実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実

の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のす

がたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり、天台云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」

と云云、此の釈の意は実相の名言は迹門に主(ぬし)づけ本有の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり、此の釈能

く能く心中に案じさせ給へ候へ。

 

 大日如来とか阿弥陀如来などというのは、普通の仏です。普通の仏などは、ホットケばいいのです。(笑い)

 諸法とは、いろいろの動きです、それがことごとく十界に列して、それが実相と説かれるという意味です。

 諸法実相とは、何かということをお説きになっているのです。実相とは南無妙法蓮華経の異名です。諸法とは、

あらゆる妙法蓮華経の姿そのままである。地獄は地獄のまま、餓鬼は餓鬼のまま、畜生は畜生のままの姿、それ

を諸法実相というのです。ありのままで、人間が付き合いできたら、本当の姿で付き合いできたら、良いような

ものだけど、またつごうの悪いものです。やってごらんなさい。といって、それをまたウソの姿でやってもつご

うの悪いものです。ありのままが良いといっても、ありのままにはいかないし、ありのままがダメだから、ウソ

ばっかりやれといっても、つごうの悪いものです。そこに基準として、われわれは、その本体であるところの南

無妙法蓮華経を信じ、南無妙法蓮華経というものを唱え、こだわらない気持ちの上に、この人生を送っていこう、

こだわらない気持ちで、腹を立てたり憎んだり機嫌をとったり、ヤキモチをやいたり、そんなことをしないで、

おだやかな、本当にオホホ、オホホといって(笑い)生きていくのが大聖人様の御心です。

 

 実相の深理(じんり)、実相というものの中に、ほんとうの姿、地獄なら地獄、餓鬼なら餓鬼、その本当の態(たい)をつきつめてみれば、本有の妙法蓮華経の姿です。

 ですから、本当の姿をじっとみつめてみれば、この実相のことばは、妙法蓮華経という本体から現われた迹の

姿であり、迹門に主づける。本有の妙法蓮華経というものは、本門の上のことだと断じられたのであります。

 

 日蓮・末法に生れて上行菩薩の弘め給うべき所の妙法を先立て粗ひろめ、つくりあらはし給うべき本門寿

量品の古仏たる釈迦仏・迹門宝塔品の時・涌出し給ふ多宝仏・涌出品の時・出現し給ふ地涌の菩薩等を先作

り顕はし奉る事、予が分斉にはいみじき事なり、日蓮をこそ・にくむとも内証には・いかが及ばん、されば

かかる日蓮を此の嶋まで遠流しける罪・無量劫にもきへぬベしとも覚へず、譬喩品に云く「若しの罪を説

かば劫を窮むるも尽きず」とは是なり、又日蓮を供養し又日蓮が弟子檀那となり給う事、其の功徳をば仏の

智慧にても・はかり尽し給うベからず、経に云く「仏の智慧を以て籌量(ちゅうりょう)するも多少其の辺を得ず」と云へり

 

 上行菩薩が現われて、弘めたもうベきところの南無妙法蓮華経という言葉をば、日蓮ほぼこれを弘め、しかも、

その上行菩薩御出現したもうときに、作り顕わすべき久遠元初の古仏たる釈迦・多宝如来、あるいは涌出品に現

われる地涌の菩薩の姿をば、ほぼこれを作ったということは、自分としては、非常にありがたいことに思えてな

らない。行きすぎたように思うと。これは御自身のことをいっておられるのです。

 古仏とか多宝仏とか地涌の菩薩とかいうのは、御本尊に作りたもうたことをいっているのです。それを仏立宗

の人々は、観心本尊抄やこういうところから、久遠の釈迦仏は古仏である。古仏というとインド人は黒いから、

きっと真っ黒な顔をしてるにちがいない、その上に古仏ですすけたから、なお黒いのだといって、真っ黒な顔の

大聖人の像を作って、古仏とか名づけてやっているそうです。バカもここまでくると、もう死ななければなおら

ない。(笑い)

 

 大聖人を憎むといえども、いかでか内証におよばん。内証とは、すなわち仏の悟りです。大聖人の姿は憎くて

も大聖人の御心の状態、生命の状態は、佐渡においてこの御書をお認めのときは、すでに久遠元初の自受用報身

如来とあらわれている。これは開目抄において、厳然として明らかなことです。すでに、佐渡においでの前に竜

の口において、もうすでに凡身をきりすて、久遠元初の自受用報身如来と御立ち還りあそばした。ですから、ど

んなに大聖人を憎いと思っても、内証にはおよばないと、厳然といいきったのです。だから大聖人様を佐渡の島

まで流した罪は、無量劫までも消えぬであろう。これは本当に消えません。

 

 譬喩品にあるように、その仏をば悪口いった罪、法華経の行者を悪口した罪は劫をつくしても、八百万年かか

ってもいいつくせないであろう。また反対に大聖人を供養した功徳というものは、仏の智慧をもってもはかるこ

とができない。だから経文に仏の智慧をもっても、その限界を推し測ることができないとあるではないかという

のです。創価学会は大聖人に供養しております。御本尊様に供養しております。ですからわれわれの功徳という

ものは、きちんとあるのです。ないわけはない。なかったならばこの御書はウソになります。また釈尊のいいぶ

んもウソになります。かならず功徳があるのだから、あせらないで信心を続けるのです。

 

地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや入りなまし、若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば

豈に日蓮が弟子檀那・地涌の流類に非ずや、経に云く「能く竊(ひそ)かに一人の為めに法華経の乃至一句を説かば

当に知るベし是の人は則ち如来の使・如来の所遣として如来の事を行ずるなり」と、豈に別人の事を説き給

うならんや、されば余りに人の我をほむる時は如何様にもなりたき意の出来し候なり、是ほむる処の言より

をこり候ぞかし、末法に生れて法華経を弘めん行者は、三類の敵人有って流罪死罪に及ばん、然れどもたえ

て弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほひ給うベきぞ、諸天は供養をいたすべきぞ・かたにかけせなかにをふべ

きぞ・大善根の者にてあるぞ・一切衆生のためには大導師にてあるべしと・釈迦仏多宝仏・十方の諸仏・菩

薩・天神・七代・地神五代の神神・鬼子母神・十羅刹女・四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・

山神・海神・大日如来・普賢・文殊・日月等の諸尊たちにほめられ奉る間、無量の大難をも堪忍して候な

り、ほめられぬれば我が身の損ずるをも・かへりみず、そしられぬる時は又我が身のやぶるるをも・しら

ず、ふるまふ事は凡夫のことはざなり。

 

 地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の中であろうかという疑問符をおいて、大聖人が地涌の菩薩

であるならば、大聖人の流類はみな地涌の菩薩ではないか。だからみんな地涌の菩です。

 すなわち経に如来の使いとして、如来の事を行なうものがあるとあるが、これ日蓮がことなりと仰せられてい

るのです。

 すなわち人にほめられれば、なんでもやりたくなる。ほめられればカラの財布のひもをといて、ソバの一杯も

食わせたくなるというのです。「ああきれいだなあ」というと、あまりきれいな顔をしていなくても「一杯おご

りましょう」といったようになる。

 そこで大聖人様はどなたにほめられるかというと、仏様にほめられるということをおっしゃっている。末法に

おいて、強いて法華経を弘めるものは三類の強敵にあう。しかも、強いて弘めれば流罪、死罪にあう。

 しかるに、そういう人をば、仏は衣をもっておおうとあるから、この品の言葉がうれしいから、私は一生懸命

にやったと、こういうのです。諸天は供養をしてくれる。これは大聖人様のみではありません。末法今日におい

て、すなわち広流布のために、闘争しているところの人材に対しては、諸天は加護をいたします。心配するこ

とはない。諸天は肩にかけ、背中におうて行くベきである。大善根の者とほめられる。一切世間に対して、われ

われには大導師という資格がある。

 あらゆる仏様、神様からほめられるから、大聖人様も勘忍して、三類の強敵なにものぞといって、広宣流布の

ために、御立ちあそばしているということです。

 われわれ凡夫というのは、ほめられれば、財布の中に穴があくようになっても出してしまう。またそしられれ

ば、向こうが強いからなぐられると思っても、かみついてしまう。それは凡夫の常であると、こういうのです。