三沢抄講義(御書全集一四八七ページ)
かへすがへす・するが(駿河)の人人みな同じ御心と申させ給い候へ。
こうじ於胡なま内
柑子一百・こぶ(昆布)・のり(海苔)・をご(於胡)等の生の物はるばると・わざわざ山中へをくり給いて候、ならびに・うつぶさ(内房)の尼ごぜんの御こそ(小袖)一給い候い了ん。
さては・かたがたのをほせ(仰)くはしくみほど(見解)き候。
抑(そもそも)仏法をがく(がく)する者は大地微塵よりをほけれども・まことに仏になる人は爪の上の土よりも・すくなしと・大覚世尊・涅槃経にたしかに・とかせ給いて候いしを、日蓮みまいらせ候て・いかなれば・かくわ・かた(難)かるらむと・かんがへ候いしほどに・げにも・さならむとをもう事候、仏法をばがくすれども或は我が心のをろかなるにより或はたとひ智慧は・かしこき・やうなれども師によりて我が心のま(曲)がるをしらず、仏教をなを(直)しくなら(習)ひうる事かたし、たとひ明師並に実経に値い奉りて正法をへ(得)たる人なれども生死をいで仏にならむとする時には・かならず影の身にそうがごとく・雨に雲のあるがごとく・三障四魔と申して七の大事出現す、設ひ・からくして六は・すぐれども第七にやぶられぬれば仏になる事かたし、其の六は且(しばら)くをく第七の大難は天子魔と申す物なり、設い末代の凡夫二代聖教の御心をさとり・摩詞止観と申す大事の御文の心を心えて仏になるべきになり候いぬれば・第六天の魔王・此の事を見て驚きて云く、あらあさましや此の者此の国に跡を止(とどむる)ならば・かれが我が身の生死をいづるかは・さてをきぬ・又人を導くべし、又此の国土をを(押)さへと(取)りて我が土を浄土となす、いかんがせんとて欲・色・無色の三界の一切の眷属をもよをし仰せ下して云く、各各ののうのうに随って・かの行者をなやましてみよ・それに・かなわずば・かれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて・あるひはいさめ或はをどしてみよ・それに叶はずば我みづから・うちくだりて国主の身心に入りかわりて・をどして見むに・いかでか・とどめざるべきとせんぎし候なり。
かえすがえすも、駿河の国で信仰している者は、みな同じ心であるといいなさい。駿河の国から、ミカン・コブ・ノリ・オゴ ー オゴとは、やはり海で獲れるものらしいです ー こういうものを、わざわざ身延の山まで持って行ったようです。この内房の尼御前というのは、御書の後ろの方で出てきますから、そのときよくわかると思いますが、この人から小袖を送っていただいた。これらをみんないただきました。また、みんなからいってきた手紙は、よく見たというのです。
この大覚世尊というのは、インドの釈迦のことですが、この方が説かれた涅槃経に、仏教を志す者、学ぶ者は大地微塵の土よりも多いけれども、仏になる者は、爪の上の土よりも少ない、ごくまれである。ところで、どうしてみんなが仏になれないのかということを、大聖人様がつくずく考えてみるのに、もっともであるということの理論がはっきりしたというのです。すなわち仏法を学する人たちをみると、もともと頭の悪い者がいる。また、智慧があるけれども、師匠の間違った教えを受けて、自分の心が自然にまがっていっているのを、気がつかない者もいる。
今でいえば、霊友会や、立正佼成会なんかをやっている人たちが、自分がやっているのは良いと思い込んで、自分の心が魔にとりつかれたことに気がつかない。それでこれはものにならないのだというのです。
このように、仏法というものを正しく教わるということは、非常にむずかしいことである。たとえ、一代聖教を明師について学び、自分自身の理智で一代聖教を胸に浮かべる。また実教に値い奉るというのは、法華経に値うという意味ですが、その法華経にあった人でも、三障四魔という恐ろしい敵があるので、それによってなかなか成仏はできないのであるというのです。
そこで、三障という三つの障り、四つの魔、合計七つでありますが、そのうちの六つには打ち勝てても、最後の一つに勝てなければ、これは絶対に成仏できない。三障とは、煩悩障・業障・報障と申します三つの障りでありまして、四魔は、煩悩魔・病魔・死魔・天子魔、最後の天子魔に打ち勝てなければ、成仏はできないのです。
これは一番こわい魔です。学会あたりでも、信心をしてゆきますと、天子魔と申しまして、はたから仏法を破ってくる、その人の信心を破ってくる、これにはかなわないのです。
この天子魔ということにつきまして、ずーッと昔に、信仰したばかりのころに、おもしろいことを聞いたことがあります。古いことですから名前を忘れましたけれど、犬養木堂先生や・そのころの人が非常に庇護した一人の人がありました。僧侶ではないのですが、なぜ庇護したかといいますと、このお経を習わないで知っている。それでみんな非常に不思議に思ったらしい。この人に、悟りについて、あるとき誰かが聞いたそうだ。そうしたら筆でもって"天子魔"と書いたというのです。私にこの話をした方は、目黒に生きておりますが、「不思議です」といいました。
私は幸い天子魔のことを知っていたので「こういうことじゃないでしょうか」と返事をしたのです。こういう不思議な人間もいるのです。いつの時代の人がこの世へ現われたものか。私はそのとき、「釈迦仏法のころの人ではないか……」といっておきましたけれども、あるいは大聖人様の時代の人かも知れませんけれども、全然お経を習わないのに知っているのです。
この天子魔というのは、われわれの仏道修行において一番こわいものです。なかなか退治できないものです。
(私見:池田大作(先生)が負けた魔である。池田大作(先生)は、権力の魔性により公明党という権力を使って日本の盟主となり「本門の戒壇(国立戒壇)」を置こうとしたが広宣流布ではなく権力で為そうとしたのだろう。ここでも戸田城聖先生の教えに反し、また、中国・韓国・在日朝鮮人等にたぶらかされ、創価学会の柱の芯がメチャメチャに壊された。(小説新人間革命など日本を貶める小説である。それを聖教新聞紙上等でも洗脳手段として今だに使っている。在日朝鮮人中国人が入っているのであろう。)戸田城聖先生の教え、これらの講義など理解していない。仏敵である。池田大作(先生)は第六天の魔王に負けたのである。今の創価学会が比叡山の第三祖から真言を取り入れ仏敵が住む山となったと同じようなものか、ここも第三祖から)
病魔・死魔のうち、ことに死魔は、もっともわれわれにとって恐ろしいものですけれども、死魔くらいの克服は、本当の信心ができればできるのです。生命を延ばせるのです。なん人も私が見ております。はたの者からみれば「信仰したのに死んだのか」と思うかも知れませんが、よくよくその人の状態を観察してみますと、当然死ななければならない人が、病気が治って三年なり四年なり生き延びて死んでおります。だからこの死魔には勝てる。
だが、最後の天子魔がもっとも恐しいというのは、退転する人の姿をみますと、だいたいにおいて天子魔のためです。
そこで、たとえば末法の凡夫が一大聖教の心を悟って、また摩訶止観という、天台の一念三千の法理をわが胸に浮かべて、まさに仏になろうとするときに、天子魔が現われるというのです。
第六天の魔王という者がいるという。第六天の魔王が、この人を見て考えるのには、この人はまさに仏になろうとする。仏になれば自分を救ってくれるかも知れない。しかし、この人は必ず他の者をも導いて、この世の中に仏法上の大変革を起こす。またこの国土、第六天の魔王が領しているところの、人に災いを起こさせるところの国土をば奪い取って、浄土、災難のない国をつくってしまう。そうすると、自分の居所がなくなるというのです。そこで、三界の自分の眷属を
集めて「おまえ達の能力に従って、この行者を悩ましてみよ」と命令するというのです。「もしおまえ達の力でかなわなかったならば、弟子、あるいは檀那、国土の人々の心に身を寄せて、あるいは諌め、あるいは威圧してみよ」と。
たとえば、今、創価学会がここまできた、新聞でも雑誌でも、なんだかんだといわれる。「先生、もういい加減にやめたらいいではないですか」こう言って、私にいう人があるならば、それは第六天の魔王が、その人の心にはいって、私を威圧し、また諌めて、広宣流布を思い切らせようとするのであります。今度の参議院選挙におきましても、学会を特別に、検察庁が見て、しかもそれに対する重刑を与えようとする。これはおどかしです。
こんなものに驚いてなどいられません。こんなこと聞いたら警察がまた怒って、またいじめてやろうと思うかも知れませんけれども、私は、今度の選挙においては、堂々たる態度であったと思うのです。選挙というものは、自分のもっとも信頼する人を、自分たちの力で選出するのが本当です。金をもらったり、あるいはまた未来に何か約束されたり、利欲をもって、それを釣って当選するなどというのは、もっとも卑屈な選挙である。国を乱すものです。そういう者こそ、重刑を与えてよいのです。学会あたりは、堂々たるりっぱな選挙であると自負してやまない。私は、今度の選挙に対する自分の考えというものは、これから、百年、二百年の未来に対しても、絶対に恥じないものだと思う。断じて恥じることはないと私は信じている。(拍手)明治維新の志士が国家のために立ったごとく、正々堂々たる公明選挙です。当局が、学会員を対称に、特に選挙運動の取り締まりをし、重刑を与えようというようなことを会議でしたといううわさです。そういううわさが出るということは、国を乱す大もとではないかと私は信ずる。そんなことにおどかされて広宣流布をやめるなどということはいいませんが、今いう第六天の魔王がその身に入っておどすのですから、あなた方に関係があったら、おどかされてなるものかという強い心がなければ、決して成仏はしない、これが定理であります。(拍手)そして、お前らのような子分でやれなかったら、魔王みずから出馬して、国王の心に入り替わって、仏にならんとする行者をおどしてみよう、かならず止めることができると。大聖人様の時代のようすが、ありありとここに見えるように書かれております。
(私見:私にはありありと見える。しかし日本を壊しているその方々は自覚があろうとなかろうと、可哀想である。ひょっとして未来永劫地獄界に沈むことになるかもしれないし、再び人間に生まれてくるであろうか。以下の御文、どう思われただろうか。)
日蓮さきより・かかるベしと・みほどき候いて末代の凡夫の今生に仏になる事は大事にて候いけり釈迦仏の仏にならせ給いし事を経経にあまたとかれて候に第六天の魔王の・いたしける大難いかにも忍ぶべしとも・みへ候はず候、提婆達多・阿闇世王の悪事は・ひとへに第六天の魔王のたばかりとこそみて候へ、まして如来現在・猶多怨嫉・況滅度後と申して大覚世尊の御時の御難だにも凡夫の身・日蓮にかやうなる者は片時一日も忍びがたかるベし、まして五十余年が間の種種の大難をや、まして末代には此等は百千万億倍すぐべく候なる大難をば・いかでか忍び候べきと心に存して候いしほどに・聖人は未萌を知ると申して三世の中に未来の事を知るを・まことの聖人とは申すなり、而るに日蓮は聖人にあらざれども日本国の今の代にあたりて・此の国亡亡たるべき事をかねて知りて候いしに・此れこそ仏のとかせ給いて候・況滅度後の経文にあたりて候へ、此れを申しいだすならば仏の指させ給いて候未来の法華経の行者なり、知りて而かも申さずば世世・生生の間・をうし(瘖)ことどもり(瘂)生ん上教主釈尊の大怨敵其の国の国主の大讎敵(しゅうてき)・他人にあらず、後生は又無間大城の人・此れなりとかんがへみて・或は衣食にせめられ或は父母・兄弟・師匠・同行にもいさめられ或は国主万民にも・をどされしに・すこしもひるむ心あるならば一度に申し出ださじと・としごろひごろ心をいましめ候いしが・抑過去遠遠劫より定めて法華経にも値い奉り菩提心もをこしけん、なれども設い一難二難には忍びけれども大難次第につづき来りければ退しけるにや、今度いかなる大難にも退せぬ心ならば申し出すべしとて申し出して候いしかば・経文にたがわず此の度度の大難にはあいて候いしぞかし。
そこで、大聖人の御身にとってお考えあるには、かならず、今申した第六天の魔王の働きというものがあるぞということは、前々から知っていたと。実に末法において仏になるということは由々しき大事である。そこで、インドの釈尊が仏になったことについての経文をよくよく見るのに、第六天の魔王が災いした難というものは、はっきりしている。提婆達多というのは、釈尊のいとこであります。阿闇世王というのは、この提婆達多を師匠とした国王であります。この二人が釈尊に対して色々な邪魔をした。この邪魔というものが第六天の魔王のしわざである。法華経にいわく「仏の現在すら、法華経を説くならば怨嫉が多い。いわんや、滅度の後においてをや、
大難がある」と。
すなわち、いま末法になれば、経文にうちまかせてお考えあそばすのに、末法における大難は、釈尊のときの何千万倍の大難であるということだというのです。聖人という条件は、何をもって聖人というかというと、三世の間において、未来に起こることのきざしを知ることであるという。ところで大聖人様は「予は聖人にあらざれども」これはごけんそんの意味です。また、ごけんそんでないともとれるのです。なぜかならば、「予は聖人にして」といわれたならば、これを聞いた者がいうのには、「なんだ日蓮ごときこじき坊主が仏だなんて、あの野郎ホラ吹きだ」などと、大聖人を疎むことによって罪を受けることになりますから、人を救わんとする慈悲の心
から、こうおっしゃっているのです。日蓮は聖人にあらざれども、これから現われることがわかる。それは、この国が亡びるということを、自分は知っていると、こういうのです。そのときに大聖人様が、こういうことを言い出せば、迫害の大きいことは十分にわかるから、いわんや滅度の後においてをや、ということに当たってくるというのです。これを言い出すならば、南無妙法蓮華経によって、日本の国を救わねばならぬということを言い出すならば、それこそ、法華経に予言があるがごとく、末法の法華経の行者であるのだというのです。ここにも、仏ということをおっしゃっています。
御義口伝に「法華経の行者とは仏のことである。南無妙法蓮華経の行者という言葉は仏という意味である」と、はっきりおっしゃっているのですから、ここで"予は仏なり"と断言しているのと同じです。ところで、これを知っていわなければ、わが身に受ける罪は、つんぼやオシに世々生まれてくるという。そしてまた、大覚世尊の大怨敵であり、その国の国主の敵になる。これは他人にあらず、自分のことだとこういうのです。そして、未来は無間大城である。またこれを言い出して、父母や、兄弟、師匠、同じ仲間等に諌められて、これを思いとどまるようならば、返っていわんでおいた方がいい。しかし、そう考えてみても、大聖人様の御智慧でみずから過去世を考えてみるのに、法華経に縁があったのであろう。代々菩提心を起こして、仏になろうとしたものであろうと。ところが、自分が今まで仏にならなかったのは、一難、二難は忍んでも、次々とくる大難を忍ベなかったものだから、仏にならずに退転してしまったのであろう。そこで、このたびこそは今生で、この世で、来世ではありません、今生こそは、かならず退せずして仏になろうと、決心をしたというのです。だからここで、思い切って言い出したというのです。そこで、経文にあるように、小松原の難、伊東の流罪、竜の口の首の座、あるいは佐渡の御難等、少しばかりの大難ではない。とてもふつうでは忍べるものではない。伊東に流されただけでみんな
やめてしまいます。また、竜の口へ持ってって首を切られる。みんな止めてしまいます。口でこそ「生命をかけて!」などというが、(笑い)いざといったら止めてしまうのです。「おまえ、今首切るぞ」などといわれたら、あんまりいい気持ちのものではない。佐渡などへ流されたら……今でこそ、"佐渡おけさ"などといって喜んでいるけれども、そのころは、それどころの騒ぎではない。本当にひどい所なのです。そういう所へ流されて、それでも「日蓮は未だこりず候」と仰せられているのだから、ほんとうの仏様でなければやれません。
私は、昭和十八年六月二十日から昭和二十年七月三日の二年間、牢へ入れられました。そのとき十九人いっしょに入ったが、みんな退転してしまった。それが今の哀れな生活……実にその退転した罰というものは、なかなか抜けられないらしい、これは、用心した方がいいです。