三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり

 

 その戒壇とは三国並びに一閻浮提の大衆が懺悔滅罪の戒法だけではない。また東洋じゅう、世界じゅうの人々がきて拝するだけの戒壇だけでもなく、梵天王も帝釈天王も来下して蹋(ふみ)給うべき戒壇であるとこういうのです。

 

 こういう、すごいのをわれわれでやろうというのだから、なかなかたいへんなのです。一汗も二汗もかかなければなるまいと思うけれども、これをやって功徳のないわけがありません。建築屋に雇われたって月給はくれます。

 梵天、帝釈まで来て蹋給うべき戒壇を建立する努力して、それで、仏様がそっぽを向くなどと、そんなことは絶対にありません。もう功徳充満です。それはおもしろい、ひとつやってみようではないか。(拍手)

 

 此の戒法立ちて後・延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に、叡山に座主始まって第三・第四の慈覚・智証・存(ぞん)の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言(おうげん)を本として我が山の戒法をあなづり戯論(けろん)とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染(むぜん)の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りありきても何かはせん

 

 さて今度は、比叡山の戒壇と、われわれが建立する戒壇との相違論を、大聖人様が仰せになるのです。比叡山の戒壇と申しますのは、迹門の戒壇、理の戒壇でありまして、これは僧侶だけが授戒を受ける戒壇です。われわれが建立せんとする戒壇は、三国並びに一閻浮提の人々の懺悔滅罪のところであり、梵天帝釈も蹋給うべき戒壇である大衆の戒壇なのです。比叡山の戒壇以上の戒壇なのです。今は比叡山の戒壇が乱れ切ってしまって、全然ダメになってしまっています。だから、比叡山の戒壇は、有って無きがごとしとこれから論ずるのです。

 

 比叡山が伝教大師、義真、そこまでは、立派な天台大師の教えを守ってきた天台宗だったのです。その後三代目の慈覚、五代目の智証という男がはいりまして、理同事勝といって、真言を入れてしまった。真言の方では、理は法華経と同じであるが、印と真言がこちらにはあるからまさっているというのです。事の方が勝れると称して取り入れて、清浄無染の立派な比叡山も、この慈覚、智証から濁ってしまう。土泥となってしまう。もう泥のような山になってしまって、臭くてどうしようもない山になってしまった。

 その上、山法師がいて、寺だか、お城だか、軍人のいるところだかわからなくなってしまった。それが比叡山です。腐れ果ててしまったのです。

 

 彼の摩黎(まり)山の瓦礫(がりゃく)の土となり栴檀林(せんだんりん)の荊棘(いばら)となるにも過ぎたるなるべし

 

 たとえていうならば、金山であるところの摩黎山が瓦や小石の山と変わり、栴檀の茂っている林が、栴檀なんかなくなって荊棘に変わったようなものである。

 

 夫れ一代聖教の邪正偏円(じゃしょうへんえん)を弁(わきま)えたらん学者の人をして今の延暦寺の戒壇を蹋ましむベきや

 

 一代聖教の勝劣浅深、正邪をわきまえる学者に、どうして延暦寺の戒壇を蹋ませられましょうか。実にそういうことをさせれば、仏罰を被る恐れがあるというのです。

 

 此の法門は義理を案じて義をつまびらかにせよ、此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり

 

 此の法門、南無妙法蓮華経の三大秘法。これは義理を案じて、すなわち、どういうわけだ、理論はこうだということをきわめて、そうしてその義に通じなければならない。

 次はこわいおことばです。この三大秘法は二千余年の当初、地涌の菩薩の上首、統領として、上行菩薩という資格において、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承した。きちんと大覚世尊に会って、その場で、この三大秘法を口決相承してきているというのです。それはたしかに間違いのないことです。不肖、私もその座に連なっていたのです。あなた方も連なっていた人達です。(拍手)

 それは荘厳な儀式でありました。口でいわれません。その座に連なったればこそ、今、私は化儀の広宣流布をしなければならないために、生まれてきたことになってしまったのです(拍手)。あなた方だって、その時に、いたのです。その時にいっしょにいなければ、どうして今、私に三大秘法抄の講義を聞くことができるでありましょうか。いっしょにいたればこそ、こうして講義を聞けるのです。なお自覚していただきたい。(拍手)

 

 今日蓮が所行は霊鷲山の稟承(ぼんじょう)に芥爾(けに)計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。

 

 大聖人様は、霊鷲山において口決相承した、すなわち稟承した。稟承とは口決相承のことです。受けたところの南無妙法蓮華経であって、霊鷲山において、説かれたものとひとつも変わらない、霊鷲山の振舞いそのままだと仰せです。

 

 問う一念三千の正しき証文如何、答う次に出し申す可し此に於て二種有り、方便品に云く「諸法実相・所謂諸法・如是相・乃至欲令衆生開仏知見」等云云、底下の凡夫・理性所具の一念三千か

 

 すなわち、三大秘法の南無妙法蓮華経と申しますと、これ一念三千となる。天台の説いた一念三千は、本尊は理の一念三千であり、大聖人様の顕わされた本尊は事の一念三千と申します。故に、一念三千とはその体なにものなりやというのです。

 

 そこで、われわれ凡夫にも一念三千があります。御本尊も一念三千です。ですから仏界の一念三千も、われわれの一念三も即一念三千は同じです。よって師弟不二の境涯です。所化もって同体なりということと同じです。

 また諸法実相、実相というと本尊ということですが、諸法は如是相、如是性、如是体とずっと経文が続きまして、「仏知見を開かしめんと欲す、仏知見を示さんと欲す、仏知見を悟らしめんと欲す、仏知見に入らしめんと欲す」と、開示悟入という経文まで、ずっと如是相から続いてくるのですが、そこのところを、経文の文証として大聖人様がお顕わしになる。「諸法実相」のところが、略開三顕一、「欲令衆生開仏知見」のところが、広開三顕一となります。

 

 仏知見を開くという。その仏知見というのは、われわれ底下の凡夫の中にあるから、開くことができるのです。底下の凡夫の中にあるから、示すことができる。底下の凡夫の中にあるから、悟らせられる。底下の凡夫の中にあるから、仏知見に入らしめることができるのだという経文を引いて、これは、われわれ凡夫のもっているところの一念三千であると、こう仰せられているのです。

 

 寿量品に云く「然我実成仏已来・無量無辺」等云云、大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり

 

 ところで、寿量品に「しかして、我れ実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫」とあります。

「大覚世尊」すなわち仏という意味です。「久遠実成の当初証得の一念三千なり」、仏が久遠元初に証得したところの一念三千、それが寿量品に説かれています。この経文では、仏が事実の上に、一念三千を証得したことを説きあらわしているのです。

 だが釈尊の仏法は本果妙であり、大聖人様の仏法は本因妙です。したがって、この経文を、本果妙の釈尊の仏法で読めば、釈尊の五百塵点劫の証得であり、本因妙の大聖人の立ち場からいえば、久遠元初自受用身如来の証得です。

 

 今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり

 

 すなわち、この事の一念三千は、釈尊が、五百塵点劫に証得した、その体にあたるもので、釈尊の証得それ自体ではありません。これこそ久遠元初の南無妙法蓮華経、凡夫所具の一念三千であり、これをば、大聖人様は、広宣流布するのです。すなわち大聖人様の広宣流布は、法体の広宣流布、化法の広宣流布とも申します。

 

 われわれの広宣流布は、化儀の広宣流布、化儀の広宣流布をわれわれはすることになるのです。

 

 予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置かずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し

 

 もし、この三大秘法のこと、また戒壇建立の命令、これを書きつけておかなかったならば、さぞや門家の弟子ども、遺弟たちは、後になって、大聖人様は、御慈悲のない方であると恨むであろう、こう思われたのです。この御書がはっきりしませんと、三大秘法をはっきりすることができないのです。この御書において、三大秘法ということが、はっきりと立てられているために、大事なのです。

 

 其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き送り候

 

 後になって後悔しても困るから、あなたに対して、これを書き送っておきます。大田金吾殿は、よほど信心の厚い方なのです。

 

 一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し

 

 自分が読んだならば、他見をさせてはいけない、隠しておきなさい。人にいってもなんの利益もない。ただとっておきなさい。かならず、これが現われる時がくるから、という意味です。

 

 法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり

 

 法華経をもって、仏の出世の本懐という意味は、この三大秘法、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇という三大秘法を含んだ経文だからです。

 

 秘す可し秘す可し。

   弘安四年卯月八日   日 蓮 花 押

 大田金吾殿御返事

 

 隠しておきなさい、隠しておきなさいとおっしゃっているのです。秘す可し、秘す可し、そういうと、これは隠した経文だからといって、口外も詮なし、すぐ忘れてもいいなということになってしまって、帰りまでにみな忘れて帰るだろう。(笑い)そうではなくて、時がくるまで大切な御書だから、秘しておきなさいというのです。