四信五品抄講義
(御書全集三三八ページ)
青鳧(せいふ)一結送り給び候い了んぬ。
ここは、いつものように、お金すなわち穴あき銭を、一たば送られてきたのについてのお礼であります。
今来の学者一同の御存知に云く「在世滅後異なりと難も法華を修行するには必ず三学を具す一を欠いても
成ぜず」云云。
釈尊の仏法と日蓮大聖人の仏法に対する相違について、だんだんと説かんとあそばしているところです。
すなわちこのころの学者、法華経を修行する者がいうのには、釈尊在世であろうと、正法、像法、末法という
釈尊滅後であろうと、戒定慧の三学が大事であると説いている。
三学といいますのは、戒律、禅定、智慧の修行であります。
ところで、これが大聖人様の仏法では問題になってくる。大聖人の仏法は釈尊の戒を用いない。末法無戒とい
うことがあります。ところがそれを、よく、習いたての人は間違って「末法は無戒なんだ。だからなにやっても
いいんだ」ということをいいだす者がいる。それは大きな間違いで、末法無戒という言葉は、大聖人の仏法には、
釈尊のこしらえた五戒、十戒、二百五十戒、五百戒等の釈尊の仏法の戒がないのだ、大聖人の立てた戒律を用い
るのだという意味です。「末法無戒だからなんでもやっていいのだ」と、こういうとんでもない読み方をする人
がありますから、用心して指導しておいて下さい。
余又年来此の義を存する処一代聖教は且らく之を置く法華経に入って此の義を見聞するに序正の二段は且
らく之を置く流通の一段は末法の明鏡尤も依用と為すべし、而して流通に於て二有り一には所謂迹門の中の
法師等の五品・二には所謂本門の中の分別功徳の半品より経を終るまで十一品半なり、此の十一品半と五品
と合せて十六品半・此の中に末法に入って法華を修行する相貌分明なり是に尚事行かずんば普賢経.涅槃経
等を引き来りて之れを糾明せんに其の隠れ無きか、其の中の分別功徳品の四信と五品とは法華を修行するの
大要・在世・滅後の亀鏡なり。
大聖人様も戒定慧という三学については、深く考えておられるが、今の学者の考えとちがって、末法の修行は、
釈尊の仏法の三学の修行とは、おおいに異なるということです。まずこれを論ずるに当たって、釈尊一代の仏法
については、まずこれは止めておこう。あまり大きな問題になるから肝心要だけ説いて聞かせようというのです。
そこで今、序正の二段はしばらく、これをおくというのは、序分と正宗分と流通分というものが、仏法では大
事な問題でして、たとえ小乗教でも権大乗教の教えでも、文上・文底にかかわらず、みな序分と正宗分と流通分
があるのです。序分とは準備段階です。正宗分とは、その仏法の中心になる学説、根本問題すなわち本懐を述べ
るのです。流通分というのは、正宗分を弘めていくところの方法を説いたものです。
法華経の中には迹門にも流通分があるし、本門にも流通分がある。この流通分の経文こそ、末法では鏡として
用うべきことではないかとある。
迹門では、法師品第十から安楽行品第十四までの五品が、流通分になるわけです。今度は本門になりますと、
寿量品の次が分別功徳品になります。その分別功徳品第十七の後半品から普賢品第二十八までの十一品半が、本
門の流通分であるという。
ところで、法師品からの五品と本門の十一品半を合わせて十六品半が、末法にいたって、南無妙法蓮華経を修
行する方法が明らかに説かれている。
もし、この十一品半で、あるいは五品加えて十六品半でも、まだ末法において法華経修行の方法がはっきりし
ないというならば、この法華経の結経という、二十八品終わってから観普賢菩薩行法経というものがありますが、
これと、この次に説かれた涅槃経とをもってみるならば、なお明らかであろうというのです。
その中でも、分別功徳品の半品に示されている四信と五品が、在世にもせよ、滅後にもせよ、法華経修行の肝
心であろうというのです。
四信というのは、信心の段階を四つに分けたものである。五品というのは、修行の方法、位に五つあるという
のです。いずれにしても、大聖人の仏法の場合、根本とすべき修行は、御本尊様に題目を唱えるのが、一番肝心
要のことなんだよというのです。釈尊の仏法では、信心の段階に四つあり、修行のしかたに五つあるといってお
りますけれども、大聖人様の信心にくれば、四つある信心のうちの一番最初の初信でよし、また五品の位でいえ
ば初品で結構だと、こういうふうに結論づけられるわけです。
「爾の時に仏、弥勒菩薩摩訶薩に告げたまわく、阿逸多、其れ衆生あって、仏の寿命の長遠是の如くなるを聞
いて、乃至能く一念の信解を生ぜば、所得の功徳限量あることなけん」
これは分別功徳品の中の流通分の最初の経文なのです。
阿逸多とは弥勒菩薩のことです。「弥勒よ、仏の寿命の長遠是の如くなるを聞いて」とありますが、これは御本
尊のことです。なぜなら、なんベんもあなた方お聞きと思いますが、寿量品というのはわれわれが朝晩あげてお
りますが、仏の長遠の生命を説いており、その寿量品の文底に南無妙法蓮華経がある。それを説いてから分別功
徳品で、みんな、そうですかと返事をし、分別功徳品は功徳になってくるのです。「そうですか、あなたの生命
はそんなに長遠なのですか」と歓喜し勇躍した。そのことによって、ことごとく成仏することができたというの
が、寿量文上なのです。文底になってくると、仏の寿命の長遠を聞いてとは、御本尊様に会えてというように、
末法今日では読まなければならないことになるのです。
ところで、仏の長遠の生命を聞いて、一念に信解する。これは信心の一番最初をいうのです。自分の生命の上
に、瞬間の生命の働きととってもよい。ただ一念にそれを信じてしまう、御本尊様を拝んで、わけがわかっても
わからなくても、とにかくそれを信ずる、それが最初の信心の姿だというのです。その功徳というものは限りが
ないというのです。
「若し善男子・善女人あって、阿耨多羅三藐三菩提の為の故に、八十万億那由佗劫に於て五波羅蜜を行ぜん。
檀波羅蜜(だんはらみつ)・尸羅波羅蜜(しらはらみつ)・黎提波羅蜜(せんだいはらみつ)・毘黎耶波羅蜜(びりやはらみつ)・禅波羅蜜(ぜんはらみつ)なり、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)をば除く。是の功徳を以て、前(さき)の功徳に比ぶるに、百分・千分・百千万億分にして其の一にも及ばず、乃至算数・譬喩も知ること能わざる所な
り。若し善男子、是の如き功徳有って、阿耨多羅三藐三菩提に於て退すといわば、是の処あることなけん」
阿耨多羅三藐三菩提のために、すなわち仏に成るために、八十万億那由佗劫の間も五波羅蜜を修行した。その
五波羅蜜というのは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定の五行をいいます。しかし、そのような修行も御本尊様を
信ずる一念信解の功徳にはおよばないのだというのです。ただわれわれが御本尊様がありがたい、御本尊様がも
ったいないという一念信解の心が、釈迦仏法の何十万億那由佗劫の間の修行にまさると、釈尊自身がここでいっ
ているのです。
「若し善男子、是の如き功徳あって、阿耨多羅三藐三菩提に於て退すといわば、是の処あることなけん」
このような一念信解の功徳があるのを、成仏ということにおいて、退転することありといわば、そういう理由
は絶対たてるわけにはいかんという、おもしろい言い方です。
次に第二信にはいります。
「又阿逸多、若し仏の寿命の長遠なるを聞いて、其の言趣を解する有らん。是の人の所得の功徳、限量あるこ
と無くして、能く如来の無上の慧を起さん」
ほぼ、色々の理論がわかることです。これを略解言趣といいますが、これは前の信心よりも一段上の信心だと
いうことになります。
「何に況んや、広く是の経を聞き、若しは人をしても聞かしめ、若しは自らも持ち、若しは人をしても持たし
め、若しは自らも書き、若しは人をしても書かしめ、若しは華香・瓔珞・幢旛・繒蓋・香油、蘇燈を以て、経巻
に供養せんをや。是の人の功徳無量無辺にして、能く一切種智を生ぜん」
仏の寿命長遠を聞いて経巻に供養し、すなわち御本尊に供養し、これは説法し折伏して御本尊様に立派なも
のを御供養する。その功徳はたいへんなものです。だんだん段階が上がるでしょう。
前には御本尊様のことを聞いて、ほぼわかる程度、時がたつと忘れるようなものです。それでも第二信だから
安心してよろしいです。(笑い) 今度は忘れない組になって、少しでも説いて聞かせ、御本尊様に御供養もする。
これ第三信の位です。
「阿逸多、若し善男子・善女人、我が寿命の長遠なるを説くを聞きて、深心に信解せば、則ち為れ仏、常に耆
闍崛山に在して、大菩薩、諸の声聞衆の囲繞せると共に説法するを見、又此の娑婆世界、其の地瑠璃にして担然
平正に、閻浮檀金以て八道を界い、宝樹行列し諸台楼観皆悉く宝をもって成じて、其の菩薩衆威く其の中に処
せるを見ん。若し能く是の如く観ずることあらん者は、当に知るべし、是れを深信解の相と為づく」
これが一番信心の最高品、すなわち第四信の位です。大御本尊様を純真に信ずる。そうすれば、大御本尊様そ
れ自体の中に、大聖人の御説法の御姿をそのまま感ずることができる。姿が見えるのではなく感ずることができ
る。そうすれば、このわれわれが穢土だと思っている娑婆世界が、まことに極楽のような土地に変わってくると
いうのです。そうならば、それが初めて、深信解の相すなわち深く信じ解するの相です。これで信心したおかげが
あったわけです。仏の境涯であろうというのです。これが私のいう「絶対の幸福境」です。腹が立っているとき
は、風が吹いてもしゃくにさわるのです。夫婦ゲンカしたあとなどは隣の犬をみても腹が立つ。(笑い) ところが、
気分が良くて金がふところにたっぷりあって、からだが丈夫で気分の良いときなどは、世の中が自分のためにで
きているようなものではないか。そう思いませんか。そんな覚えはないのではないですか。(爆笑) 夢でもいいか
ら、一ぺんやってみたいなどというのでは、どうにもなりません。そのように、こっちの生命の状態によって、
この世の中が変わって感ずるのです。年寄りの方でも、若いときに恋愛をしたときの、あの気分です。腹なんか
立ちません。ところが会う時間に向こうが来なかったりすると、こう腹が立って、すぐ地獄の生命だ。世の中の
ことに皆腹を立てる。そういうもので、本当に御本尊様を信じて、題目をずーッとあげていきますと、どんなと
きでも、どこに行っても楽しくおもしろいのです。いつもいうとおり、そのときに借金があっても楽しい……、
それはウソです。借金取りにこられて、ああウグイスの声なんて、それは負け惜しみです。(笑い)それで楽しい
と思えなんて、無理のように思えるのです。普通の商売同士の交際でも、親類同士の交際でも、普通にできない
ようではいけない。親類が東京に子供を連れて、夏だからやって来て「なん日いるんだ、米は大丈夫か」などと
(笑い) いうのでは、どうも困るでしょう。自分が病気でも困るし、子供が病気でも困る。それで、この娑婆世
界が、地は瑠璃でしきつめて平らかで、家々は黄金で飾ってあり、七宝をもって飾ってあるという。そういう世
界はないけれども、これは譬えです。そういうような、世界観や人生観ができ上がるということでしょう。これ
は、あなた方が、一生かけてやってごらんなさい。なるか、ならんか、ためしてごらんなさい。ならんわけはな
いでしょう、仏様はなるといっているのです。ならなければ仏様がウソつきになります。このことは人にも教え
てやるのです。