瑞相御書講義(御書全集一一四〇ページ)
夫れ天変は衆人をおどろかし地夭は諸人をうごかす
まず天変地夭というものは、人を非常に驚かすものである。たとえば、天変といえば大暴風とか強雨です、地夭とは地霞等です。そこで、それはなぜ起こるか、という問題が説かれるのです。
仏法華経をとかんとし給う時五瑞六瑞をげんじ給う
色々な放光とか、雨華とかいう奇瑞があらわれておりますが、そのほか、この奇瑞のうち、地動瑞、すなわち地が六種に震動したということが説かれています。この地動瑞をとって、今説明なさるところです。
其の中に地動瑞と申すは大地六種に震動す
奇瑞の中に地動瑞という瑞相がある。これは大地震のことです。地が、大いに震えだすというのですから、地震のことで、その地震に六種類あるというのです。
六種と申すは天台大師文句の三に釈して云く
天台大師が六種ということをどうとられたか、六種に震動すと法華経に書かれてあるという、この六種の震動というのをどう説かれたか、ということです。
「東涌西没とは東方は青・肝を主どる
東涌、東が涌き上がって、西の方が没するというのは、六種のうちの一つです。東方は青を意味する。青ということは、すなわち、われわれの肝臓を意味している。東方が涌くということは、われわれの肝臓を意味しているというのです。
肝は眼を主どる西方は白・肺を主どる
われわれの肝臓は、われわれの眼を左右するというのです。東の方は青だから肝を表わすが、西の方は白だから肺を表わしているのであるというのです。
肺は鼻を主どる
これはそうです。肺は鼻で息するのだから、これは、うまいことが昔から決まっていたものです。
此れ眼根の功徳生じて鼻根の煩悩互に滅するを表するなり
眼根、肝から眼へきたのです。眼根の功徳生じて、そうして、鼻根、鼻の煩悩が滅することを意味しているのであるというのです。
鼻根の功徳生じて眼の中の煩悩互に滅す
今度は逆に、鼻根の功徳が生じて、その眼の煩悩が、滅するというのを意味するのである。
余方の涌没して余根の生滅を表するも亦復」云云
それで今度は、眼と鼻を終わりましたが、まだ他にあります。耳がある。舌がある。また心というものもある。
それがやはり、同じ原理になるのだということです。
妙楽大師之を承けて云く
今度は、天台がなくなって二百余年たってから、妙楽大師という、天台の流れを汲んで、天台の理論を実践活動に移した方がいますが、その人がまた、これを詳しく説明していうのには、ということです。
「表根と言うは眼鼻已に東西を表す耳舌理として南北に対す
この眼と鼻が、東西をつかさどるというならば、耳と舌の方は当然、南北をつかさどることになり、東西南北になります。そうしてこうなれば、心というものは、中央になるではないかと説明したというのです。
中央は心なり四方は身なり身四根を具す心徧く四を縁す
ところで今、東西南北に分けていいましたが、身というのは四方である、心は中央であると説かれているのです。
故に心を以て身に対して涌没を為す」云云
心と身というものを、相対的に考えれば、また、心が涌き身が没するという、肉体と精神との関係が、非常に密接であるということを説いているのです。これは、実際に私たちも、悲しいということは、心が悲しいので、なにも眼が悲しいわけではないのに涙が出てくる。おこっているのは、心がおこっているのにかかわらず、顔がおこった顔になってしまう。それから、お湯にはいっているのは、からだがはいっているのだけれども、心が気持ちよくなってくる。すなわち、心と肉体というものは、やはり、涌没、すなわち、涌く没するという関係があるのです。
夫十方は依報なり・衆生は正報なり
今の理論は、地動瑞の、地六種に震動するというが、われわれの肉体をとって、一応説明しましたが、今度は、自分というもの、衆生というものと、この大宇宙、すなわち、世界との関係で説明しています、その宇宙というものの変動が、われわれに大きな影響をもちます。
ホウキ星が、無軌道にやってくる、あれは軌道がないという話ですが、あるのかもしれません。
もし、地球の近くに来ると、地球が、爆発してしまうかわからないという、そういう危険な星があるのです。
しかもホウキ星がくれば、かならず国に、大凶乱があるといわれているのです。
今、ソ連でホウキ星が見えるそうです。日本では、まだ見えない。だから、これは、仏教の原理からいくと、この四、五十年の間にソ連になにかあるのかもしれない。日本の国が滅びたのは、日本にホウキ星がはっきり見えてから四十年くらいになります。ホウキ星というのはあぶないのです。また天文学的にいっても、地球が危険なのです。そこで衆生、十方というのは、上と下と、東西南北、それから四隅を加えて十方です。これは宇宙という意味です。宇宙は依報であって、また、われわれ衆生は正報になる、こういうのです。
譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし
そこで、正報は体、われわれになります。それで、十方国土、十方世界というのは、影のようなものである。
私どもが、貧乏して暮らしていれば、この世の中は、みんな貧乏に見えるのです。また子供をかわいがって、一家仲良く、一家だんらんができれば、そのだんらんした気持ちが全部十方になって表われてきます。正報は体、依報は影ということになるのです。