問うて曰く其の証如何答えて曰く止観第六に云く「前教に其の位を高うする所以は方便の説なればなり円
教の位下きは真実の説なればなり」弘決に云く「前教と云うより下は正く権実を判ず教弥よ実なれば位弥よ
下く教弥よ権なれば位弥よ高き故に」と、又記の九に云く「位を判ずることをいわば観境弥よ深く実位弥よ
下きを顕す」と云云、他宗は且らく之を置く天台一門の学者等何ぞ実位弥下(まことのくらいいよいよさがる)の釈を閣(さしお)いて慧心僧都の筆を用
ゆるや、畏・智・空と覚・証との事は追って之を習え大事なり大事なり一閻浮提第一の大事なり心有らん人
は聞いて後に我を外(うと)め。
前段で述べられたものを、さらに釈を引かれて説かれているところであります。
権教の教えでは、修行する者の位が高くなっている。位というものは五十二位と申しまして、十信、十住、十
行、十回向、十地、等覚、妙覚とあります。ところが、位が今は十地のうちの三地だとか五地だとか、あるいは
七地だとか、菩薩の境涯をいっているのですが、真実の教えになれば、その位がなくなってくる。本当の教えを
行ずるときには位が低くなる。
前の言葉をうけて、弘決でいっているのには、前教というところから権教と実教の相違を述べているのです。
権教であれば位が高く、実教であれば位が低いということです。
すなわち教典が真実であればあるほど、それを修行する人の位が低くなる。これは今、末法にいたって、南無
妙法蓮華経の真実の教えをうけているわれわれは、釈尊の仏法の位をもって論ずれば、非常に低い位なのです。
なぜかといえば、教えが真実であるから、ならう者は決して菩薩、声聞界ではないのです。もしわれわれが南無
妙法蓮華経を修行して、菩薩だとか、あるいは大菩薩の位だという位がついたら、おかしなものでしょう。今、
末法にいたって、今日蓮だとか、大菩薩だとかがいるわけがない。そんなものがいればオバケです。このごろは
あまりいわなくなったが、よく創価学会の悪口をいわれた時代、よく三流新聞の記者がきて「会長さんは生き仏
さんでしょう」というのです。悪くいえばかたわになったということです。冗談ではない、生き仏が生魚食った
り、ウイスキーなんか飲んだらたいへんなことだ。(笑い)そんなものはいません。いかなる宗派の貫長や総長と
いっても、大聖人様以外は、仏といい如来様などという名前を、使ったりできるわけがないのです。また大聖人
様が、もういっぺんでてきて「今日蓮」などという名前で生まれてこなくてはいけないなどという、そそっかし
いことはなさいません。七百年前にきちんと三大秘法の仏法を完成なさって、お亡くなりになっております。だ
からわれわれは、大聖人様の教えどおりにやればよいのです。
ほかの宗旨はいざ知らず、法華経を依経とする天台の一家が、慧心僧都にだまされて、その筆に迷って、本当
の教えであるからこそ、位が低いのだということに気がつかないのは、まことにけしからんことだと大聖人様が
おしかりになったところです。
次に善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵、慈覚、智証のことを一字ずつとって挙げておられる。この謗法人た
ちのことはしばらくおく。しかし、よく研究しなさい。これこそ一閻浮提第一の大事である、気を付けなさいと
いうのです。実に大事です。もし真言の教えにつくならば、これは地獄にいくことは明らかなのです。それを中
山あたりは、法華宗であり、大田殿、富木殿の流れをくむ法華経寺であり、そしてまた大聖人様の御真筆の書が
一番たくさんあるといわれながら、真言宗を取り入れて祈禱なんかやっている。あんなものに迷わされて、そし
て鬼子母神なんか拝んだならば、これはたいへんなことが起こるのです。なぜ大聖人様の弟子ならば、大聖人の
おっしゃるとおりやらないのだろうかと思います。だから、もし、こういうことをもって人身攻撃であるとか、
なんとかいわれても仕方ありませんが、中山の僧侶などというのは、気違いだけ集まったという以外にない。恐
るべきものです。あの教えをうけて後生を願うなどということは、とうていできないことです。それを今の日本
人は気が付かない。そこで一閻浮提第一の大事なりと仰せられているのです。邪宗教というものが、どれほどわ
れわれの人生を、苦しめているかということがわからない。
ジャーナリストや政治家などが、仏法の何ものなりやも知らずして、学会を新興宗教だ、新興宗教だといって
いる。なるほど今の立正佼成会等の新興宗教は、たいへんな害毒を流している。しかし、その中に創価学会を入
れるということは、もったいない限りだと思うが、どうでしょうか。(拍手)あんな中へ入れられては、こっちが
迷惑です。仏法を知らないくせに批判するとは、けしからんことだと私は思っているのです。もし批判したけれ
ば、創価学会にきて、教えの半年や一年うけてから、しかる後に、教えはウソだといったらよいと思うのです。
何も知らないくせに、立正佼成会や霊友会などの新興宗教の中に創価学会を入れるということは人間と犬、猫と
をいっしょにするようなものです。不肖、創価学会は世界にただ一つの、末法御本仏の正義を信ずる折伏団体な
のですから、そこをよく思い合わせて、閻浮提第一の大事なりと思って下さい。
問うて云く末代初心の行者何物をか制止するや、答えて曰く檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華
経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり、疑って云く此の義未だ見聞
せず心を驚かし耳を迷わす明かに証文を引て請う苦に之を示せ、答えて云く経に云く「須く我が為に復た塔
寺を起て及び僧坊を作り四事を以て衆僧を供養することをもちいざれ」此の経文明かに初心の行者に檀戒等
の五度を制止する文なり、疑って云く汝が引く所の経文は但寺塔と衆僧と計りを制止して未だ諸の戒等に及
ばざるか、答えて曰く初を挙げて後を略す、問て曰く何を以て之を知らん、答えて曰く次下の第四品の経文
に云く「況や復人有って能く是の経を持ちて兼ねて布施・持戒等を行ぜんをや」云云、経文分明に初二三品
の人には檀戒等の五度を制止し第四品に至って始めて之を許す後に許すを以て知んぬ初に制する事を
今末法になって、南無妙法蓮華経の修行をするに当たって、初めて信仰した者に、何をいったいやってはいけ
ないと止めるのかというのです。
すなわち檀とは布施行です、戒とは戒律を持つこと、これらの五度をいいます。皆さんの耳にはよく六波羅蜜
という言葉がはいっていると思いますが、その六波羅蜜のうちの智慧波羅蜜の修行は止めないで、その他の五波
羅蜜の修行を止めるのです。なぜなら南無妙法蓮華経と唱えること自体が、智慧波羅蜜、般若波羅蜜ともいいま
す。その行になるから止めないというのです。そして布施波羅蜜、人に物をくれて人を助けるとか、あるいは釈
尊の戒律を持つということをやらせない。釈尊の仏法できめているところの六波羅蜜の中の五波羅蜜をやめて、
この南無妙法蓮華経を唱えさせるのだというのです。
この大聖人様の議論は、あのころにとっては大革命です。仏法上の化儀として、あるいは化法としての大革命
です。少なくとも、僧侶になった、あるいは仏法修行をするといったならば、まず布施行をやらなければならな
い、戒律を持たねばならぬ、精進行はやらなければならない。禅定、定の境涯はとらねばならぬ。こういうふう
に、どの宗派でも五波羅蜜というものをかならずやるものだと思っている時代に、大聖人様の仰せには、五波羅
蜜なんかやる必要はないというのです。ただ一向に南無妙法蓮華経と唱えるのだという。それが末法の修行の位
である一念信解、初随喜だというのですから、それこそ耳を驚かす。そんなことは未だかつて聞いたことがない
ということになる。しからば経文にそれがあるかどうかという問題です。
わがために寺を造る必要はないと、これは第三品にいっているのです。四信五品といって、われわれの修行の
位には、初品、二品、三品、四品、五品とある。はじめの仏法修行の者には、わがために寺を建てる必要はない、
僧坊を作る必要もない、また坊さんに、四事をもって供養する必要はないというのです。四事というのは、食べ
ものを差し上げること、それから衣服、寝床、湯薬(くすり)というものを差し上げるのが、インドでの供養の
本式なものです。今はそんなものでなくて、お金かなんかで供養することになっておりますが。昔は金がなかっ
たものですから、このように四つの事をもって、衆僧に供養するというようになっていた。それを、この法華経
において、寺を建てたり、坊を造ったり、あるいは坊さんに四事をもって供養する必要はないと、止めてあるの
です。だから、この経文のごとく、末法において信心するためには、まず南無妙法蓮華経の題目を、誠の信心で
もって唱えていくのが、第一のことなのだということです。
すなわちこの経文が、初心の者の仏法修行において、檀すなわち布施や、戒律等の五度を制止しているのだと
いうのです。
ところが、今お前が引いた経文は、寺を建てるということ、多くの坊さんに供養するということ、そうい
うことについて制止しているのであって、五波羅蜜のことについては制止していないではないかというので
す。
答えていうのに、始めに檀戒等の二文字をもって、全部摂しているのである。その理由は次にあります。
どうして、それがわかるかというのです。
ところが、五品のうちの第四品の位に至り、位が高くなって、信心が一層向上してから初めて許している。こ
れによって、初めての者に制止するということが、わかるではないかというのです。
問うて曰く経文一往相似たり将(は)た又疏釈(じょしゃく)有りや、答えて曰く汝が尋ぬる所の釈とは月氏四依の論か将た
又漢土日本の人師の書か本を捨て末を尋ね体を離れて影を求め源を忘れて流を貴ぶ分明なる経文を閣(さしお)いて論釈を請い尋ぬ本経に相違する末釈有らば本経を捨てて末釈に付く可きか然りと雖も好みに随て之を示さん、
文句の九に云く「初心は縁に紛動せられて正業を修するを妨げんことを畏る直ちに専ら此の経を持つ即ち上供養なり事を廃して理を存するは所益弘多なり」と、此の釈に縁と云うは五度なり初心の者兼ねて五度を行ずれば正業の信を妨ぐるなり、譬えば小船に財を積んで海を渡るに財と倶に没するが如し、直専持此経(じきせんじしきょう)と云うは一経に亘るに非ず専ら題目を持って余文を雑えず尚一経の読誦だも許さず何に況や五度をや、「廃事存理(はいじぞんり)」と云うは戒等の事を捨てて題目の理を専らにす云云、所益弘多とは初心の者諸行と題目と並び行ずれば所益全く失うと云云。
ところで、経文の方はわかりました。しからば、後の人の釈がありますかという問いに対して、大聖人様がお
っしゃるのは、いったいおまえの聞きたいというのは、月氏の四依の人々の意見か、あるいは中国、日本の論師
人師の意見か。本当の経文に確かなことが出ているのに、あとの人のいうことを聞きたいというのは逆ではな
いか。源がわかったならば流れを聞く必要がなかろう。体を離れて影を求めるようなものではないか。おまえ
の考え方はいかん。だが、無いといえばおかしいから、試みに任せて、釈についても答えてやろうというので
す。
初心の者は、悪縁にたぶらかされて、正業を修行することを妨げられる。だから、もっぱらこの経を修行させ
れば良いのだという言葉があるというのです。これは末法におきましても、初心は縁に紛動される。だから学会
では金の貸借をするなというのです。なぜかというと、金の貸借をすると、そのことによって返さなかったとか
返したとか、催促しすぎるとかいって、南無妙法蓮華経の修行を忘れて、縁に紛動されて本当の修行ができない。
だから、初心の人には、もっぱら御本尊様のありがたいことと折伏の尊さを教えさえすれば、それでいいのです。
それが、他のことをやると、おかしくなる。
今よく組座談会ということを私がいいだして、末端の指導に幹部全部が乗り出しておりますけれども、また、
こっけいなことが起こっています。組長中心の座談会を取り違えている人があるのです。それで組長がなんでも
やっていって、班長さんが、わきで見ているというような座談会が、今度の組座談会だと思っている。そんなバ
カな話はないのです。組長座談会などといっていません。組座談会といっているのですから組を中心にして、班
長さんがいたら、班長さんが中心になって組座談会をやれば良いのです。地区部長がいたら地区部長が中心にな
ってやるのです。そして班長や組長がいたらそばにいて、ああいうふうにやるものかと覚えさせるのです。組長
指導のようなものです。
またなかには、組長さんあたりで、教学がないから座談会でやれないという人がいます。冗談ではありません。
組長さん級で、とうとうと教学をやれるくらいのものだったら、何も私達がこうやって勉強しません。できない
のが当たり前ではないか。だからできる振りをするのはおかしいのです。班長さんだって、一年二年の班長さん
が、そう教学なんかできるはずがない。座談会にそういう教学なんかいりません。御本尊様がありがたい、御本
尊様を信ずれば御利益がある、それで良いのです。「お前さん、困っていないのか、困っていたらおやりなさい、
以上終わり」あとは何もない、それだけです。(笑い)何もめんどうなことはないでしょう。どういうわけで、そ
うなるのだ。本当に聞きたいか、聞きたい。この次、いついつえらい人を連れてくるから、それまで待ってて下
さい。それでよいではないですか。自分が返事しなければならないものだと思う必要はないではないですか。し
かし、自分が一言一句でも、本でも読んで知っていたら、大きな声を出して、そこを読めばよいではないですか。
そのほかにないか、といったら、あるけれども忘れたといえばよいではないか。(笑い)組座談会は簡単で楽しい
ものです。それを班座談会や地区座談会などをみているから、えらい人が出てきて「さあ、これから始めます」
「パチパチパチ」などと。(笑い)それをやろうと思っても、三人ぐらいなら景気が悪くて手をたたけない、もっ
と集めなくてはなどと思っている。そんな座談会をやれといっているのではないのです。
中には、スイカ食っていいか、悪いかなどという。お菓子だってスイカだってリンゴだって食ってよいから、(笑い)
みんな仲良くそこで座談会をやるのです。そうなれば何も問題ではないでしょう。何が座談会でめんどうなことがありましょう。
パチパチやろうと思うからめんどうなのです。(笑い)そうすると、組長さんのだんな様がすわって、女房と子供、
足りなくなったら隣の犬まで連れてこいなどといって、(笑い)そんな景気はつけなくともいいです。初心は縁に
紛動されるのだから、それだけ気を付ければいいのです。
「事を廃して理を存するは所益弘多なり」この事というのを間違えないようにして下さい。事といっても、末
法に用いる事と釈尊の仏法で使う事とは、事が違う。われわれのは、末法事の一念三千というのです。事という
のは仏の教えそのままを事というのです。末法の仏様は、南無妙法蓮華経しか教えないのですから、南無妙法蓮
華経が事の一念三千です。天台のように理屈ばかり教えているのは理になる。ところが釈尊の仏法においては、
事というのは六波羅蜜等の修行になってくる。その事をすてて理を存する、すなわち天台のときは、六波羅蜜を
捨てて理を存するというのだから、理論の研究、智慧修行になるのです。智慧修行をやれば利益が非常に多いと
いうのです。これは天台のときで、末法ではありません。ましてや末法において五波羅蜜など、布施行や戒律な
どはないことになるのです。
この釈にある初心は縁に紛動されるという、その縁ということは五度のことだというのです。初めての者が五
度を行ずるということは、正業の信心を妨げるということになるのです。これはたとえば小船に財を積んで海を
渡れば小船が財とともに没するようなものであると、これはそのとおりです。
すなわち「直ちに専ら此の経を持っ」ということは、一経の読誦すら許さない、ただ南無妙法蓮華経と唱える
のであ
る。まして五度の修行などは許すわけがない、こうおっしゃっているのです。
しかも末法において、この廃事存理という言葉を用いるとなれば、事を廃するとは戒等の五度を捨てて、もっ
ぱら南無妙法蓮華経を唱えることであるというのです。
すなわち「所益弘多」とは初心の行者は、ほかの檀戒等の修行と南無妙法蓮華経を、いっしょにやれば利益が
ないという意味になるのだというのです。