今法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動あり、末代は又在世よりも悪人多多なり、かるがゆへに在世の瑞にも・すぐれて・あるべきよしを示現し給う。

 

 ところが、法華経は元品の無明を破るのですから、大きな動きがあります。それで、末法は、仏の在世よりも悪人が多い、だんだん世の中が、複雑になってくると、悪い者が多くなってくる。ですから、末法になってくると、人間が悪くなってきますから、現われるのも大きいのが現われてくる。きょうあたりも、今朝の読売新聞や、夕刊をみておりますと、あいそがつきてしまったのです。非常に悪い者がいる。昨年の蓮華寺の問題が、やっと今頃になって、大阪の第二警備隊の課長が、手がけて、学会が暴力であるかどうか調べるというのです。こんな悠長なことでどうするのかといいたいのです。

 

 もう一年もたったのに、今から調べるというのですから、大阪の人はのん気です。これでは悪をますます増長させてしまいます。いずれにしても学会は悪いことなんかしてない。暴力は向こうの方がやっているのです。こっちは、なぐられる方なのだ。それをまたウソを書く新聞などというのも暴力です。こちらは正直に日蓮大聖人様のいわれたとおりやっているのです。悪ければ、大聖人様が悪いのだから、大聖人様に談判しにいけばいいでしょう。このようなことも末法の衆生が、バカでずるいという瑞相のひとつです。

 

 疑って云く証文如何、答えて云く而かも此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや等云云、去る正嘉・文永の大地震・大天変は天神七代・地神五代は・さてをきぬ、人王九十代・二千余年が間・日本国にいまだなき天変地夭なり

 

 疑っていわく、そういう証文があるかと、そういうことです。この経は、如来の現在すらなお怨嫉が多い、況んや滅度の後においてをやというのだから、釈尊の在世ですら怨嫉が多いのであるから、末法今日においては、なおさら怨嫉が多いということです。さらに、日蓮大聖人様のような御立派な仏様がお出になって、末法のわれわれ衆生を救わんとされているのに、それでも、なお怨嫉が多い。われわれのような、大聖人様に比べれば、ケシつぶのような人間が、もったいなくも大聖人様の教えを奉じて、日本民族を救わんがために、邪宗邪義を破ろうとするので、なおさら怨嫉が多いのはあたりまえだと思っております。だが不肖、私も大聖人の弟子であります。獅子の子は獅子の子らしく、そんな迫害や怨嫉に驚いてはならない。

 

 いかに学会を憎もうとして、いかに学会をおとしいれようとして、誰人が騒ごうとも、彼らは、犬、野干のごときものだ。われわれは師子王です。師子王の子供が犬、野干のごときものに恐れてなんとしましょうか。こんなこと聞いたらおこるでしょう。おこるのを恐れたら、こんな大きな声でしゃべりはしないから安心しなさい。

 

 この正嘉元年、文永の大地震は、今までかつて歴史になかった大地震だと大聖人様はおっしゃるのです。そして、人王神武天皇以来、絶対ない天変地夭であるとおっしゃるのです。

 

 人の悦び多多なれば天に吉瑞をあらはし地に帝釈の動あり、人の悪心盛なれば天に凶変地に凶夭出来す

 

 みんな平和で、そうして幸福を感じて、一国の民衆が喜んで暮らすということになれば、天には梵天、帝釈が喜び、また地には帝釈の動がある。人の心に悪心多ければ、天変地夭があることになっている。仏法上では、悪心がないといっても、悪心にさせられてしまっている。今日本の国はききんです。いったい戦争前のことを考えてみると、どこのうちの人でも月給をとっている人なら、だいたい、百人のうち三十人や四十人は、二千円や三千円の貯金はあったのです。あれから二千円、三千円の貯金のあるときを考えてみると、今どれくらいあればいいかというと、まあ、三百倍だから、六十万円から九十万円もってる人が、この中に三分の一いなくてはならない。貯金です。借金ではない。それがもてない。昔の三千円もない人がいるということです。

 そっと財布の中をさわってみなくてもよい(笑い)。今、月給三万五千円くれるとか、四万円くれるとかいう人は、たいしたものです。今いいところで、二万円か、二万五千円でしょう。悪ければ一万五千円でしょう。それに家賃ときたらべらぼうに高いでしょう。それで、子供の三人も五人もいたらどうなりますか。これでは、善心でいたいといっても悪心になってしまいます。

 そういう世の中をこしらえて、政治家でござい、われわれは立派なことをやっていますとか、なにを言っているかというのです、おもしろくないことおびただしい。一万円ぐらいの金はすぐなくなってしまう。あなた方は、そういう感じはいたしませんか。もうけるのが少なくて、使う方が多いような世の中で、貯金ができなくて、これでいいのだなどと思っているのは、大きな間違いです。それで税金ばかりよけいとる。

 

 結局、税金をどうしたら払わないでよいかというように、悪心が盛んになってくるでしょう。

 どうしても、これはなんとかしなくではだめです。だから国にろくなことは起こらないのです。

 

 仏法の原理からいうと、悪い上になお悪くなるというのですから、悪いのはこっちの責任ではない。誰にある

といえば邪宗にあるというのです。この悪いものをせいばつしようという者を文句いうのだから、バカにつける

薬はないというのです。

 

 瞋恚の大小に随いて天変の大小あり地夭も又かくのごとし、今日本国・上一人より下万民にいたるまで大悪心の衆生充満せり

 

 人の心のいかり、そのいかりの大小によって、天変地夭にも大小があるというのです。

 大聖人様の時代にも同じであったのでしょう。日本じゅうに大悪心をなす者、怒りをなす者が、心に腹を立てる者が多くなっているというのです。今学会でも、学会が動けば動くほど、瞋恚、怒りというものをもつ衆生が多くなるのです。これはしかたがない。折伏されておこるでしょう。あのおこりというのが強くなると、やはりなにかつごうの悪いことが起こるのです、そして折伏をやめると、また本当の幸福はきません。これは手術のようなものだからしかたがありません。

 

 此の悪心の根本は日蓮によりて起れるところなり

 

 大聖人様は、ここではっきりとおっしゃっています。みんな瞋恚の心を起こし、悪心を起こすということは、大聖人様が折伏するからだとこうおっしゃっているのです。

 

 守護国界経と申す経あり法華経以後の経なり阿闍世王・仏にまいりて云く我国に大旱魃・大風・大水・飢饉・疫病・年年に起る上他国より我が国をせむ

 

 これは、阿世という人がいろいろとぐちを言った。大旱魃がある、大風がある、大地震、疫病、その上他国から攻められる。

 

 而るに仏の出現し給える国なり・いかんと問いまいらせ候しかば・仏答えて云く善き哉・善き哉・大王能く此の問をなせり

 

 ところが、この国に仏がお生まれになっている。それなのに、疫病があった、地震があったというのは、どういうわけですかと、阿闍世王は質問したというのです。そこで仏様に阿闍世王が、よい質問をしたとほめられたのです。よいかなよいかな、まことによいと。

 

 汝には多くの逆罪あり其の中に父を殺し提婆を師として我を害せしむ

 

 おまえは王様だが、悪いことばかりした。ずいぶん悪いことをしたが、そのなかに、とくに二つの悪いことがある。その一つは、おとうさんを殺している。もう一つは、仏であるこの私に、謗法をなしている。この二つが一番大きい罪だといっている。

 

 この二罪大なる故かかる大難来ることかくのごとく無量なり

 

 二つの悪いことがおまえにはあるのだから、こういう大事件が起こっているのだと。

 

 其の中に我が滅後に末法に入って提婆がやうなる僧・国中に充満せば正法の僧一人あるべし

 

 ところで今、阿闍世について説明しておきます。こういう悪い王様でありましたけれども、心から釈尊に帰伏したのです。それで、疫病もすっかり治った。他国から攻められることもなくなった。五十の年の三月七日に死ぬのを、四十年命が延びるのです。そうして、仏の滅後、第一回の仏教典の結集をやって使命を果たしてからなくなっているのです。この方程式はまったく現在にもあてはまる。国王とは、今は主権在民ですから、日本じゅうの人という意味になります。

 

 この日本の国に、本門戒壇が建立することになれば、それまで、いかに苦しいことが起こっても、それがぴたっと止まってしまうのです。そうして日本の国は、けっして原子爆弾を落とされない国になるのです。だから私も急ぐのです。釈尊はこの方程式を示さんがために、この経文に未来を説いて、未来に提婆達多のような、悪い僧侶が国じゅうに充満して、そこに、正法をたもつ一人の僧が現われると述べたのです。ちょうど大聖人様の時を予言しているのです。

 

 彼の悪僧等・正法の人を流罪・死罪に行いて王の后・乃至万民の女を犯して謗法者の種子の国に充満せば国中に種種の大難をこり後には他国にせめらるべしと・とかれて候

 

 この悪い僧侶たちが、一人の立派な大聖人様のような方を、あるいは、罵詈し、打ちゃくし、あるいは、流罪にし、あるいは、殺そうとする。しかもまた王の后、その他の女子に、謗法の種子をおろすということは、甘言でつっていって、謗法をさせるという意味です。

 そして謗法の者が国に充満する。そのときにはかならず、他国から攻められることになっている。日本の今の現状がそうでしょう。他国から攻められている。アメリカにとられただけならまだいいけれども、なにもこちらから危害を加えていないソ連まで、海の上に線を引いて、ここからこっちのサケをとってはいけないなどと。サケにソ連のサケなどあるものではない。アメリカには、なにかと日本の金をもっていかれているのです。こうなると責められているようなものです。他国の兵隊にせめられるだけが、せめられているのではない。いろんな意味でせめられているのだ、情けない国になったものです。

 これをなんとか立派な日本の国にしようというのがわれわれでしょう。

 

 今の世の念仏者かくのごとく候上・真言師等が大慢・提婆達多に百千万億倍すぎて候、真言宗の不思議あらあら申すベし、胎蔵界の八葉の九尊を画にかきて其の上にのぼりて諸仏の御面をふみて灌頂と申す事を行うなり

 

 今、大聖人様を迫害するのは、念仏者がやることであるが、真言宗の輩の謗法というのは、実にひどいものです。

 この胎蔵界の八葉九尊といいまして、仏様を八人かかえているのです。私は見たことがないから、どんなものかわからないが、これが真言の曼茶羅です。僧侶になる儀式のとき、すわらせて上から水をかける。これを灌頂というのです。ガンジス河の水をもってきてかけるのは、インドは梵天帝釈が、帝王にかけてやることになり、昔のいい伝えから帝王の即位や立太子の時に、やっているのです。どこかの王様が新しく即位した時に、新聞をみたら、八つの海だか河だかから、もってきた水を、頭へ注いだとありました。あれはインドの儀式なのです。

 

それを日本でも、真言宗はやるのです。ここでいう曼茶羅というのは、大聖人様の曼茶羅ではない。真言の曼茶羅です。その上にすわらせて、そして灌頂という儀式をやるのです。もってのほかだと大聖人様はいうのです。

 

 父母の面をふみ天子の頂をふむがごとくなる者・国中に充満して上下の師となれり、いかでか国ほろびざるべき。

 

 すなわち、真言宗の連中のやり方は、親の顔を踏み、天子の頂を踏むようなものであって、こういう者が日本じゅうにいるから、災難が起こるのだというのです。こんな邪宗があるのに、どうして国が滅びないでおりましようか、というのです。

 

 此の事余が一大事の法門なり又又申すベし

 

 これが大聖人様の大事の法門です。

 

 われわれのいうことは大聖人様の教えどおりです。邪宗邪義の者がいるから、この日本民衆に不幸というものがあるのです。

 大聖人様の一大事の法門とは、ここのところをおっしゃるのです。このように邪宗教が不幸の根源であるということは、大聖人様がおっしゃっているのですから、なにも学会で発明したのではないのです。

 

 さきにすこしかきて候、いたう人におほせあるべからず、びんごとの心ざし一度・二度ならねばいかにとも。

 

 先にこのことについては、色々と書いてやった。たびたび手紙をくれるのでまことにありがたいことである。

「びんごと」手紙にいろいろと書いてあったが、そのことについて種々書いておいたという御返事です。