去文永八年(太歳辛末)九月十二日・御勘気をかほる、其の時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ、了行が謀反ををこし大夫の律師が世をみださんと・せしを・めしとられしにもこえたり、平左衛門尉・大将として数百人の兵者にどうまろきせてゑぼうしかけして眼をいからし声をあらうす、大体・事の心を案ずるに太政入道の世をとりながら国をやぶらんとせしににたり、ただ事ともみへず、日蓮これを見てをもうやう日ごろ月ごろ・をもひまうけたりつる事はこれなり、さいわひなるかな法華経のために身をすてん事よ、くさきかうべをはなたれば沙に金をかへ石に珠をあきなへるがごとし、さて平左衛門尉が一の郎従・少輔房と申す者はしりよりて日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出しておもてを三度さいなみて・さんざんとうちちらす、又九巻の法華経を兵者ども打ちちらして・あるいは足にふみ・あるいは身にまとひ・あるいはいたじき・たたみ等・家の二三間にちらさぬ所もなし、日蓮・大高声を放ちて申すあらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをすと・よばはりしかば上下万人あわてて見えし、日蓮こそ御勘気をかほれば・をくして見ゆべかりしに・さはなくして・これはひがことなりとや・をもひけん兵者どものいろこそ・へんじて見へしか
ここの項の、後半は大聖人様が召しとられた原因、前半は大聖人様が召しとられたありさまを仰せですが、目に見えるようではありませんか。
すなわち最初は由比が浜辺の御難です。その逮捕にきた者の逮捕の仕方が、無法である、法にすぎているというのです。大聖人様御一人つかまえに来るのに何百人も来た。了行も太夫の律師も、ともに北条幕府を滅ぼそうとしてつかまった人です。この人々よりも、なお無法なやり方だというのです。
平左衛門尉が大将で数百人の兵士に胴丸を着せて烏帽子をかぶって、戦争のしたくです。胴丸というのは、そのころの鎧です。そして眼を怒らし声を荒くしてやってきたというのです。
平左衛門尉のやり方は、太政大臣・平清盛が天下をとりながら、平家の滅亡の因をなすほどの、実にひどい政治をした。それと同じことだ。平左衛門尉が北条幕府の政治をとりながら、やることが法に過ぎている。すなわち自分を逮捕にきて、まさに死刑にしようとするのが、大聖人様としてはおわかりになっておられたわけです。
常日ごろ思っていたのはこれだというのです。
すなわち法華経に身を奉って、そして、この頭を刎ねられますならば、砂を金にかえ石を珠玉にかえるのと同じことである。喜ばしいことだとの仰せです。
そのときの光景です。少輔房というものが、勧持品の含まれているところの第五の巻でもって、大聖人様のお顔を三度まで叩いて、そしてさんざんにまき散らした。大聖人様はこの男に対して、この男の手は、からだが地獄におちても、この手だけは地獄におちまいとおっしゃった。逆言をいっているのです。法華経と申しますのは本文が八巻で、それに開経が一巻、結経が一巻、合して十巻です。その十巻のうち第五の巻はふところにはいっている。それでもって少輔房が打った。そして残りの九巻をまき散らした。中には、長く開いたから、からだにまかれたのもあるだろうし、床の上に二、三間、散らないところはないくらいにまき散らした。
ところで大聖人様は、自若として「あれみよ、平左衛門の気狂い沙汰よ、今、日本の国の柱を倒すところだ」と大声でいわれた。大聖人様が勘気をこうむって、そしてまさに首斬られんという時期に到達したんだから、大聖人様が青くなるだろうと思ったのに、今みたいに「平左衛門が気違いになった。日本の国を倒すところだ」と大声に呼ばわるから、思わく違いで、兵士達はみな青くなった。
仏様が泰然自若として、そのようにおっしゃれば、その声の響きで生命力の弱い連中は縮みあがったのでしょう。
十日、並びに十二日の間・真言宗の失・禅宗・念仏等・良観が雨ふらさぬ事・つぶさに平左衛門尉に・いゐきかせてありしに或はどっとわらひ或はいかりなんど・せし事どもはしげければ・しるさず、せんずるところは六月十八日より七月四日まで良観が雨のいのりして日蓮に支へられてふらしかね・あせをながし・なんだのみ下して雨ふらざりし上・逆風ひまなくてありし事・三度まで・つかひをつかわして一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうベきか、いづみしきぶいろごのみの身にして八斎戒にせいせるうたをよみて雨をふらし、能因法師が破戒の身として・うたをよみて天雨を下らせしに、いかに二百五十戒の人人・百千人あつまりて七日二七日せめさせ給うに雨の下らざる上に大風は吹き候ぞ、これをもって存ぜさせ給へ各各の往生は叶うまじきぞとせめられて良観がなきし事・人人につきて讒せし事・一一に申せしかば、平左衛門尉等かたうどし・かなへずして・つまりふしし事どもはしげければかかず。
これが召しとりの原因になっているのです。十日から十二日までの間に、評定衆において真言宗の失や禅宗・念仏等の失をいいきかせ、また良観が雨を降らせないことなどを話したので、あるいはあざ笑ってみたり、怒ってみたりした。その結果がこうなのだというのです。
ここは、評定衆に話した話のうちの一番代表的な良観の雨乞いの話をして、良観がいかに力がないか、成仏なんか思いもよらないということを話されたのです。すなわち六月十八日から七月四日まで十四日間 ー あのころは旧暦で一月が二十八日ですから ー その間、雨を降らせられなかっただけでなく、逆風が吹いたという。三度も使いをやって良観が汗をかき涙を流したというのです。一丈の堀を越えられぬ者が十丈、二十丈の堀をこえられようか。雨も降らせられないような仏力、法力をもって、往生成仏という十丈、二十丈にあたる大願を遂げられるわけがあろうかと仰せです。
和泉式部は、色好みの女で八斎戒に禁じてあるところの和歌を詠んで、雨を降らしたといいます。この八斎戒というのは、五戒のほかにある三戒の一つに、歌舞などをやってはいけないという戒があるのです。そのように仏法にいってあるのをきかずに歌って、ちゃんと雨を降らした。能因法師は破戒の身である。その人が天に祈って、歌でもって雨を降らしているのに、いったいどうしたのかというのです。和泉式部や能因法師は一丈の堀を渡った方であるが、良観、おまえ達は一丈の堀をも渡っていない。十四日の間も雨乞いをしながら、少しも雨が降らなかった。逆に大風が吹いた、いったい何事かというのです。
ところが、おまえ達の往生成仏はかなわないと大聖人様にいわれて、それが口惜しいので、良観房は人々について讒言したのだと仰せられております。そのことを平左衛門尉に教えてあるのだと。
平左衛門尉たち良観側の味方をしたけれども、結局、理論ではつまってしまったが、しげければ書かないというのです。
さては十二日の夜・武蔵守殿のあづかりにて夜半に及び頸を切らんがために鎌倉をいでしに・わかみやこうぢにうちいでて四方に兵のうちつつみて・ありしかども、日蓮云く各各さわがせ給うなベちの事はなし、八幡大菩薩に最後に申すベき事ありとて馬よりさしをりて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまことの神か和気清丸が頸を刎られんとせし時は長一丈の月と顕われさせ給い、伝教大師の法華経をかうぜさせ給いし時はむらさきの袈裟を御布施にさづけさせ給いき、今日蓮は日本第一の法華経の行者なり其の上身に一分のあやまちなし、日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきを・たすけんがために申す法門なり、又大蒙古国よりこの国をせむるならば天照太神・正八幡とても安穏におわすべきか、其の上・釈迦仏・法華経を説き給いしかば多宝仏・十方の諸仏・菩薩あつまりて日と日と月と月と星と星と鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、無量の諸天並びに天竺・漢土・日本国等の善神・聖人あつまりたりし時、各各・法華経の行者にをろかなるまじき由の誓状まいらせよと・せめられしかば一一に御誓状を立てられしぞかし、さるにては日蓮が申すまでもなし・いそぎいそぎこそ誓状の宿願をとげさせ給うベきに・いかに此の処には・をちあわせ給はぬぞと・たかだかと申す、さて最後には日蓮・今夜・頸切られて霊山浄土へ・まいりてあらん時はまづ天照太神・正八幡こそ起請を用いぬかみにて候いけれどさしきりて教主釈尊に申し上げ候はんずるぞいたしと・おぼさば・いそぎいそぎ御計らいあるべしとて又馬にのりぬ。
ここのところは、大聖人様が由比が浜で首を斬られるその前に、八幡宮に向かって申し述べた大聖人の御心境です。大聖人の仏法には、立正安国論に説かれた神天上説と申します法門がある。ゆえに、八幡宮には、その八幡大菩薩はそのときはおりません。けれども大聖人が己心の八幡宮をそこにまいらせて、はっきりと念をおしたところです。この大聖人己心の八幡は、すなわち全宇宙に瀰漫(びまん)する生命ですから、そのまま通ずるのです。
ところで、武蔵守殿というのは北条の一族でありまして、この方が知行していたのが佐渡の国です。それで佐渡へ流されることになるのですが、この人のあずかりで、その下知によって、いよいよ首を斬られるということになって夜半になって鎌倉を出られたのです。
八幡宮のある若宮小路で、大聖人は馬をとめられ、武士がたくさん警護しているなかで「ほかのことはない、騒ぐことはないが、ここで八幡大菩薩に最後にいうことが一つある」といわれた。
これだけの確信のある言葉は、仏様でなければいいきることはできない。馬より降りて高声でおっしゃられるのには、八幡宮はまことの神か。八幡大菩薩は過去を尋ねれば、インドの釈尊の応誕といわれ、また和気清麿のときに一丈の月とあらわれると歴史の上にはのっておりますが、これは有名な道鏡が皇位につきたいと和気清麿を八幡宮に問いにやった。そのときに、断じて皇統をよそに譲ってはあいならんということを、和気清麿がいいきったわけです。そのときの託宣が、すなわちこの大きな月になって現われたという意味です。また伝教大師が法華経の講義をしたときに、どことなく誰がもってきたというのかわかりませんが、紫の衣を伝教大師に奉った(と)いうのです。こういういい伝えがあります。それなのに、今法華経の行者が大難にあわんとしているのに、いったい、なにをボヤボヤしているのだと。法華経の行者ということは仏という意味です。それは御義口伝に「法華経の行者の宝号を南無妙法蓮華経」というと、また「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」と念をおされている。別して法華経の行者といったときには、仏の異名になるのです。
日蓮は日本第一の法華経の行者である。しかも、自分は間違ったことを一つもしていないというのです。こういうところは、三世の生命を大聖人様が、なんの疑いもなく信じまいらせている証拠なのです。日本国じゅうの者が法華経を謗ずる。そのことによって無間大城におちるというのです。
これは今生、後世にわたって、今、創価学会が広宣流布のために戦っております。一人も日本の国に苦しむ者のないように救ってやろうという真心から戦っています。これに対して大きな反対が出るならば、わが民族はそのまま無間大城におちるのです。
無間大城というのは、もっとも苦しい地獄です。無間というのは地獄のことですが、どんなに苦しくても焦熱地獄、大寒地獄といっても、時に熱風が吹いてきて「おお、寒い」が「おお、熱い」に変わるひと思いがあるのです。またどんな熱い地獄であっても、寒風が吹いてきて、「おお寒い」と思うときがある。休むときがある。
無間大城というのは苦しみの中に休む場がない。これが、そんな世界があるのか、おまえ見たのかというかもしれない。それは見たことはないのです。だが、ふだん、日常の生活でそういう思いをするときがたまたまある。
腹痛を起こす。休む間もなく腹痛を起こす。これは無間大城です。それと同じ生活が、死後の生命の中にもあるということを、大聖人様は信じていらっしゃるのです。私もそれを信ずることができます。前にも我というものがどんなものかという質問がありましたが、我というものはあるといっても、みることはできない。ないといっても、ないとは否定できない。その我が永遠であって、死後の生命は、その我が業を感ずるのです。ちょうど寝ていていやな夢をみて、うなされている。あれと同じような状況が死後においてあるのです。
そういう生活をさせるのが可哀想だから、無間大城におちるのを防いでやろうと思って、それを邪魔しょうとする者から、日蓮大聖人が大難をうけているのに、八幡大菩薩はじっと見ているのかと。こういう責め方なのです。
蒙古の国から日本の国が攻められたならば、天照大神といい、正八幡大菩薩といい、安穏にはいられない。このことについては、別の御書にはこうあります。九州の筥崎八幡宮が、後に蒙古から攻められたとき焼き払われました。それで、大聖人は八幡大菩薩が法華経の行者を守らぬが故に、仏罰をこうむっているとおっしゃっております。
今度の太平洋戦争でも、アメリカはその指導原理をデューイの価値論において戦い、日本の国は天照大神、すなわち低級な神道をもととしていっていったのです。一番爆撃されたのは神社ではないか。もったいなくも明治陛下のおります明治神宮なんかは、とたんに焼かれてしまった。それは、日本の国は神国だと、日本の国は偉いんだという、その念を一掃してやろうというアメリカの意中のままになったわけです。
しかし、私は今度の戦争の罪はどこにあったかは知らないとしましても、日本民族というのは、とても立派な民族なのです。東洋一といっていいでしょう。むしろ世界に誇るべき、それほど日本民族は優秀なのです。
これ、指導者さえよければ、日本は世界的な民族として誇りうるのです。ここに集まった方々をみましても、みな立派な方々ばかりです。
これは法華経嘱累品の意味を、だいたい根幹にして仰せになっているのであります。すなわち釈迦多宝仏や十方の諸仏が、並んで妙法蓮華経の弘通を付属するとき、三度まで、あらゆる菩薩、あらゆる善神、あらゆる神々の頭をなでて、この妙法蓮華経を護れ、この行者を守護せよ、とおっしゃったとき、みなうなずきあって、三度、かならずお護りいたしますと約束した。その嘱累品の儀式を述べられているのです。
そのときの約束を思い出したならば、中国、インドでなくとも、今、日本の国に、法華経の行者が現われている。今その法華経の行者が難を受けるのにさいして、なぜただうすぼんやりと見ているのだと。そのときの約束を急いで果たしてはどうかと、こう高々と申し責めたというのです。
今日、今晩、首を斬られて、霊山浄土にまいらんときは「天照大神、正八幡大菩薩はウソつきの神である」と教主釈尊に申し上げるというのです。この教主釈尊は末法の御本尊の教主です。教主にも、本果妙の教主、本因妙の教主といって、教主には色々あり、六種類ありますが、この教主は文底秘沈の大法の教主です。その教主釈尊にかならずそれをいうぞ、それはこわくないのか、早くとりはからってはどうかといっているのです。全宇宙に向かって大聖人様が諸天善神に告げるにさいし、八幡大菩薩に対して、お叱りとしてはっきりと仰せられたところです。そして、また馬に乗せられて竜の口に向かわれたのです。