勝手きままな鬼子母神になってしまいます。南無妙法蓮華経の御威光に照らされて、初めて人を助ける第六天の魔王になり、人を助ける鬼子母神に変わるのです。本有の尊形となるのです。
この南無妙法蓮華経とお認めだけではダメなのです。十界互具というのですが、あらゆる仏菩薩が全部その中に具わっているのが本尊です。具わるということを互具というのです。十界互具の本尊というのです。
これを何も知らない身延では十界勧請というのです。勧請というのは、伏見のイナリを大阪に勧請してきたとか、地蔵様
を勧請してきたとか、連れてくることです。請い願って、勧めて連れてくることです。願ってきてもらうことです。よそから迎い入れてかざることを勧請という。
この御本尊様は十界互具です。御本尊の中に、具わっているのです。もともと天照太神にきて下さい、正八幡大菩薩にきて下さい、十羅刹女にきて下さいなどと、いってきてもらった本尊ではないのです。もともと、南無妙法蓮華経に照らされて、そこに具わっている。だから勧請ではない。これを身延では十界勧請の本尊というのです。彼らは何も知らない。
この御本尊様はわれわれの命の姿でもある。阿修羅王といえば、おこる方。舎利弗といったら智慧、提婆達多は地獄をあらわす。大竜王は畜生界をあらわす。
われわれが腹を立てるときに、奥さんを今晩おこってやろうといって、阿修羅王きて下さいといっておこる者がいますか。もともと修羅はわれわれの中にあるのです。また、わざわざ地獄にきてもらう人がありますか。自分の生命の中にあるのです、具わっているのです。なにも頼んできてもらうのではない。
ましてや大御本尊と現われたもうたからには、十界そのまま具わっていなければならない。そこへ勧請してくるなどというバカな話はあるものではない。勧請しそこねたらどうしますか、差し押えにこられてしまう。(笑い)
ですから、十界勧請ということばは、仏法用語としては完全な間違いです。十界互具の本尊というのです。