問て云く寿量品専ら末法悪世に限る経文顕然なる上は私に難勢を加う可らず然りと雖も三大秘法其の体如何

 

 寿量品が、末法悪世の経文であることは明確になった。明らかになった以上は、私に難勢を加う可らず、自分の勝手な私論で、批判してはいけません。

 しからば三大秘法というのは、いかなる本体であるのか、その姿を、相貌を知らしてもらいたいというのです。

 

 答て云く予が己心の大事之に如かず汝が志無二なれば少し之を云わん

 

 大聖人様の己心の大事、仏の心に思っているところの大事は、この三大秘法だけである。これにこしたるものはないのである。

 一大事である。

 それでは、まず答えてあげましょう、というのです。

 

 寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈是れなり

 

 寿量品に建立する所の本尊は、と三大秘法のうちの本門の本尊を今から説かれていくのです。

 先には寿量の一品のみが末法嫡時の仏法であると仰せられ、そこで今度は三大秘法を説くにあたって、寿量品に建立するところの仏は、御本尊は何かということを説かれているのです。本尊ということをここできちっと示されております。インドの釈尊については、全然なんともいっていません。五百塵点の当初というと、釈尊第一番成道の五百塵点劫のその時ではないのです。それより以前、久遠元初という時です。その時から此土有縁(しどうえん)、此土は娑婆世界です。婆世界に縁の深い。深厚本有(じんこうほんぬ)、深く厚いとあります。本有、誰がつくったものでもなくもともとあった。無作三身の教主釈尊であった。すなわち、いつでも私が申しますように、久遠元初の自受用報身如来様、あるいは南無妙法蓮華経様とも申す方が教主釈尊です。本尊は、寿量品に建立するところの本尊、此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊であると、このようにはっきりしているのです。これを身延の輩や仏立宗の連中、八品派の連中は、これほどはっきりしているのに、久遠、五百塵点、久遠実成の色相荘厳の脱益仏である教主釈尊であるというのです。それはじつに内容が違っているのです。

 

 深厚本有無作三身といったら、もうこれは、インドの釈尊ではない。釈尊の系統では全然ない。これは久遠元初の自受用報身如来とはっきりしています。これを読めないから、それを釈尊ととる。読むとどうしてもインドの色相荘厳の釈尊ではなくなってしまうので、三大秘法抄は偽書だなどといいだす。大聖人様でなかったら、誰がこんなもの書けますか。この御書を偽作した人は日蓮大聖人様と同じ人です。ほかの僧では、書けるわけがない。偽書の作りようがない。絶対確信に満ちた御書です。

 ただ、これは後になるとわかるが、他言するな、秘しておけという御命令があります。

 そのため、代々どこにも世に出さなかったのです。太田金吾殿の系統で、日淳という四代目の方がきちんと書いています。お認めになっているのです。そういうわけで、ずっと隠されていて、途中からあらわれたので偽書だというのですが、それは最初のあいだはこんなこといっても本気にしません。信じません。謗法になると可哀想だというので秘しておいたのです。それなのに身延の連中は、なんでも自分のつうの悪いものは、ウソだ、ウソだというのです。しかし、事実は事実なのですから、どうにもなりません。ここで本尊論がはっきりとしてくるのです。

 

 寿量品に云く「如来秘密神通之力」等云云、疏の九に云く「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等云云

 

 寿量品の如来秘密神通之力、これは次に説明があります。

 一身即三身、この仏様とおっしゃると、まず法身如来、これは仏の命です。仏の智慧これは報身如来です。仏様の肉体そのものは応身です。この一身即三身なるを名づけて秘となすのです。

 三身即一身、すなわち、無作の法身、無作の報身、無作の応身と三身を立てても一身になる。これを名づけて密となすのです。

 また昔から御本尊様は説かない。われわれの身の上のことについても、なにもお説き下さらない。これを秘とします。

 仏のみがいっさいを知っているのを密とする。ですから御本尊を拝むときに、われわれにつたわってくるのです

 仏は昔から三身を具しているのであるが、法華経以外の経文においては、これを秘して伝えない。それが秘密神通之力です。

 はっきりと今度は三身を寿量品において説いているのです。

 

 これで本門の本尊論は終わる。次は本門の題目にはいります

 

 題目とは二の意有り所謂正像と末法となり、正法には天親菩薩・竜樹菩薩・題目を唱えさせ給いしかども自行ばかりにしてさて止ぬ、像法には南岳天台等亦南無妙法蓮華経と唱え給いて自行の為にして広く他の為に説かず是れ理行の題目なり

 

 すなわち、題目には二つの意がある。理行の題目と事行の題目である。事の題目と理の題目がある。正法、像法には理の題目である。すなわち自行、自分だけの題目なのです。天親菩薩も、竜樹菩薩も、自分では正法時代に南無妙法蓮華経を唱えたのです。あるいは南岳、天台も伝教も南無妙法蓮華経を唱えた。それはことごとく理の題目です。自行の題目です。

 

 末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり名体宗用教の五重玄の五字なり

 

 さて、しからば末法の題目はといえば、自行の題目ではない。自行化他にわたる題目である。前には本門の本尊を説き、ここでは本門の題目を説き、その本門の題目は事行の題目で、自行化他にわたる題目であるとこう決定あそばされたのです。

 

 名体宗用教と申しますのは、南無妙法蓮華経という名前があります。名前があればかならずがある。その体があれば、かならずといってほかと違ったものをもっている。そしてというのは働きであり、とは教えである。この五つそろった南無妙法蓮華経が、すなわち、末法の題目であるというのです。

 

 戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり

 

 この次は戒壇です。本門の戒壇とはなにものであるか。王法仏法に冥じ、王法すなわち、国の法律、政治、というものが仏と冥ずる。冥ずるということは無理に仏法に合わせるのではない。自然に仏法に合うようになってしまう。これは仏法と違うからどうこうというのではない。やっていく政治、法律が、自然に仏法と同じ形をとっていくのです。それが冥ずということです。

 

 今、日本の国の王法、すなわち国の政治、国の法律が仏法に冥じておりましょうか。赤ん坊は、人間が多いから堕胎してしまえなどと。仏様が赤ん坊を殺してしまえなどとはいいません。しかし、国の法律はなにも妨げていない。これはどういうことでしょう。王法が仏法に冥じているわけではありません。人間が多いから殺してしまえなどと、子供も育てられない者が女房をもらうのがそもそも悪い。そうでしょう。そんな意気地のないことではいけない。子供の五人や十人育てるくらいの勇気がなければ、私なんか十一番目だから、今のような思想だったら、とっくに消されてしまっています。(笑い)

 

 子供は、悪い子供を産んでは悪いが、良い子だったら何人いたっていいでしょう。良い子を産むには、題目を唱えて良い子を産めばいいのです。そのほか色々な法律でも政治でもみてごらんなさい。今は、さっぱり王法が仏法に冥じておりません。

 

 ここにわれわれが、やはり政治家をも養成していかなければならないし、訓練もしていかなければなりません。

 

 王法が仏法に冥ずる時がこなければ、戒壇の建立ができないのですから、どうしてもこれはやらなければならないことがはっきりするでしょう。

 

 仏法がまた王法に合しなくてはならない。国の民衆の利益というものをば図る仏法でなければなりません。

 

 立正佼成会みたいに、自分ところの土地ばかり買ってそれで訴えられたり、身延の管長が四千万円横領したとかいって訴えられたりして、それでいくら信仰したからといって、さっぱり利益もなにもない、それでいて賽銭を、よこせよこせと餓鬼みたいではないですか。これは仏法王法に合していない。日本国では王法も曲がっていれば、仏法も曲がっているではありませんか(笑い)。

 

 困るのはわれわれだけです。今度、突貫道路を作るというのです、一日一円のなんとかで、会社をつくって突貫道路を作ると、冗談ではありません。そんな会社をつくるようなこと考えたら、そういうことをいう者は一回、夏に北海道の旭川から先まで汽車に乗せてみればわかる。油煙がはいって真っ黒になってしまうのですから、そんないらないことを考えずに、早く電化して、単線を複線にするくらいのことを考えた方がいいでしょう。鉄道員は、しょっちゅうストライキばかり起こして、金よこせ金よこせと、餓鬼みたいなものです。

 

 もう少し一致協力して、単線を複線にしたり、あるいはまた、なにかしなければならないでしょう。考えてみればやらなければならないことばかりでしょう。やらなくてはならないといっても私がやるわけではないのですが、政治家にまかせておけば、悪いことばかりやっている。それはそうでしょう。選挙の時に一千万円もかけてやったら、悪いことしなければならない。六年間で一千万円回収しなければならない、なかなか忙しいことです(笑い)。だから、官庁は官庁で汚職ばかりしている。汚職というのは、本当は官庁などにあるべきことではない。

 汚職、女郎は吉原にいる(笑い)。これは王法仏法に冥じ仏法王法に合しないから、そういうことになるのです。

 

 よくよく考えなければならないことです。ここのところだけは、よく頭の中に入れておいて下さい。これからわれわれがやらなければならないことなのです。

 それから、王臣一同、今は王といっても天皇陛下は力がない。これはなんとかしなくてはなりません。おいたわしいです。今の総理大臣が王としての権力があるのです。王臣一同ですから、臣民のわれわれ民衆もです。振り返ってみると、主権というものが、今までは日本の国では天皇にあったわけです。ところが主権在民になりまして、主権はわれわれの手にある。ここに議会政治とは、広宣流布する時に議会政治というものを見のがしてはならないところがあるのです

 あなた方にも主権がある。その主権を立派に行使すればいい。考えようによると、あなた方のほうが王様になっている。王臣一同というと、あなた方は王であり臣であるのです。両方かねているのです。主権はあなた方にあるのだから、王臣一同に三秘密の法を持ちて、すなわち三大秘法を持ってと、こういうふうになるのです。われわれが本尊流布することは、この御言葉にかなうことなのです。

 

 そして「有徳王、覚徳比丘の其の乃往」有徳王とは、非常に正法を信じた人です。覚徳比丘とは正法の師です。

 その覚徳比丘を邪宗の者が責(せめ)たというのです。そこで、有徳王は覚徳比丘を守って戦ったため、からだにあますところなきまで傷を被った。そして、その眷属とともに死んだ。次に仏土に有徳王と覚徳比丘はともに生まれたのです。有徳王がその時の仏の第一番弟子、覚徳比丘は二番弟子であった。そういうふうに生まれて仏になることができたと、このように、正法を護る心の強い人たちが、その指導者の位置についた時にという意味です。

 

 戒壇を建立す可き者か。すなわち、そういう時代に、正法を護る指導者がたくさんできて、正法のためならばあえて一身をも惜しまないという人たちが出てきた時に、勅宣並びに御教書が出される。これがまためんどうです。

 

 勅宣というのは、形式的に「法華本門の戒壇を建立しなさい」という天皇のお言葉です。

 

 ところが、今までの天皇陛下というのは皆、阿弥陀の親類なのです。念仏宗の親類になっている。これはまことによくありません。戦争に負けなければ、絶対に勅宣なんか出しません。御教書というのは、総理大臣の許可書になるわけです。すなわち、今でいえば、国民の意思を代表する衆議院、参議院の賛成を得て本門戒壇を建立しなくてはならない。これまたなかなかの難事であります。

 ここにわが学会が、好きときらいとにかかわらず、選挙戦に出なければならぬ、根本的理由があるのです(拍手)。ただ好きこのんでやるのではありません「勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か」ということは、富士山に戒壇を建立すると、大聖人様はおっしゃっているのであって「時を待つ可きのみ事の戒法とは是なり」、時を待つ可きのみ、ということは、後の者がやりなさいということです

 

 時がくるから、その時はかならず建立せよというのです。今、まさにその時がきている。ですから、今やらなければならないのです。われわれは命令を受けて生まれてきたのですから、戒壇建立は、われわれの手でやらなければなりません。これは至難事中の至難事です。出てこなければよかったと思うのですが、出てきたんだからしょうがない(笑い)。皆さんも、あきらめて戒壇建立を一生懸命やってください。(拍手)