法華経の行者といはれぬる事はや不祥なりまぬかれがたき身なり、彼のはんくわい(樊噌)ちやうりやう(張良)まさかど(将門)すみとも(純友)といはれたる者は名を・をしむ故にはぢを思う故に・ついに臆したることはなし、同じはぢなれども今生のはぢは・もののかずならず・ただ後生のはぢこそ大切なれ

 

 これはおもしろい(笑い)。法華経の行者といわれた以上には、不祥なり、覚悟しなければならない、どうしようもないのだと。あなた方も、御本尊を戴いたということは、不祥であると覚悟を決めて折伏しなければならないのです。決まったのだからしかたがありません。愚痴はいわないことです。そういう御言葉です。

 

 また、ここに例をお出しになったのです。樊噌・張良・将門・純友等、将門は関東で強い人だった。謀反を起こしたということになっています。純友は四国の方の海賊の親方です。こういう人は、名を惜しむから、卑怯な態度はとらなかったというのです。そこで、恥といっても、今生の恥はものの数ではない。後生の恥が大事である。後生などというと、現代人は、坊主臭くて迷信みたいに思う。

 小乗教では、空・苦・無常・無我という四念処の法門が説かれています。我というものは世の中には存在しない、世の中は空だ、苦しみの世界だ、無常である。このように小乗仏教ではいっている。

 ところが大乗仏教では、常・楽・我・浄といいまして、われわれの生命は、常住するから常であり、楽しみがあり、世の中には我というものが存在し、浄らかなものなのです。これがわれわれの生命の本体です。我というものは、粒でもなければなんでもないのです。あなた方だって、我はある。だが、どこにあるのかといってみても見られないでしょう。私には、戸田城聖という我があります。きちんと生きているからあるのです。しかし、どれがあなたの我だといわれても、どこなのか、からだじゅう捜しても、これが自分の我であるなどというものは出てきません。だが、かすかに我というものを認めるでしょう。そうはいっても、どこにもない。

 

 そこで、われわれが死にますと、大宇宙に溶け込むのですが、今度はそれが大事なのです。溶け込むにも場所がある。区切られたところではない。地獄・餓鬼・畜生・修羅……この世界に、常楽我浄の我が溶け込んで、地獄の世界へ行った者は、非常に苦しみをおぼえる。ところが、人界・天界・縁覚・声聞・菩薩・仏の境涯へ行った者は、非常に楽しみを受けるのです。そうすると、いったいどこに自分があるのでしょうか。大宇宙なのですから、それはどこにもない。ところが、そういう境涯がある。仏界もあれば、地獄界もある。そんなバカなことないだろうといっても、あるのだからしかたがありません。有るという者と、無いという者とできるなら、どちらか考えなければなりませんが、私は、有ることを知っています。断然あるのです。

 

 だから、死んでから、この十界のうちのどこへ行くかが問題になってくるのです。そしてまたそこから、人界へ出てこなければならないのです。

 

 たとえば、あたかもここに、アメリカの声もあれば、フランスの声もあれば、中国語も、朝鮮語もあるとします。だけど、どれが朝鮮語だなどといってもわかりはしない。日本の言葉と、アメリカの言葉とが手を継いで歩いているなどというものでもない。おんぶしているわけでもない。ところが、精巧なラジオを二十でも三十でもここへ集めてきて、波調を合わせて聞いてみれば、あちらは朝鮮語、こちらはアメリカ語とガチャガチャ音楽は出てくる。日本の浪花節は出てくる(笑い)。うるさくてしようがないでしょう。ところがラジオをかけなければ、なにもうるさくないのです。それと同じ状態で、死後の生命は存在するのです。無いかといえば無いとはいえない、有るかといえぱ有るともいえない、無いとも有るともいえないが実在なのです。どこにあるともいえない。

 

 しかし、その人が死後において、苦しみを見、楽しみを見るということは事実なのです。これは仏がはっきりおっしゃっているのです。今そのことをいっているのです。

 この世の恥はたいしたものではない、死後に大苦を受けるということは、まことに苦しい大恥ではないかとの仰せです。

 

 獄卒・だつえば懸衣翁が三途河のはたにて・いしやうをはがん時を思食して法華経の道場へまいり給うベし

 

 これは例です。そんな三途の河などありません。ただ大聖人様は例をおとりになっていらっしゃるのです。三途の河というのは、地獄・餓鬼・畜生の三悪道、その三つへ行く道という意味で、三途の河といっているのです。

 

 そこに獄卒がおり、奪衣婆という着物を奪う鬼がいて、懸衣翁というやはり着物を奪う男の鬼がいて、裸にしてそっちへ追いやってしまうという、そういう地獄・餓鬼・畜生の生活をするようなところへ行ったら、どうするかといわれているのです。

 

 法華経は後生のはぢをかくす衣なり

 

 ですから、法華経、すなわち御本尊というものは、おまえ達が死後において、三悪道、四悪趣、そういうところへ行く、おまえらの恥をかくす衣であると。

 

 経に云く「裸者の衣を得たるが如し」云云。此の御本尊こそ冥途のいしやうなれ・よくよく信じ給うべし、をとこのはだへをかくさざる女あるべしや・子のさむさをあわれまざるをやあるべしや

 

 この経とは、薬王品です。この法華経の力は、裸の者が着物を得たと同じような力がある、功徳があるのであるというのです。

 この御本尊こそ、冥途の衣裳である。次の世まで持っていけるものである。すなわち、着物をたんすの中へ何十枚入れておいても、死んでからは役に立たない。この次に生まれてくるときは、その着物は役に立たない。また、お金をどれほど持っていても、死んでからは、なんの役にも立たない。ただ役立つのは、題目の数、御本尊を信ずる信力の強さ、それこそ後の世までももっていけるものだと、大聖人様はおっしゃっているのです。

 

 すなわち、今度は、世情に例を引いて、夫を裸にしておく女房はいません。また、寒い時に、着物を着せないでおく親はいないではないかと仰せなのです。

 

 釈迦仏・法華経はめとおやとの如くましまし候ぞ、日蓮をたすけ給う事・今生の恥をかくし給う人なり後生は又日蓮御身のはぢをかくし申すべし、咋日は人の上・今日は我が身の上なり、花さけばこのみなり・よめのしうとめになる事候ぞ、信心をこたらずして南無妙法蓮華経と唱え給うべし、度度の御音信申しつくしがたく候ぞ、此の事寂日房くわしくかたり給へ。

 

 九月十六日           日  蓮 花 押

 

 釈迦仏と法華経と二つ並べてあるわけは、無量義経に「諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生ず」という文がある。それをもってきて、法華経と釈迦仏が親であるとおっしゃっているのです。われわれがこの御書を読みますと、法華経とは御本尊、釈迦仏とは文底秘沈の久遠元初自受用報身如来、すなわち日蓮大聖人様、人法一箇の御本尊です。南無妙法蓮華経と大聖人が和合して、われわれ菩薩の御子ができているのです。

 

 今、大聖人様に供養する者は、大聖人様の今生の恥をかくしてくれるものである。来世は、すなわち後生は、大聖人様が、お前たちの恥をかくしてやろう、救ってやろうと、おっしゃっているのです。

 

 死ぬということは、昨日は「あの人が死んだ」などといっていますが、こちらがまた、死ななければならない。だから、生死の問題は、油断するなとおっしゃるのです。

 花は咲けば木の実になる、お嫁にきたと思っているうちに、今度は自分が姑になってしまう。そのように世の中は、きちんと移り変わっていくのですから、かならず死ななければならないものだから、信心怠らずして、南無妙法蓮華経と唱えなさいというのです。

 

 いろいろと、たびたび手紙をもらうている人たちがたくさんいるから、寂日房、あなたが私に代わってよく聞かせてやりなさいと仰せられています。