予が意に云く、三釈の中名字即は経文に叶うか滅後の五品の初の一品を説いて云く「而も毀呰(きし)せずして随喜の心を起す」と若し此の文相似の五品に渡らば而不毀呰(にふきし)の言は便ならざるか、就中(なかんずく)寿量品の失心不失心等は皆名字即なり、涅槃経に「若信若不信乃至熈連(きれん)」とあり之を勘えよ、又一念信解の四字の中の信の一字は四信の初めに居し解の一字は後に奪わるる故なり、若し爾らば無解有信は四信の初位に当る経に第二信を説いて云く「略解言趣(りゃくげごんしゅ)」と云云、記の九に云く「唯初信を除く初は解無きが故に」随って次下の随喜品に至って上の初随喜を重ねて之を分明にす五十人是皆展転(てんでん)劣なり、第五十人に至って二の釈有り一には謂く第五十人は初随喜の内なり二には謂く第五十人は初随喜の外なりと云うは名字即なり、教弥よ実なれば位弥よ下れりと云う釈は此の意なり、四味三教よりも円教は機を摂し爾前の円教よりも法華経は機を摂し迹門よりも本門は機を尽すなり教弥実位弥下(きょういよいよじつなればくらいいよいよさがる)の六字心を留めて案ず可し。
大聖人様の御意には、一念信解の位は外の色々の分け方もあるけれども、名字即であるとお説きになった。そ
の理由として、名字即というのは、減後の五品を説いているところの初随喜を説いていうのには「悪口を言わな
いで、すなおにこれを信ずる」とあるのは、名字即に当たるというのです。ところで、相似の五品にこれを配立
するならば、毀呰せずという言葉が問題になって、配立に窮屈になってこないだろうかというのです。ところで
寿量品に「心を失う」とか「心を失わない者」とかあるのは、みな名字即の位なのだという。これは順逆二縁と
いうことを含んでいます。涅槃経に「信ずる者、信じない者、あるいは熈連恒沙(きれんごうしゃ)の仏に会った者、会わない者、会って信ずる者、会っても信じない者」の例があるが、それをよく考えあわしてごらんなさい、信じないということも、信ずるということも、ともに縁を結んでいるのです。一切法これ仏法なりというところにいくのだから、一念信解は名字即だというのです。
また一念信解の信は始めの方にある、解は後の方に解釈されている。無解有信が一番大事なのだという。疑い
なくして信ずるということです。逆に理屈がわかっていて信じない、有解無信という人がいますが、そういうの
はいけないというのです。無解有信が根本なのです。それが純真な信心なのです。だから第二信の方の「略して
言趣を解す」という方の、わかる方があとになるではないかというのです。
これは今度は、初随喜の位を、次の随喜品ではっきりしているのです。どういうことかといえば、五十展転と
いう言葉があるのです。五十展転というのは、ある人が御本尊様の話を聞いて、大いに歓喜したという。それを
隣の人に教えた。その人はまた隣の人に教えた。さらに次の人に教えた。そして五十人目になった人の歓喜の味
なんか、ずいぶん薄くなってしまうでしょう。その薄くなった功徳というものも、すごい功徳なのです。もうた
いへんな位だという決定がある。その中にまだ議論がある。五十人目が初随喜だという人と初随喜ではない、名
字即だという人とがある。
そうなると、何もわからない人が、一番いいということになる。(笑い) 位というのは釈尊の仏法におきまして、一番下が十信、それから十住、十行、十回向、十地となる。ここまでくるともう大菩薩です。天台でも、理即、名字即、観行即、相似即、分真即、究竟即となると位が上でしょう。しかし、いよいよ教える経が真実となってくると、そんな位の高いのがなくなってくる。位いよいよ低しです。大菩薩なんかいない、十地も十回向も十行の位もなくなってくるのです。いよいよ経が本物なら、釈尊の仏法でいう位というのが、だんだん減ってくるのです。教が低いから修行する人の位を高くしないと、経文の低いのを補うことができないのです。すなわち大菩薩がでてきて、雲にのってきて説法しなければ相手が聞かなくなる。すなわち説法する人の位をあげておくのです。それで今邪宗の者なんかでも、自分たちの方が信心が本物でないから、位を高くしないといけないから、釈迦仏法の菩薩のマネをしたり、あるいは生き仏のようなマネをしたりしなければ繁盛しなくなる。色相荘厳にもっていこうというわけです。だから、大きい寺を建ててみたり、色々なことをやるでしょう。それは教えが低いからです。低いといっても、本当はウソなのです。真実のものであったら、ありのままでいいのです。学会の幹部でも、できの悪いものほどいばっている。本当に信心が透徹して、教学もまじめに研究する者はいばらない。
友達なんかで、いばる人がいたら教えてあげなさい。教いよいよ実なれば位いよいよ低しと。
これはあらゆるものの機根を集めて、この機根だからダメだ、この機根だからダメだということはない、あら
ゆる機根を摂するからして、位というものがだんだん下がってくる、荘厳の人なんかもってこなくてもよい。そ
ういうことになるのです。
問う末法に入って初心の行者必ず円の三学を具するや不や、答えて曰く此の義大事たる故に経文を勘え出
して貴辺に送付す、所謂五品の初二三品には仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る慧又堪ざ
れば信を以て慧に代え・信の一字を詮と為す、不信は一闡提謗法の因・信は慧の因・名字即の位なり、天台
云く「若し相似の益は隔生(きゃくしょう)すれども忘れず名字観行の益は隔生すれば即ち忘る或は忘れざるも有り忘るる者も若し知識に値えぱ宿善還って生ず若し悪友に値えば則ち本心を失う」云云、恐らくは中古の天台宗の慈覚・智証の両大師も天台・伝教の善知識に違背して心・無畏・不空等の悪友に遷(うつ)れり、末代の学者・慧心の往生要集の序に誑惑せられて法華の本心を失い弥陀の権門に入る退大取小の者なり、過去を以て之を推するに未来無量劫を経て三悪道に処せん若し悪友に値えば即ち本心を失うとは是なり。末法において南無妙法蓮華経を修行する者は、戒定慧の三学をやらなければならないかという問題に対して、大聖人様の仰せがある。
このことは大事であるから、経文を引いて説明します。初品、二品、三品の問題において、戒を持つとか禅定
の境涯をやれとかいうことは、経文にはいっていない。初品と二品と三品は兼行六度、正行六度ということは
いっておりません。初品、二品、三品は智慧の修行である。南無妙法蓮華経の境涯は、すぐつかむほどの智慧が
ないから、信をもって智慧にかえるのです。以信代慧といって信心がもっとも根本です。
前も言いましたように、学会を離れてお寺の修行をする者は、功徳をうけないということがよくある。なぜか
というと、僧侶が信者の機嫌をとるのです、そうすると、これが初心の者には一番あぶない。僧侶と仲良くなっ
て、えらく信用をうけたように思って、信心が衰え功徳が出ないのです。だから初心の人には、他のことをさせ
てはいけない。信心のことは、ただ御本尊様を拝む、ただ折伏する、それでいいのです。それを変に学会でも
「班長さん班長さん」と班長さんの機嫌をとったり、地区部長さんの機嫌をとる、それでなんだかいい気になっ
ている。これはあぶないことです。功徳が出ない。機嫌とってはダメです。(拍手)よし、それでは悪口いってや
ろう、それもダメです。機嫌とることなくして、正しく付き合えということです。
不信ということは、一闡提の因をつくることであります。一闡提というのは謗法のことです。信ずるというこ
とは智慧の因である。一念信解ということは、名字即であるというのです。
先ほど申しましたように、名字即から観行即、相似即、分真即、究竟即と位を上がっていく。相似即の位は隔
生すれども忘れず、一度死んでもまた生まれてくるというのです。これは生命の当然の姿ですから生まれてくる。
そのときに、相似即まで上がった人は、前の生命の真実を忘れない。そのまま仏法の修行を続けていくというのです。ところが、観行即や名字即という位で死んだ者は、この次に生まれてきたときは、信心をしたことを忘れる者もあるし、忘れない者もあるが、そのときに善知識、すなわち正しい仏法を教える人にあえば、忘れた者も、宿善が生じ前の修行からさらに進んでくる。悪友というのは悪い仏法を教える人。その人にあえば、まったく正法を信ずる心を失って、三悪道というとんでもない境涯に落ちてしまう、ということを天台はいっています。
日本の天台宗を批判していうのには、すなわち最初には、伝教・義真という立派な方が正法を弘めたにもかか
わらず、三代目、四代目の慈覚・智証が天台大師、伝教大師の教えに背いて、真言宗におちてしまった。すなわ
ち善無畏三蔵とか不空三蔵の悪友に親近した。だから天台宗がメチャメチャになったのだというのです。また、
その後の者たちも、慧心の往生要集にだまされて、弥陀の方がよいといって法華経を離れてしまった。いわゆる
高い経文をすてて、小乗経にはいったものである。ところで過去の色々の事実より推するのに、これらの人は未
来無量劫の間、三悪道すなわち地獄、餓鬼、畜生の境涯を流転するであろう。かわいそうなことです。だから死
後の生命ということを考えれば、題目の功徳というものは大きいのですから、この世だけでしあわせになるので
はなく、未来永劫にしあわせになるのです。だから仏法修行は大事なのです。