三大秘法稟承事講義(御書全集一〇二一ページ)
夫れ法華経の第七神力品に云く「要を以て之を言ば如来の一切の所有の法如来の一切の自在の神力如来の一切の秘要の蔵如来の一切の甚深の事皆此経に於て宣示顕説す」等云云
この神力品というのは、別付属といって、仏より上行菩薩へ、この三大秘法を付属し賜わった品であって、大聖人にとっては、ひじょうに大事な経文になっております。
如来の一切の所有の法とは仏がもっている一切の法、それは南無妙法蓮華経です。
如来の一切の自在の神力とは、すなわち本門の戒壇です。
如来の一切の秘要の蔵、これは本門の本尊であります。
如来の一切の甚深の事、これは題目です。
この三大秘法を皆この経において、宣示顕説す、すっかりと、あらわに説く、はっきりと述べているというのです。
釈に云く「経中の要説の要四事に在り」等云云
また、これを説明しているのには、要説の要は、如来一切の所有の法、如来一切の自在の神力、如来一切の秘要の蔵、如来一切の甚深の事というこの四句に、四つの言葉につきている。もっとも要のところであるというのです。
問う所説の要言の法とは何物そや
しからば、如来一切の所有の法とか、あるいは如来一切自在の神力とかというのは、いったいどういうものだと質問を起こしまして、次にそれに対してのお答えであります。
答て云く夫れ釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし
四味三教、四味というのは牛乳の乳味、酪味、生蘇味、熟蘇味のことで、華厳、阿含、方等、般若が四味になります。醍醐味が五つ目で法華経にあたるのです。三教というのは、蔵教、通教、別教です。その次に、広開三顕一と申しますのは、広く三を開いて一を顕わすということです。三を開くというのは、菩薩になる法、声聞、縁覚になる法、これが三乗であります。この三つの教えは本当のものではないというのです。捨てるのではなくてこれを開くのです。人間というものは一仏乗、仏になることが大事だということを説いて、その次に略開近顕遠、開近顕遠ともいう。略とはほぼということです。仏というものは近い時代に仏になったのではない。仏というのは永遠の昔に仏になったのである。このことをほぼ説くのです。これが従地涌出品です。これは、如来が初めて悟りを開かれて、道場において法を説きはじめてから涌出品まで隠しておかれた。その秘しておかれたものは、なにものだというのです。
実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり
ところで実相証得の当初というと、インドの釈尊は五百塵点劫の昔仏になっていた。さらにその当初ということで久遠元初のことです。実相証得というと五百塵点劫の時宇宙、生命の真実の姿というものを証得した、心に悟ったということです。その当初修行した、すなわち五百塵点劫の当初、久遠元初に修行したところの寿量品の本尊と戒壇と題目の五字、南無妙法蓮華経であるということです。それがすなわち、根本のものだというのです。
教主釈尊此の秘法をば三世に隠れ無き普賢文殊等にも譲り給はず況や其の以下をや
教主釈尊、この教主はインドの釈尊ではありません。久遠元初の自受用報身如来です。インドの釈尊は大聖人がお呼びになるには、大覚世尊と呼んでおります。ですからインドの釈尊でもなく、また五百塵点劫第一番成道の釈尊でもない。その奥の久遠元初の自受用報身如来、これが教主釈尊です。
そこで、この教主釈尊は、法を普賢文殊にも譲らない。三世に隠れなき、すなわち普賢菩薩も文殊師利菩薩も共に仏教界では有名な大菩薩でありますが、その普賢も文殊もみな迹化の菩薩と申しまして、本化の菩薩と比べると位がずっと違うのです。ですから、いくら有名であっても、普賢や文殊には譲らないし、ましてや、それ以下である弥勒や観音菩薩等に譲られるわけがないというのです。
されば此の秘法を説かせ給いし儀式は四味三教並に法華経の迹門十四品に異なりき
さて、この秘法、南無妙法蓮華経を説かせたまいし儀式は、インドの釈尊およびさかのぼって五百塵点劫の釈尊も、みな四味三教を説いているが、その四味三教を説いたその儀式とは全然ちがう。また、迹門の時に説かれた儀式とも全然ちがうというのです。
所居の土は寂光本有の国土なり能居の教主は本有無作の三身なり所化以て同体なり
所居の土すなわち、みんなのいる所は寂光本有の国土で寂光土である。仏の世界であるというのです。
能居の教主、この経を説かれる仏は、どういう仏であるかと言うと、本有無作の三身である。本有無作とは、無作に対しては造作とも有作ともいいますが、われわれが何かを造る、そういう作ったものではない。だれからも働きかけられたものではない。したがって、当然本有であります。無作三身とは無作の報身、無作の法身、無作の応身をいうのです。その三身が即久遠元初の自受用身の一身にそなわるのです。この一身がまた三身に開かれるのです。すなわち久遠元初自受用身の如来、即本有無作の三身如来が能居の教主である。また、所化、弟子たちは皆その本有無作の三身と同体である。
かかる砌(みぎり)なれば久遠称揚(くおんしょうよう)の本眷属・上行等の四菩薩を寂光の大地の底よりはるばると召し出して付属し給う
そういう大秘法でありますから、普賢文殊等には譲らない。もともと久遠元初の本有無作の三身如来の眷属である上行菩薩、無辺行菩薩、安立行菩薩、浄行菩薩等の四菩薩を棟梁とした地涌の菩薩を、寂光本有の本土の地から呼び出して、この三大秘法の南無妙法蓮華経を付属したのです。
道暹(どうせん)律師云く「法是れ久成の法なるに由る故に久成の人に付す」等云云
この法は久成である。久遠以来のものであるから、久成の人に付す、すなわち、上行菩薩、無辺行菩薩等の四菩薩を棟梁とした地涌菩薩に付属したのである。
問て云く其の所属の法門仏の滅後に於ては何れの時に弘通し給う可きか
その上行、無辺行菩薩等に付属した法門は、いつの時にこれは弘まるのかというのです。
答て云く経の第七薬王品に云く「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」等云云
すなわち、薬王品にその時を説いて、悪世末法の時、一閻浮提に広宣流布して断絶せしむることなけん。世界にこの法が弘まって、けっして絶えることがないという予言がある。後五百歳といいますと、釈尊の滅後、はじめの一千年を正法といいます。これを五百年、五百年にきる。後の像法の一千年、これも五百年、五百年にきってしまう。
そして、その二千年終わって、すなわち一の五百歳、二の五百歳、三、四と四つ終わって、第五の五百歳は、末法の五百年をいうのです。その時に広宣流布して、一閻浮提に弘まって断絶せしむることがない、との予言どおりであると。こういうのです。