身なくば影なし正報なくば依報なし

 

 正報である自分がなければ、宇宙というものがないのです。私にとっては、あなた方は依報であるが、私が死んでしまったとしたら、私には依報がなくなってしまう。あなた方にしても同じです。それを、いっているわけです。

 

 又正報をば依報をもって此れをつくる

 

 また、われわれの正報、われわれの状態というものは、いろいろな国土でつくるわけです。水がないというような国土に、われわれがいたならば、のどがかわいてたまらない。正報が渇をおぼえて苦しまなければいけない。

 ですから、われわれの正報というものは、依報をもってつくられているというのです。すなわち、眼と鼻との関係等を、涌没と説いているのです。眼の功徳を生ずれば、鼻根の煩悩がなくなってくる。

 こういうふうに、涌没という関係が、われわれの心と肉体との関係になっている。そこで、われわれ衆生というものが正報で、また、この宇宙全体が依報です。依報正報の関係に、涌没の関係があると説かれているのです。

 

 眼根をば東方をもって・これをつくる

 

 眼根は東方と前にいってきたわけです。

 

 舌は南方・鼻は西方・耳は北方・身は四方・心は中央等これを・もって・しんぬべし

 

 ここは、さきほどからいったとおりであります。眼は東方、鼻は西方、耳が北方、いいですか、それから舌が南方、心は中央、身は四方、こういうふうに前は決めてあったと、こういうのです。

 

 かるがゆへに衆生の五根やぶれんとせば四方中央をどろうベし

 

 また、われわれの五根がやぶれようとするならば、四方および中央が、非常に騒ぐというのです。われわれの肉体が死のうとすればという意味です。

 

 されば国土やぶれんと・するしるしには・まづ山くづれ草木かれ江河つくるしるしあり人の眼耳等驚そうすれば天変あり人の心をうごかせば地動す

 

 そこで国が、今度はやぶれようとする。衆生が正報になりますから、国土というものは、依報になります。ちょうど、われわれ衆生の心が破れようとするときには、われわれの肉体が騒ぐように、依報の国土が、破れんとするときには、かならずガケくずれ、山くずれ、あるいは、その草木が枯れ、色々のことが起こるというのです。

 いま日本の国には火事が非常に多い。これなども、よほど考えなければならないことと思います。また、われわれの眼とか、耳とかというものが、さっぱり落ち着かないというときには、天変がある。われわれの心が、たえず不安定のような状態におかれるときには、地が動くとこういわれるのです。

 

 抑何の経経にか六種動これなき

 

 さてこのように、六種震動ということは、仏法を説くにあたって、どの経文でも説かれているというのです。

 

 一切経を仏とかせ給いしみなこれあり

 

 釈尊が一切経を説いた、その経文の中に、六種震動という地動瑞は、どの経文にもある。

 

 しかれども仏法華経をとかせ給はんとて六種震動ありしかば衆も・ことにおどろき弥勒菩薩も疑い文殊師利菩薩もこたへしは諸経よりも瑞も大に久しくありしかば疑も大に決しがたかりしなり

 

 ところで、法華経の序品第一に、六種震動のことが説かれている。この六種震動は、他の経文で説いた六種震動とは大きさが違う。ゆえに一般の大衆も疑い、その総大将の、弥勒がこれをおおいに疑った。しこうして、これを説いて聞かせたのは文殊師利菩薩である。文殊師利菩薩は、その大衆の疑い、弥勒の疑いに対して、これを説いて聞かせたというのです。

 

 故に妙楽の云く「何れの大乗経にか集衆・放光・雨花・動地あらざらん但大疑を生ずること無し」等云云

 

 ところで、妙楽大師がいうのには、どの経文にも、集衆 ー 集衆というのはたくさんの人が集まったというのです。大衆の集まりということ ー があるが、この法華経の序品のように、大きな大衆の集まりはない。それから、その次は放光瑞といいまして、この釈尊の眉間の白こう相から、光りを放って、東方万二千の国土世間を照らし、そこにやはり六瑞があった。これは、他土の六瑞といいますが、他土の六瑞を見た。これほどの大きい放光瑞はない。その次は雨華、雨華というのは天より華を降らしたというのですが、華を降らした、その降らし方も、他の経文にないような降らし方です。また、地動瑞も他の経文にないような大きな地動瑞です。これは、大きな疑問を起こさせんがためだと妙楽が説いているのです。

 

 此の釈の心はいかなる経経にも序は候へども此れほど大なるはなしとなり

 

 これは、その心をとれば、今申し上げましたように、序品に、これほどの大瑞の説かれたものはないというのです。

 

 されば天台大師の云く「世人以(おもえらく)蜘蛛(くも)掛れば喜び来り鳱鵲(かんじゃく)鳴けば行人至ると小すら尚徴(しるし)有り大焉(なん)ぞ瑞無からん近きを以て遠きを表す」等云云。

 

 ところで、現在はクモが網を張ると、これはよいことがある、こういうことになっている。鵲(かささぎ)が鳴けば、かならず、お客さんが来るというふうに、小さなことですら、その前兆があるとされている。ましてや、法華経という大きな学説を今説き、そのことによって一般大衆を救おうとするのですから、その前兆も大きいわけではないか、とこういうのです。

 

 夫一代四十余年が間なかりし大瑞を現じて法華経の迹門を・とかせ給いぬ

 

 さて、この瑞相論におきましては、大聖人様は、こういう順序で瑞相を説いていますから、気をつけて読んで下さい。今まで説いたのは迹門の瑞相です。この次は本門の瑞相を説く、その次には文底の瑞相を説くのです。

 三段の瑞相になっておりますから、その瑞相は三段になっていることだけ覚えて下さい。今、まずここで迹門の瑞相であると、念を押してあるのです。これから本門に来るのです。

 

 其の上本門と申すは又爾前の経経の瑞に迹門を対するよりも大なる大瑞なり

 

 ところで、今申し上げましたように、迹門の瑞相は、爾前経と比べると、非常に大きな相違があるが、本門の瑞相は、迹門の瑞相とは、たいへんな差があるというのです。

 

 大宝塔の地より・をどりいでし

 

 まず、その瑞相の一つとしては、多宝如来の塔が、地から涌き出でて虚空をかざったということです。

 

 地涌千界・大地よりならび出でし

 

 また地涌千界、すなわち地涌の菩薩が、大地よりならび出てきた。そのようすは、ひとりの総大将が、六万恒河沙を率いて来るもの、五万恒河沙を率いて来るもの、四万恒河沙等を率いて来るもの、その他、三万、二万、一万、あるいは二分の一、四分の一、あるいは四天下のもの、あるいは百万、二百万と眷属を率いてきた。

 地涌の菩薩がずらーッと並んだ。もう序品の瑞相などとは、全然違う。前に集衆ということがありましたが、その衆生の集まりなどとはくらべものにならない、そのうちのもっとも大勢の集まりである。

 

 大震動は大風の大海を吹けば大山のごとくなる大波のあしのはのごとくなる小船のをひほにつくが・ごとくなりしなり

 

 また地が震えたということは、前の序品の地動瑞などとは問題にならない。大風が吹いて大波が起こり、そうして、大うねのような大波が起こって、蘆の葉のような船を突き上げたという。それほどの大きな地動瑞なのであります。

 

 されば序品の瑞をば弥勒は文殊に問い涌出品の大瑞をば慈氏は仏に問いたてまつる

 

 ところで、序品の瑞相は何を意味するかということを、弥勒菩薩は文殊師利菩薩に聞いています。しかるに本門の瑞相について慈氏 ー 慈氏というのは、やはり弥勒のことです。弥勒ということを訳せば慈氏と約す ー は仏に聞いている。結局、本門の瑞相は、文殊では間に合いませんから、仏に聞いているのです。これだけでも、瑞相の大きさがわかるであろうというのです。

 

 これを妙楽釈して云く「迹事(しゃくじ)は浅近・文殊に寄すベし久本(くほん)は裁(ことわ)り難し故に唯仏に託す」云云

 

 それで、妙楽大師がこれを釈していうのには、迹事、すなわち迹門のことは、浅いことであるから、弥勒は文殊に聞いているのである。久本、すなわち本門は、これはなかなか深いことである。したがって、文殊に聞いてもわからないから、そこで仏に託す、仏に聞いているのであるというのです。

 

 迹門のことは仏説き給はざりしかども文殊ほぼこれをしれり、本門の事は妙徳すこしもはからず

 

 ところで、迹門のことは、文殊師利菩薩がだいたいのことはわかっていた。本門にいたっては、文殊は少しも知らないのだと、こういうのです。

 

 此の大瑞は在世の事にて候

 

 この大瑞は釈尊の時代の大瑞である。文底末法に仏が現われる瑞相は、かくのごときものではないといって、神力品の瑞相をもって、文底の瑞相と大聖人はお説きあそばすのであります。

 

 仏・神力品にいたって十神力を現ず此れは又さきの二瑞には・にるベくもなき神力なり

 

 神力品に十神力というのがありますが、この十の神力は、前の迹門はもちろんのこと、本門よりもまだまだ勝れた瑞相であるというのです。

 

 序品の放光は東方・万八千土、神力品の大放光は十方世界

 

 まず、放光瑞、眉間の白毫を比べて、その放光瑞をたずねてみれば、序品では、東方万八千の世界を、照らしているが、神力品では、あまねく十方仏土を照らしているというのです。

 

 序品の地動は但三千界・神力品の大地動は諸仏の世界地・皆六種に震動す

 

 ところで、序品の地動瑞は大千世界が動いたにすぎない。しかるに、この神力品の地動瑞は、十方仏土がことごとくこれ動いている。大きさがまったく違うという意味です。

 

 此の瑞も又又かくのごとし、此の神力品の大瑞は仏の滅後正像二千年すぎて末法に入って法華経の肝要のひろまらせ給うべき大瑞なり

 

 前に序品の瑞相と本門の瑞相と、神力品の瑞相を説いて、神力品の瑞相こそは、仏滅度の後、正法、像法、末法において、法華経の肝要、寿量品の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合の南無妙法蓮華経の弘まる瑞相であるというのです。

 

 経文に云く「仏の滅度の後に能く是の経を持つを以ての故に諸仏皆歓喜して無量の神力を現ず」等云云

 

 この神力品に、仏の滅度の後においてとあります。仏の滅度の後において、この経を持つ者がいるゆえに、あらゆる諸仏はみな歓喜するのだという。滅度の後ということが、はっきりあるではないかというのです。

 

 又云く「悪世末法の時」等云云。

 

 また悪世末法とも説かれているではないか、これは末法の瑞相にちがいないとお説きあそばされているのです。

 

 疑って云く夫れ瑞は吉凶につけて或は一時・二時・或は一日・二日・或は一年・二年・或は七年十二年か・如何ぞ二千余年已後の瑞あるべきや

 

 ところで神力品の瑞相が、末法において文底の南無妙法蓮華経の弘まる瑞相であるというが、瑞相、前兆というようなものは、あるいは二時間か、一時間、あるいは一日か二日、あるいは一年、二年、あるいはせいぜい七年、十二年ぐらいは考えられるけれども、二千何年あとのものを瑞相とするのは、ちょっと考えられないのではないか、という質問です。

 

 答えて云く周の昭王の瑞は一千十五年に始めてあえり

 

 周の昭王の時に、中国に、河の水がまさって、花が咲いて、非常に香気が漂った。立派なことがあったという記録があるのです。そのときに占い師に昭王はみてもらったら、これは西方に聖人が現われたのだと。ではその聖人の教えはいつこの国に来るかとの問いに、千年たったら来るとこう予言したそうです。この予言がぴたりと当たりまして、釈尊の滅後一千十五年に、長安へこの仏教が初めて渡ってきたのです。その瑞相が、千年前にあったではないかというのです。

 

 訖利季王の夢は二万二千年に始めてあいぬ

 

 訖利季王の夢というのは、はっきりしないのですが、象の上に猿が二匹乗っていた夢を見ていたのだそうです。

 そのような夢を見たので仏に聞いたら、それはおまえに関係のないことだといったが、そのとおりになったというだけの話なのですが、そのことをお引きになったと思います。

 

 豈二千余年の事の前にあらはるるを疑うべきや

 

 このように、中国では千年、インドでは二万年だから、二千年前に瑞相があって、それを今、大聖人様がやることの瑞相であってもおかしくないではないかというのです。

 

 問うて云く在世よりも滅後の瑞・大なる如何

 

 仏の在世よりは末法ということです。滅後については、滅後正法の時よりも、滅後像法の時よりも、滅後末法の時と読むのですが、その末法の時において瑞相が大きいわけは、いったいどういうわけなのだとこう聞くのです。

 

 答えて云く大地の動ずる事は人の六根の動くによる

 

 まずこの地震というのは、われわれの六根の動きが基本になる、と仏法では説いている。

 

 人の六根の動きの大小によって大地の六種も高下あり、爾前の経経には一切衆生・煩悩をやぶるやう・なれども実にはやぶらず

 

 六根の動き方によって、地震の大小があるというのです。爾前の経文には、煩悩を破って大いに心を動かすようであるけれども、前々から、仏に縁をもっている者もある。かつまた、爾前という小さな経文で破るのだから、それほど大きな破り方はないというのです。六根の動きが少ないというのです。