経王殿御返事講義(御書全集一一二四ページ)
この御書は短いけれども、内容は深いものがあります。
其の後御をとづれきかまほしく候いつるところに・わざと人ををくり給候
昔は、電報とか電話とかがありませんから、その後どうしたであろうと思っていたというのです。そこへ、人を遣わして、今度の訪れがあった。
このように大聖人様はお喜びであるけれども、その内容たるや、わが子の病気を御祈念願おうというお手紙であるゆえに、御心配があるのです。
又何よりも重宝たるあし山海を尋ぬるとも日蓮が身には時に当りて大切に候。
御供養に対するお礼です。金吾殿からお金を奉ったのです。四条金吾殿という方は、大聖人様が、由比が浜辺で首を斬られるならば、自分も追い腹切って死のうとした方です。この方は、ご家老の身分ですから、奉るものはたいてい金なのです。
「いま、日蓮が貧乏している。そのときに、この金をもらったのは、まことにありがたい」といわれるのは、大聖人様がお使いになるのではなく、折伏に出す弟子たちにやるお金がないところに、そこへいただいたことは、ありがたいというお言葉です。
夫(それ)について経王御前の事・二六時中に日月天に祈り申し候
経王殿とは四条金吾殿の子供だろうと思う。その子が、病弱であるか、あるいはなにかのお願いであるか、大聖人様が、天地神明に誓って、大聖人様のお心に思いを込めて祈ると仰せられているのです。
この間も、東京で、こういう話があった。臨時総会を開いたときに、こんど大阪で、私の精神に反した連中を除名処分にした。ところが「除名処分だけでは、あきたらない」とこういう者がいた。あきたらないといっても、それ以外に私に力はありません。なぐるわけにも、けとばすわけにもゆかない。
だが、戸田城聖の除名処分を受け、満足にこの人生を送る者があったら、私の命にかけてもお目にかける(大拍手)。諸君らも、私の除名処分にだけは、ならないようにしなさい。私の除名処分は、たんなる名目の除名処分であるとしても、仏法律からいって、力があるのです。それで満足にこの世の中が送れたら、除名処分の資格はありません。そういう者は一人もいないのです。
この前に、今から四、五年前だったと思うけれども、仙台の原ノ町というところで、班長ですけれども、四、五十人の会員をもっていた。なにかインチキをやりたくなったので、末端はわからないのだが、上の五人ほどのものが、学会脱退を申し出てきたのです。「よろしい。戸田城聖に弓をひいて、満足な生活ができるなら、やってみなさい」といった。案の定です。君らが行って調べてきた方が早い。
大聖人様が経王殿のことを、日夜お祈り下さった。私も本山でよく御祈念をいたしますが、「祈りとして叶わざるなし」です。しかしそれも信心のていどによるのです。
もったいないけれども、戸田城聖が大御本尊様にお願い申し上げて、かなわぬことはない。ましてや御本尊様御自体に偉大なお力があるのです。経王殿の命をどこまでお助けあそばしたか、かならず祈りがかよっているはずです。
先日のまほり暫時も身を・はなさずたもち給へ
お守り御本尊様を授けてあるのですから、からだから離さず、身に付けておきなさいとおっしゃるのです。
其の本尊は正法・像法・二時には習へる人だにもなし・ましてかき顕し奉る事たえたり
正法というのは、釈尊滅後千年の間、像法というのは、釈尊滅後二千年の間に、誰も書き顕わしたものがないという。そのお守り御本尊様を、今あらわして、あなたに授けたのだから、からだから離してはあいならんぞとおっしゃっているのです。
師子王は前三後一と申して・ありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時も・いきをひを出す事は・ただをなじき事なり
ライオンの働きを、お示しになって、大聖人様も、それと同じだと仰せられているのです。
たとえ、小さな物を取るときでも、前へ三歩出て、あとへまた一歩退いて、それから襲いかかっていくという。
それと同じ心をもって書き顕わした御本尊であるからして、これを大事にしなさいという御教訓であります。
日蓮守護たる処の御本尊を・したため参らせ候事も師子王に・をとるべからず
今、大聖人様が、大御本尊様をお認めあそばされた境地というものは、師子王にも劣らぬ用心をもって、認めてあるというのです。
経に云く「師子奮迅之力」とは是なり
師子奮迅の力というのは、法華経の従地涌出品に表わされたことばであります。
「獅子奮迅の心をもって、真実を今まさに語らん」とおっしゃったときの、経文をお引きになっているのです。
又此の曼茶羅能く能く信ぜさせ給うべし
曼荼羅というのは、功徳聚ともいいます。曼茶羅というのは、梵語でありまして、功徳の集まりと読むのです。
皆さんのお家に、まつってある御本尊様のことを申し上げるのです。その御本尊様を、よくよく信じよということです。
南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや
師子は、けだものの中では、一番力のあるものです。師子の吠ゆるがごとき、力をもつものです。南無妙法蓮華経と唱えるその声は、師子の吠ゆるがごとき勢いをもつものであると、大聖人様が仰せられているのです。
鬼子母神・十羅刹女・法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり
これは、法華経の陀羅尼品第二十六にある誓いなのです。鬼子母神というのは、人の子供を食うのです。十羅刹女とは、鬼子母神の十人の子供で、羅刹というのも鬼ということです。それらが、南無妙法蓮華経と唱える者を、かならず護るという誓いを陀羅尼品でしているのです。それを大聖人様がお引きになっていらっしゃるのです。
さいはいは愛染の如く福は毘沙門の如くなるベし
愛染明王・毘沙門天、これは多聞天ともいいますが、御本尊様の左の肩の上に、お認めになられている、天界の力の強い衆生です。それらのように、南無妙法蓮華経と唱えるならば、その功徳は、このからだに集まると仰せられているのです。
いかなる処にて遊びたはふるとも・つつがあるベからず遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし
どこで、経王殿が遊んでおられようとも、この御本尊をからだに付けているならば、師子王のごとく、誰人もからだに手をつけられない。つつがなくおられるであろうから、安心して、この御本尊をからだに付けて、やりなさいとの仰せです。
十羅刹女の中にも皇諦女の守護ふかかるベきなり
皇諦女というのは、十羅刹女の中の一番のねえさんで、その皇諦女がかならず護ってるからして、安心していなさいと仰せなのです。
但し御信心によるべし、つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし
しかし、それも親の信心がもとだといわれるのです。親がしっかりと、信心をしていきなさいというのです。
法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼうたるべし
法華経の功徳の剣というものは、信心のある者が使えるのであって、信心のない者には使いようがないというのです。夫婦ゲンカなどに鬼にカナボウなどと、火箸なんか持って、こられたのではたいへんです(笑い)。そういうカナボウではない。鬼がどんなに強いといっても、カナボウがなくては戦えないのですから、法華経の剣も、それと同じであるぞとおっしゃっているのです。
日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ
御本尊のことです。大聖人様の御生命を、墨に染め流して書きて候ぞ、しっかり信じなさいと、こうおっしゃっているのです。
仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし
ここが、めんどうな読み方なのです。仏というのは、釈迦仏をいっているのです。釈迦如来は法華経をもって生命とし、大聖人様は、南無妙法蓮華経をもって生命となさっていらっしゃる。ここに、釈迦仏法と、大聖人様の仏法との相違を明らかにお示しになっている。今の邪宗の僧侶には、これが読めないのです。法華経だ、法華経だと思っている。これほどはっきりした違いが、読めてもよさそうなものだと思うのですが、勉強をしない者は読めない。読めない者には、しかたがないから教えるけれども。それでも、まだわからない者がある。皆さんぐらいは、これを覚えておきなさい。
妙楽云く「顕本遠寿を以て其の命と為す」と釈し給う。
妙楽という方は、天台より約二百何十年か後に生まれた人でありますが、法華経の学問では、天台か、妙楽か、日本では伝教かといわれているほどの人です。顕本遠寿というのは、われわれの生命論を論じたものであります。
われわれの生命というものは、顕本、もとをただせば、遠寿であると。遠い昔に生命があったんだと。仏はもちろんです。十億劫とかいう短い生命では、仏になれないといわれている。仏というのは顕本遠寿。それが寿量品の極理なのです。それを妙楽はこういっていると、大聖人様は、妙楽の文を用いて説明するのです。
経王御前には・わざはひも転じて幸となるベし
すなわち禍いが起こる、その禍いを福としなければならない。今からだの弱いことをもって、今度は丈夫なからだにしなければいけないと。それを変毒為薬と申します。毒を変じて薬となす、これが妙法蓮華経の極理であります。
あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ
だからここで、御本尊を信じ切らなければならないというご説法であります。
何事か成就せざるベき「充満其願・如清涼池・現世安穏・後生善処」疑なからん
ここで信心を強くしたならば、現在は幸福になり、後の世はしあわせなところへ生まれることは疑いのないことであります。法華経の薬王品の言葉をお用いになっているのでありますが、これは実際の問題なのです。
又申し候当国の大難ゆり候はば・いそぎいそぎ鎌倉へ上り見参いたすべし
急ぎ鎌倉へよって、何事かあらば勤めなさい。武士としての仕事に精励せよということです。今の言葉でいえば、商売をきちんとやりなさいということです。とうふ屋はとうふ屋、米屋は米屋、さかな屋はさかな屋で、商売をきちんとやりなさいとの仰せです。
法華経の功力を思ひやり候へば不老不死・目前にあり、ただ歎く所は露命計りなり天たすけ給へと強盛に申し候
法華経の功徳は、商売や、日常生活に現われるけれども、ただ問題は生活の問題です。この御書から拝しますと、経王殿はきっと弱かったのでしょう。ただ天たすけ給え、御本尊様お助け下さいと祈る以外に、道はないぞと仰せなのです。
私もときおり、命のあぶない人から、色々いわれることがあって、御本尊様へお願い申し上げるときがあります。だが、命ばかりは、金では買えません。御本尊様でも時によってはお助けいただけないときもある。
向島支部の支部長は、今、若い人ですけれども、前に、そのおとうさんがやっていたときに、この父親がインチキ者なのです。支部長でいながらインチキばかりやっていたのです。そうしたところが、いよいよ病気になって、僕に詫びにきたいというのです。気にかけていて、飯も一か月くらい食わないでいるというのだから、かわいそうで私のところへこいというわけにいかないのです。医者はもう全然ダメだといい、死ぬばかりなのです。「そんな無理をさせるな。では私が行ってやろう」と、私が行ってやりました。場合にもよりけりですが、命ばかりは助けられません。もうなんにも食べないし、全然ダメなのです。そこで御本尊様へ、三言、お願いしたのです。そうしたら「飯を食べたい」といい出したのです(笑い)。奥さんが、リンゴの汁なんかを湯飲みに入れ、飲ましたら、三口ほど飲んだ。焼酎ばかり飲んでた人だから、「なんだ、おまえ」と私がいった。「そんなもの飲んで、平気なのか。焼酎でも飲むようになれよ」といったら「へへへ……」と笑っていました(笑い)。そうしたら奥さんが、ワーッと泣き出した。オヤジさんが笑ったのは、何十日ぶりだっていうのです。とうとうなおって、僕のところへあいさつにきたのです。みんなは、幽霊ではないかというのです。
それから私は、女房や子供にいったのです。「これは治ったのではない。死ぬ前の状況だ。死ぬから」と。案の定、年の暮れの三十一日に死んだ、正月の葬式です。だけど、一遍は、治ってあいさつにきたのです。御本尊の功力というものは、凄いものです。私がやったのではないのです。御本尊様に頼んだからして下さったのです。
一つ私の方も、先生が頼んで借金取りがこないようにしてくれなどと、いったってだめです。(笑い)
浄徳夫人・竜女の跡をつがせ給へ、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、あなかしこ・あなかしこ。
八月十五日日蓮花押
経王殿御返事
浄徳夫人については、またおもしろい話があるのです。これは法華経の妙荘厳王品というところに出てくる人の名前なのですけれども、浄徳夫人というのは、おもしろい奥さんです。
何遍も話したと思いますが、昔、四人の同志がいて、仏になろうという研究会をやっていたのです。今の座談会みたいなものです。食べるのが急がしいから「誰か一人、弁当係をやれ」ということになった。一人が「私がやろう」といった。「ただし、あなた方が仏になったら、私を助けるのだよ」という約束をした。
そうすると、その弁当係をやった男が、来世に、妙荘厳王という王様に生まれたのです。仏の修行をする者に供養した功徳なのです。その他の三人が、一人は浄徳夫人という奥さんに生まれ、二人は、浄蔵・浄眼という息子に生まれてきた。そうして、とうとう妙荘厳王を法華経に帰依させて、仏の力を得させたのです。
竜女というのは、また別な話でありますけれども、そういうふうに、女でも仏になることができる。それと同様に、あなたもおやりなさいよという大聖人様の御説法です。