文句に云く「問う若爾らば経を持つは即ち是れ第一義の戒なり何が故ぞ復能く戒を持つ者と言うや、答う此は初品を明かす後を以て難を作すべからず」等云云、当世の学者此の釈を見ずして末代の愚人を以て南岳天台の二聖に同ず誤りの中の誤りなり、妙楽重ねて之を明して云く「問う若し爾らば若し事の塔及び色身の骨を須(もち)いず亦須(すべから)く事の戒を持つべからざるべし乃至事の僧を供養することを須(もち)いざるや」等云云、伝教大師の云く「二百五十戒忽(たちまち)に捨て畢んぬ」唯教大師一人に限るに非ず鑑真の弟子・如宝・道忠並びに七大寺等一同に捨て了んぬ、又教大師未来を誡めて云く「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり市に虎有るが如し此れ誰か信ず可き」云云。

 

 そこで経を持つのは第一義の戒である。ですから大聖人様は、妙法蓮華経を持つ者は、金剛宝器戒であると仰せられております、それを指しておっしゃっているのです。

 これは初品の位を明かしているのだというのです。後々の高い位をもって、初心の行を疑ってはならないというのです。

 天台の学者等、叡山の天台真言の輩は、末法の人たちに対して、南岳や天台の修行をあてはめようとしている。

 とんだ間違いだというのです。天台、妙楽がやった修行をわれわれにやれといわれたら、たいへんなことが起こってしまいます。絶対に仏法なんかやれなくなってしまう。ただ、われわれのような、末法の凡夫には御本尊様を拝んで、南無妙法蓮華経を唱えなさいというのです。

 妙楽が重ねていうのには、塔や寺を建てて仏骨を礼拝するというようなことがなければ、戒律を持つといっても、仏や僧を供養するともいえないが、しかし初心の者にあっては、信心がそのまま布施であり持戒であると。

 ゆえに坐禅を組んだり、あるいは布施行をやったりする僧に供養はしないと。伝教大師は、二百五十戒は持たない。この、釈尊が作った二百五十の戒を、伝教大師一人お捨てになっただけでなくて、鑒真の弟子・如宝・道忠並びに七大寺の僧等も全部捨てたのである。また伝教大師がいうには、末法に持戒の僧ありとすれば、それは怪異なことである。町に虎がいるというのと同じことだと。だから今りっぱな僧侶がいるなどと思うのが間違いなのです。またわれわれが僧侶やなんかを特別に偉い人だ、われわれと違うものだというようにするのが間違いだと思う。ただ、袈裟を着けたならば、これは大聖人のお代わりを勤めるときであるから、われわれは厳然と儀礼を持たねばならない。

 

問う汝何ぞ一念三千の観門を勧進せず唯題目許りを唱えしむるや、答えて曰く日本の二字に六十六国の人畜財を摂尽して一も残さず月氏の両字に豈七十ケ国無からんや、妙楽の云く「略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む」又云く「略して界如を挙ぐるに具さに三千を摂す、文殊師利菩薩・阿難尊者・三会八年の間の仏語之を挙げて妙法蓮華経と題し次下に領解して云く「如是我聞」と云云。

 

 ところで、あなたは、なぜ一念三千の観門を勧進しないかと。観門とは、一念三千とは何物ぞや、どういう姿であるかということを考えること、それをなぜ考えさせないで、ただ題目ばかり唱えさせるかという質問です。

 それに対して、南無妙法蓮華経という文字の中に、一切の仏の功徳が含まれているということを説かんがために、日本というたった二文字の中に、六十余州が含まれ、また月氏の両字に七十か国が含まれているではないかといわれるのです。すなわち、妙楽のいうのには、経文の題目を挙げれば、何々経というその言葉の中に、その経文のいっさいが含まれているではないかというのです。また、界如、十界、十如を挙げていえば、一念三千の三千界が、そこに含まれていることになるではないかと、こういうのです。すなわち、文殊師利菩薩、阿難尊者等は、三会というのは、地上で霊山の会があり、虚空会があり、また霊山で地上会がありますから三会、八年間の法華経の行を、ただ妙法蓮華経としたため、その終わりの括りとして、「如是我聞」といったのではないかというのです。これでいっさいがあがっているというのです。

 

問う其の義を知らざる人唯南無妙法蓮華経と唱うるに解義の功徳を具するや否や、答う小児乳を含むに其の味を知らざれども自然に身を益す耆婆が妙薬誰か弁えて之を服せん水心無けれども火を消し火物を焼く豈覚有らんや竜樹・天台皆此の意なり重ねて示す可し。

 

 ただ何もわからぬ者が、南無妙法蓮華経と唱えるだけで、功徳があるかないかという問いに、何もわからなくても功徳がある、というお答えです。譬えていうのに、子供は乳のことを何も知らないけれども、飲んでいると自然に肥ってくる。病人は耆婆(インドの名医)の作った薬を誰がわきまえて飲むのか、名医の薬だからわかるわけがない、だけど病気が治るではないかと、こういうのです。水は心がない、だが火を消す、それと同じ理屈で、何もわからなくても、南無妙法蓮華経と唱えるところに功徳があるのだというのです。すなわち、竜樹・天台等も同じ意見であるというのです。

 

問う何が故ぞ題目に万法を含むや、答う章安の云く「蓋(けだ)し序王(じょおう)とは経の玄意(げんに)を叙す玄意は文の心を述(じゅつ)す文の心は迹本に過ぎたるは莫(な)し」妙楽の云く「法華の文心を出して諸教の所以を弁(わきまえ)ず」云云、濁水心無けれども月を得て自ら清めり草木雨を得豈覚有って花さくならんや妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ、初心の行者其の心を知らざれども而も之を行ずるに自然に意に当るなり。

 

 また、ただ南無妙法蓮華経という題目の中に、どうして万法を含むのであるかと。章安のいうには、この、序文に経の大体の意味が含まれているのであるという。序分の中心というのです。その文の心というのは、迹門・本門に過ぎたるはないという。妙楽のいうのには、法華経の文の心を明らかにして、今まで説いた経文の意味を解釈してあるのだというのです。あらゆる場合に説かれた経文というものは、法華経の文心が顕われ出てから初めてわかるものです。濁った水は月を得て清む、また草木は雨を得て花を咲かせるのだという。何も「雨が降ってきたから、これから咲かなければならない」などと咲くものではない。そのように、題目を唱える者は、意味が分からなくてもなんでも、自然に功徳が出てくるのだというのです。妙法蓮華経というのは経文ではない、義でもない、ただ一部の意である。何の意味も分からなくても、初心の行者、すなわちわれわれのような者が、題目を唱えるところに、自然と仏法の骨髄に達し、利益も出てくるのであるというのです。

 

問う汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、

答う此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖・畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり、請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の繦褓(むつき)に纏(まとわ)れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ、妙楽の云く

「若し悩乱する者は頭七分に破れ供養すること有る者は福十号に過ぐ」と、優陀延王(うだえんおう)は賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)を蔑如して七年の内に身を喪失し相州(そうしゅう)は日蓮を流罪して百日の内に兵乱に遇(あ)えり、経に云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出さん若は実にもあれ若は不実にもあれ此の人現世に白癩の病を得ん乃至諸悪重病あるべし」又云く「当に世世に眼無かるべし」等云云、明心と円智とは現に白癩を得・道阿弥は無眼の者と成りぬ、国中の疫病は頭破七分なり罰を以て徳を推するに我が門人等は福過十号疑い無き者なり。

 

 ところで、その弟子がさっぱり何も分からないで南無妙法蓮華経と唱える、それは仏法上、どんな位なのだという質問です。

 四味三教、四味はこの前も申し上げましたように、阿含・方等・般若・華厳、三教は蔵教・通教・別教、その極位にある人に勝れ、爾前経の円人(円人とは悟った人)にも勝れているという。また、達磨や、善無畏三蔵や、念仏宗の教祖、そういう者に勝れること百千万億倍なのだと。たいしたものです。(笑い)だから、きちんと、我が末弟等 ー われわれのことです ー を軽んずることなかれと、新聞記者なんか、ここのところだけをきちんと読めばいいのですが。(笑い)

 

「進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり」と。これは法華経の勧持品にあるのです。過去を尋ねれば、八十万億劫の間、仏を供養した大菩薩であるという。しかも進んでは地涌の菩薩です。すなわち、熈連河の砂ほどの仏をば、一劫の間供養した者ではないかというのです。

「退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して」と。これは、経文に、八十年の間あらゆる衆生に、なんでも欲しいというもの、楽しみというものを与えたよりも、この経を持つことは、はるかに功徳が多いとあるのを、今引いていらっしゃるのです。

「五十の功徳を備う可し」これは、この前申しましたように、五十展転の功徳のことです。そして、この法華の初心の行者は天子が生まれて、赤ん坊がオムツの中にくるまってるみたいだ、大竜の子供がはじめて生まれたみたいだというのです。

 あなた方が立派な天子様にも比すべき方なのです。(笑い)だから、蔑如すること勿れ、蔑如すること勿れ、バカにしてはあいならんとの仰せです。

 今は大御本尊の両脇におしたためになられておりますが、妙楽がいわく「若し悩乱する者は頭七分に破れ、供養すること有る者は福十号に過ぐ」と。十号とは仏のことです。この仏は、釈迦仏法の仏です。大聖人様の御本尊様の意味ではないのです。われわれがよく仏様だ仏様だと聞いているあの仏様に勝るること、たいへんなものだという。

 

 次は、蔑如した罪を書いています。相州とは、鎌倉の時宗のこと、時宗は自分を島流しにした罪で、百日の間に自界叛逆難にあっている。それを証明しておられる。次は、勧発品第二十八にある経文をお引きになっていらっしゃるのですが、この経を受持する者を見てその過悪を出さん、それは事実であっても、ウソであっても現世に白癩病になるであろう。またその他、いろいろの悪重病が出るであろう。だから日蓮の一門を蔑如してはあいならんと、こうおっしゃっているのです。また、「世世に眼無かるべし」盲に生まれてきます。「明心と円智とは現に白癩を得・道阿弥は無眼の者となりぬ」実際の例を引いて、証明していらっしゃるのです。今、大聖人様の時代に、国中に疫病がはやっていることは、頭破作七分に当たっているのだと。今、日本の国は、どうも肺結核がはやりすぎる。医者が肺結核をつくりすぎる。本当の肺結核でない者まで、肺結核にしている。頭破作七分の現証です。今いった罰を受けた者を出して、これをもって御利益を推すれば、福十号に勝るということに大聖人の門下はなるのだとおっしゃっているのです。

 

 夫れ人王三十代欽明の御宇に始めて仏法渡りし以来桓武の御宇に至るまで二十代二百余年の間六宗有りと雖も仏法未だ定らず、爰(ここ)に延暦年中に一りの聖人有って此の国に出現せり所謂伝教大師是なり、此の人先きより弘通する六宗を糾明し七寺を弟子と為して終に叡山を建てて本寺と為し諸寺を取って末寺と為す、日本の仏法唯一門なり王法も二に非ず法定まり国清めり其の功を論ぜば源已今当の文より出でたり其の後弘法・慈覚・智証の三大師事を漢土に寄せて大日の三部は法華経に勝ると謂い剰(あまつさ)え教大師の削ずる所の真言宗の宗の一字之を副えて八宗と云云、三人一同に勅宣を申し下して日本に弘通し寺毎に法華経の義を破る是偏に已今当の文を破らんと為して釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵と成りぬ、然して後仏法漸く廃れ王法次第に衰え天照太神・正八幡等の久住の守護神は力を失い梵帝四天は国を去って已に亡国と成らんとす情有らん人誰か傷(いた)み嗟(なげ)かざらんや、所詮三大師の邪法の興る所は所謂東寺と叡山の総持院と園城寺との三所なり禁止せずんば国土の滅亡と衆生の悪道と疑い無き者か予粗此の旨を勘え国主に示すと雖も敢て叙用(じょよう)無し悲む可し悲む可し。

 

 すなわち、伝教大師の出現までの間の仏法のことをいっているのです。第三十代欽明天皇から桓武天皇までの二百余年間に六つの宗派があったが、仏法は未だかつて統一されていなかったという。すなわち、伝教大師が、六宗の碩学を集めて、糾明して、みな間違ったということがわかって、伝教大師の法華経の教えのみを中心にする時代が来たという。すなわち、仏法も一つとなり、王法も一つとなり、実に日本の国がよく治まったという。

その功を論ぜば、その源を尋ぬれば、已今当の文から出てきている。法華経の中に、「已に過去に説いた経文にも、今説く経文にも、これ以後説く経文にも、法華経は勝れているのである」との言葉からきているのです。大聖人様の御言葉にありますが、叡山ができて、ちょうど京都が千年間の王城となっております。これは不思議なことです。ただ途中で、叡山が真言宗を入れてから、日本の国が非常に乱れてきて、ことに大聖人様のころからは、王統が二派に分かれて、南朝・北朝などというものができ上がってくることになる。そしてそれから以後、応仁の大乱が起こり、戦国時代となって民が塗炭に苦しむこと三百年というのですから、この国の乱れはみな真言宗のゆえだと、大聖人様は結論をつけていらっしゃるのです。

 ところがその後、弘法大師、慈覚、智証というような叡山の大師が、真言宗を弘めた。しかも伝教大師は、真言宗といわず、真言と経文のことをいっております。それに宗の字をつけて、今まであった六宗に天台宗を加えて、自分の方も真言宗として、八宗にして、その中の一番といい募(つの)ってこれを日本に弘めたのが、日本の国を乱す根本になってきたのだという。この三人が一同に、勅許(ちょっきょ)を得て日本中に真言宗を弘めたのは、すなわち已今当の文を破った、法華経の義を破ったのであって、三世十方の諸仏の大怨敵となったのであると。ところで、その真言宗が弘まるにつれて、王法仏法ともに衰え、そうして日本にもともとからいたところの天照太神、正八幡等久住の守護神は力を失ってきて、梵天、帝釈は国を捨てて天上へ去り、ここに日本の国は亡国にならんとしているという。心のある者は、誰かこれを悲しまないでおられようか。すなわち、この弘法、慈覚、智証の宗派が進められているのは、園城寺等のこれらの根本の所である。真言宗をやめさせなければ、かならず国が亡び民が苦しむということは明らかだ、止めなければならぬ。このことを知って、国王にこのことをいってあるが、用いないというのは、誠に悲しいことである。この国王というのは、天皇陛下ではないのです。これは鎌倉幕府を指しているのです。ここを注意しませんと、戦争中にも、「日蓮という坊主は、不忠義な人間だ、国王のことをあれこれいっている」こういって批難されたことがあるのです。