生死一大事血脈抄講義(御書全集一三三六ページ)

 

 この御書は文永九年二月、佐渡において認められたものであります。日蓮大聖人様の御書を拝読するときには、

御年がおいくつの時の御書であるかということを考えなくてはいけないのです。

 文永九年といいますと佐渡に流された時です。佐渡流罪中の御書は非常にきびしいのです。大聖人様の一門が

文永八年の由比の浜での御難で、一応敗北に終わったのです。佐渡の御手紙というものは、時の政府の弾圧で敗

北に終わって、それから佐渡に流されてからの御門下に対する御命令書なのです。

 

 大聖人様の御書の中で一番大事な御書は「観心本尊抄」ですが、これは佐渡において認められたものでありま

す。ついでに申し上げておきますが、観心の本尊抄の「の」の字が日寛上人様の仰せには「かんじんほんぞんし

ょう」と読んではいけない。「かんじんのほんぞんしょう」と読みなさい。「の」という字は、私の遺言と思いな

さい、後の弟子檀那は形見と思いなさいとまで仰せられて「の」の字が大事だと仰せられたのであります。

 

 それから佐渡で認められた御書には、開目抄をはじめ、当体義抄、諸法実相抄、顕仏未来記、如説修行抄等の

重要な御書があられる。当時は総大将が敗けて佐渡へ流されてしまい、門下は信心ができなくなっている。そう

いうときに、大聖人様の御心をしのびまいらせれば「退転させてはあいならん、敗けるのがなんだ、いちじの敗

けではないか、かならず勝たせなければならん、全部を幸福にしなければならん」という火のように燃え立った

御心だと思うのです。またそうした大聖人の御精神が、それらの佐渡の御手紙には強くにじみ出ているのです。

 

 その後、身延の山にはいられてからの御手紙というものは、非常にやさしい仏様の御手紙になっているのです。

 また佐渡以前の御書とは、早くいえば、天台流の理論が主なのです。だが、もちろん、その理論も絶対に間違っ

ておりません。

 

 この生死一大事血脈抄を読むのは、とてもめんどうです。スラスラと読もうと思えばスラスラと読めるし、ス

ラスラとわかったといえばわかったのです。しかし、はたしてどこまでわかったのかというと、またわからなく

なってくる。これは、そういうめんどうな御書であります。

 

 まず生死一大事血脈ということから始めなければならない。

 生死一大事血脈とは南無妙法蓮華経ということであります。天台の学説から説くならば、これを教相の面から

述べまして、南無妙法蓮華経を生死一大事血脈という。大聖人の観心の法門から説きますときには妙法蓮華経と

読む字なのです。

 

 生死と申しますのは、生命のことであります。人間というものは、死んだり生まれたり、生まれたり死んだり

することが、人間の本質であるということを天台の学者は知っております。そこで、この御書をいただいた最蓮

房日浄という人は天台の学者です。何か学説をたてて、流罪にあった人のように記されておりますが、その人に

やる手紙でありますから、大聖人の観心の面から述べたのではわからない。相手が天台の学問をしておりますか

ら、天台の学問の上から観心へとお説きあそばしたのです

 

 教相・観心と申しますのは、大聖人の仏法研究のためには、もっとも大事な法門であります。この御抄は教相

面から、観心に説いていかれる。大聖人様の観心の御法門と、天台の教相の法門を比べるのであれば、御義口伝

をごらんなさい。御義口伝、御義口伝とわれわれは軽くいいますが、これは大聖人様の口伝書です。その口伝書

を読みますと、はっきりとわかることであります。

 

 生死とは生命のことであります。また世の中で、一大事ということは、なかなか容易にいえることではない。

これを簡単に使ったのは、講談では大久保彦左衛門であります。本当です(笑い)。ウソと思うなら講談を読んで

ごらんなさい。大久保彦左衛門が一大事といえば、徳川家康の命と思って、誰でも聞くようになっていたという

のです。

 

 だが仏法においての一大事ということは、人間の生命の問題において、根本的なことという意味です。この一

大事という言葉が法華経にあるのは、方便品の中の一大事因縁という言葉を、大聖人様がお説きあそばされると

きに当たりまして、一とは普通の一、二、三の一ではなくて、これは平等、中道という意味であると、そのよう

にお説きあそばされながら、一大事因縁とは、これ妙法蓮華経なりとお説きあそばされておりますが、その御心

がこの生死一大事血脈抄に歴々と表われているのであります。

 

 前の生死ということは、理想にあらわれ、形の上にあらわれた生命を論ずるのでありまして、血脈というのは、そのまま続く生命であります。この生死一大事血脈というものはなんであるかということを、今、大聖人様が天台の学者に対して説法する御書であります。

 

 私は生死一大事血脈も南無妙法蓮華経と読んだと、それはおまえが勝手に読んだのではないかといわれるときに当たりまして、次に証明の御書がすぐ出ております。

 

 御状委細披見せしめ候い畢んぬ、夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり

 

 このように大聖人様は決定づけられております。

 

 其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり

 

 これがめんどうなのです。法華経を読んだという人がいるかもしれませんが、真実に法華経を読み切った人が、この御書にぶつかったら困るところなのです。多宝如来と釈迦如来の二仏が宝塔品の中でうなずきあって、そして南無妙法蓮華経という御本尊を上行菩薩に渡した。これが法華経の表であります。

 

 宝塔というのは何か、これにはおもしろい話がある。いらない話をすると、そればかり覚えて困るのですが、ある僧侶になっている学者でありますが、私が、その人に向かって「一体、法華経を説くところ、宝塔がたつと法華経にあるが、大聖人様は法華経を説かれたけれども宝塔がどこにも建たなかったが、そのわけはなんですか」と聞いたことがあります。

 

 ご本人は困った。宝塔というのは、阿仏房が大聖人様に宝塔のことをうかがい奉ったときに「阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房」(阿仏房御書一三〇四ページ)と仰せられたことがある。あなた方のからだは、それ自体が宝塔なのです。その宝塔の中に、あなた方のからだの中に釈迦多宝の二仏がおすわりになって、上行菩薩という方を呼び出した。

 

 これがまた問題なのです。そこまでやかましくいうと、いつになっても講義が終らないことになりますが、四菩薩を常楽我浄に配されますが、上行菩薩という方は常楽我浄の中の我という存在です。それに向かって妙法蓮華経の五字を授けられたというのです。

 ですから遠遠劫より離れざる血脈、生命なのです。南無妙法蓮華経という生命なのです。それは、あなた方の生命でもあれば、私の生命でもある。

 

 妙は死法は生なり

 

 妙法ということは、すなわち生死である。妙ということは死であり法ということは生である。あたりまえのことですが、死ぬというくらい世の中に不可思議なことはない。妙ということは梵語では薩といいます。この薩は妙とも具足とも正ともいいます。妙とは不可思議ということです。あなた方は非常にいばっておりますけれども、いっぺん電車に押しつぶされてごらんなさい。そのまま死んでしまうでしょう。死んだら最後、ものもいわなければ、どうすることもできない。シラミが動いている、それを指でつぶしてごらんなさい。いるのかどうか、わからなくなる。これほど不思議なものはありましょうか。さっきまでは、かみつくようにおこっていた男も、さっきまでメソメソ泣いていた女の人も、死んだらなにもいわなくなるでしょう。死んでもらいたいと願っても死なない人、生きていてもらいたいと願っても死ぬ人、死くらい妙なものはないでしょう。

 それでは、生きているうちはどうか。生は法です。生きている間は規則で生きます。朝飯も食わない、昼飯も食わない。それで今ここにすわっている人がおりますならば、さぞや腹が減っているだろうと私は思います。商売を一生懸命にやらないで、金がないといっている人がいたらおかしな人です。それは法です。働かなければ金はできません。生は法、死は妙に決まっております。それを妙法というのだと大聖人様ははっきりおっしゃっております。

 

 此の生死の二法が十界の当体なり又此れを当体蓮華とも云うなり


 この生死の二法、生きるということと死ぬということが、十界の当体です。十界の当体とは御本尊のことです。
 またわれわれの生命のことです。われわれは、十界以外には生きていないのです。ですから、十界の当体は妙法であり、当体蓮華ともいうのです。

 天台云く「当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」と云云


 すなわち天台の言葉をかりまして、再び依正の法を説くのです。依正とは依報・正報のことです。依報というのは私どものいる世界をいう。正報というのは自分自身のことです。われわれは同じ世界に住んでいると思うのです。あなた方はそこへすわって、私の講義を聞こうとしている。私はここで講義をしている。正報・依報は同じです。同じだが、実際考えてごらんなさい。聞こうと思ってきたけれども、早くやめればいいなと思う人もいるし、おしりが痛いなと思う人もいるし、帰ったら女房にしかられると思う人もいるし、亭主の顔を思い出している人もいる。同じ国土に住みながら、正報はことごとく違います。因果の二法これ依報・正報の現実の世界です。


 此の釈に依正と云うは生死なり生死之有れば因果又蓮華の法なる事明けし


 依報も正報も生死の法でしょう。生きていなければ、皆さん方と会う必要もないでしょう。しかも、それが妙法です。蓮華の法というものが、人生を決定し、皆さんを幸福にもっていく哲学的論理の根本になるのです。
 

 伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳」と文
 

 これはすごい言葉です。死ぬとか生きるとか、それはみな心の妙用である。生命というものを自分がつかむのは、一心の妙用である。有無の二道とは生命があるか、ないかということです。それが本当に悟りの境地にこなければわからない。この空観とは仏法の極意でありますけれども、生命が「ある、ない」ということを法華経の中でも大問題にしてある。生命があると決めるのもいかん、ないと決めるのもいかん、これは断常の二見と申しまして邪見のうちにはいります。空観になることが本当の真実なのです。それを伝教は、今いっているところです。


 天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし、是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり

 人生、宇宙の状態のことごとくは、生死の二法であるということです。できてくる、なくなっていく、生死生死と動いて、そこに血脈があるということが、御書の根本問題であります。生まれてくるとか、できてくるとか、死んでいく等、あらゆる現象が全部妙法蓮華経でないものはないと断ずるのです。そこで宇宙全体の法相というもの、宇宙全体の動きというもの、風であろうと波であろうと夫婦ゲンカであろうと、自分の貧乏、自分の病気であろうと、ことごとくは、妙法蓮華経の働きだというのです。そこで御本尊が大事になってくるのです。自分は病気で苦しんでいる。自分は金がない等々、そういう生命、生死というも、ことごとく妙法蓮華経の生死である。そこで、御本尊をたもつがゆえに、自分の希望どおりの世界がここに広げられるというのが、大聖人様の根本の大問題になっているのです。


 五星とは歳星(東方木精)熒惑星(南方火精)太白星(西方金)辰星(北方水精)鎮星(中央土精)をいう。これを五行の星とも五緯ともいうのです。


 天台の止観に云く「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」云云、釈迦多宝の二仏も生死の二法なり
 

 すなわち天台がいうのには、法性とは南無妙法蓮華経、大御本尊のことです。生まれるのも大御本尊様の御力によって生まれ、死ぬのも大御本尊様の御力によって死ぬということです。もしそれを別の言葉でいえば、仏法の哲学では、死ぬのも宇宙の真理、生まれるのも宇宙の真理であるというのです。釈迦多宝というのも、ことごとく生死の二法を表わした姿であるというのです。


 然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり


 天台の学者に対して、これほどの言葉使いをされる大聖人様は、実にもったいないほど、すごいお方だと私は思います。なぜかならば、天台学を学んだ最蓮房では五百塵点劫より知らないのです。その五百塵点劫より知らない、その人に向かって、法華経を離れて説明のしようがないものですから、教相の段から説明なされまして、みな仏道を成ずるという法華経と、久遠実成と申しますれば、釈迦仏法では第一番成道の釈尊をたてます。その釈尊と、われら衆生と、その三つが少しも差別なく、みな同じだと堅く信じて、南無妙法蓮華経と唱えるところを生死一大事の血脈であるというのです。


 前の三つが教相で、後の一つが観心になっております。観心と教相ということは、日蓮正宗の宗学において根本問題になっている。相手の天台の学者に向かって、御本尊といったのでは相手が信じられない。そこで、皆ことごとく仏道を成ずという法華経と、久遠実成、五百塵点劫の寿量品の仏と、われわれ衆生 ー なんのために仏が必要かといえば、衆生のために仏が必要なのです。仏様がいらっしゃるから、われわれが拝むのではないのです。われわれのために仏様はいるのです。月給のためにかせぐのではなくて、こちらでかせぐから、月給を向こうからよこすのです。それと同じで、われら衆生というのは大事なものです。 ー その三つが一つであると思って南無妙法蓮華経と唱える、これが観心になるのです。南無妙法蓮華経と唱えることが、生死一大事の血脈となるというのです。


 此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり
 

 南無妙法蓮華経と唱えること、これが日蓮が弟子檀那の肝要である。それ以外に肝要はないのだと結論してあります。
 

 所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候


 臨終ただ今にありと思って、今死ぬのだと思って南無妙法蓮華経と唱えなさい。そうすれば普賢菩薩勧発品に説かれてありますとおり、この人は死んでも、千仏が手を授けてこの人を救い、死後の生命に恐れをいだかせないというのであります。私もそう思います。今死ぬのだと思ったら、いつも南無妙法蓮華経をいわなければいけません。だが今、借金取りがきたから、そのときだけ南無妙法蓮華経では間に合わない。前からいっていなければダメです。現在、臨終ただ今にありと思って南無妙法蓮華経と唱える人は、死後の生命を確立して永遠の生命を授けてやるとの大聖人様の仰せです。

 

(私見:ある時母が川で溺れたそうである。沈んだ川の中から川の水面を見て、死ぬのかなと思った時に、母の父が言っていたことを思い出し、南無妙法蓮華経と誦したそうである。そしたら何かをつかんだか、誰かが助けてくれたか、助かったそうである。

この話を何度も話してくれた。(聞かされた?))

 

 

 
 

 私はまた一歩ふみこんで、こう読んでみました。もし大聖人様が、ただ今おわしますとしたときに、大聖人様の臨終がただ今にありと思うならば、病気で寝てなんかおられますか。どうしても御本尊様の前に飛んでいかなければならない。そして真剣に題目を唱えるでしょう。臨終ただ今にありは、わが身の臨終か、夫の臨終か、わが子の臨終か、いずれにしても臨終ただ今にありと思って南無妙法蓮華経を唱える者には「千仏手を授ける」すなわち絶対にしあわせにしてやるというのです。千人もの仏がきて、もしも、その人を不幸にすることがあるならば、そんなものは仏ではない。ホットケです。それこそ紙くずのようなものではないですか。


 悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し、法華不信の者は「其人命終入阿鼻獄」と説かれたれば・定めて獄卒迎えに来って手をや取り候はんずらん浅猨浅猨、十王は裁断し倶生神は呵責せんか。
 

 なんで千仏来迎の法華経の経文を、大聖人様がお引きあそばしたのかというと、これは念仏宗に対する大聖人様の大きな憤りがあるからです。また、念仏宗にだまされている、かわいそうな民衆があるからであります。念仏宗は西方浄土に阿弥陀仏がいて、人が死んだならば、観音菩薩、勢至菩薩が雲に乗って助けに来る、西方浄土へ連れに来るというのが、浄土三部経の精神であります。もちろん、これはデタラメです。ところが、法華経の勧発品にあるのは、そんななまやさしい仏教理論ではなくて、南無妙法蓮華経と唱える者には、一仏二仏にあらず千仏も来るべしというのは、阿弥陀経に対する戦闘的精神の表われです。しかも相手は天台の学者でありますから、こう教えておけば阿弥陀経が間違っていることがよくわかるだろう。念仏宗ではただの一仏もこない。一仏の家来が二人来るにすぎない。しかし南無妙法蓮華経と唱えれば千仏も来る。しかも、それは家来ではなくて本当の仏が来るのですから、間違いはないとの仰せです。


 ところが、法華不信の者とは、方便品より譬喩品にわたって説かれているものであります。譬喩品にはとくに今の御言葉があるのであります。
 法華不信の者は、無間地獄阿鼻大城へおちる、さぞや苦しいことであろうというのです。十王というのは、死後に地獄へいきますと、十人の王様がいて、いろいろと裁判をするというのです。閻魔王なんかも、その十人のうちの一人なのです。地獄は閻魔さん一人みたいに思っていますが、十人いるのです。ここで裁判されて、また次へ行って裁判されて、なかなか楽ではないらしい。そして、倶生神といって、われわれのすることなすこと監督している神様があるが、それらにしかられるであろうというのです。
 

 これは譬えですが、ほんとうの地獄論を私は読んだことはありませんが、地獄の議論は中国へきてからの偽作論だといわれているのです。今は偽書にされています。しかし、大聖人様が、たんなる偽書をお用いになるわけがないのです。なにかしら哲学的な根拠があるはずです。それを色々な形で説明しているのにちがいないのです。


 この、死後の生命というものについては、なかなか説明がめんどうです。今の人たちは死後の生命などということは全然考えません。ところが人間は死後の生命がある。まず今のところ、私は大宇宙の生命にわれわれの生命が溶け込むのだと教えています。それでいながら、霊魂というものはないと私は断定しています。これは涅槃経で釈尊が(霊魂は)ないと説いているのです。しかし、ないにかかわらず"我"の存在だけは認めなければならない。大乗仏教では常楽我浄を説きまして、我という存在は認めざるをえない。しかし、形もなければ、なにもないものです。それでいて、戸田なら戸田という我があるのです。どこにあるということはいえない。あなた方が自分自身を考えてごらんなさい。自分というものはどこにあるといったって、これくらい困ったものはないのです。おこったときが自分か、喜んだときが自分か、飯を食っているときが自分か、腹が減っているときが自分か、その自分がさっぱりないでしょう。ないといったって、あるではないですか。実に不思議な存在です。それが"空″なのです。その"我"が、すなわち夢のように、死後の生命において、苦しみを感ずるのです。それを地獄というのです。ちょうどこれを、夜の眠りでいいますと、夜眠れないで苦しいとき、すなわち病気になったり、精神上の煩悶があるときは、夜満足にぐっすり眠れない。そうして苦しんでいる。その状態が地獄です。死後においてその生命があるのです。それがイヤだ。だから、夜満足に眠れない、病気や、精神上の煩悶や、借金取りに責められたり、また、フランスの女王のように、あすギロチンにかかって首を切られるというとき、一晩で髪の毛が白くなったというのです。そういう寝方をした場合には、次の朝ゲッソリして、からだも弱れば元気も出ない。
 

 そのように死後の生命において、こういう苦しみを感じてきて、再び人間に生まれた者は、もう青白いクシャクシャしたおかしな、卵の半熟みたいな人間が出てくるのです(笑い)。だから、仏法観では、死後の生命ということを非常に大事にする。成仏ということが最大事である。成仏というのは、ぐっすり寝られる生活ではないでしょうか。ぐっすり寝たあとのように、元気いっぱいピチピチした赤ん坊で生まれてくるのです。産んでもらわない、飛び出してしまう(爆笑)。そういうのが、成仏した人間の生まれ方ではないですか。