諸法実相抄講義 の1
問うて云く法華経の第一方便品に云く「諸法実相乃至本末究竟等」云云、此の経文の意如何、答えて云く
下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり依
報あるならば必ず正報住すべし、釈に云く「依報正報・常に妙経を宣ぶ」等云云、又云く「実相は必ず諸法・
諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」、又云く「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘慮の身
土は凡下の一念を逾(こ)えず」云云、此等の釈義分明なり誰か疑網を生ぜんや
朝夕あげている方便品の「諸法実相・如是相・如是性・如是体……」という文を三度繰り返して唱えます。こ
れは空仮中の三諦になぞらえて、三度唱えるのですが「これはいったいどういう意ですか」と大聖人様におたず
ねしたところが、お答えには下地獄より上仏界にいたるまでの十界の姿が、ことごとくみな妙法蓮華経のすがた
を説いた経文であるとおっしゃっているのです。
依報といい正報といいますのは、あなた方は今みな客殿の中にいる。しかし、客殿であるか客殿でないかわか
らない。今ここで小便が詰まって動けなくなったとする。そうすれば苦しくて客殿であるかどうかわからないで
しょう。早く行かなければならないが、立つわけにはいかない。すると、ここが客殿ではなくて、地獄の世界にな
る。前の方でおならをするとあとが臭くてたまらない。(笑い) 胸の中でむしゃくしゃしたら修羅界です。(笑い)
ところが、御本尊様の前で大聖人様の御書の講義を聞く、私はうれしくてたまらない、これは天界でしょう。そ
の一字一句が、わが身にあたってありがたく拝すれば、これことごとく菩薩界ではないですか。そうなってくる
と皆さんは、同じ一つの客殿の中で各々十界に分かれて住まっているではありませんか。その十界に分かれてい
るあなた方の本体を正報といい、すわっているその世界を依報というのです。依報あるならばかならず正報ある
べしとおっしゃるのはそこです。依報・正報ともに妙法蓮華経の境涯であるというのです。
実相というものはかならず諸法、本当の姿ということは、しゃくにさわって隣の人の尻をつねるというのも、つ
ねることが実相である。諸法はかならず十如、皆その姿をもち、性分をもち、態度をもち力をもち、作用あり、因
縁果報の状態をもっているのですから、かならず十如です。十如はかならず十界に具している。十界はかならず
身土、わが身であり、わが国土である。観念の世界だけではない。それが東洋の哲学であると、こういうことです。
またいうのには阿鼻という地獄の心境は、そのまま仏の境涯の中にあり、仏の心は、われわれ凡俗の一念以上
のものではない。仏であるから特に偉いと思ったが、あにはからんや、われわれ凡俗の生命と変わりはない。そ
うすると、われわれ凡俗といい地獄といい仏といい、十界そのままこれこの世界ではないか、それを妙法蓮華経
というのです。一つの部屋に集まった人々が、ことごとく極楽世界であり、ことごとく菩薩の世界であると思っ
たにかかわらず、深くつきつめてみれば、十界おのおのの世界にみな暮らしている。これが仏法の原理であり、
妙法蓮華経の状態であるというのです。
大聖人様の教えに従って、釈義分明である。釈義分明なのですから、誰も質問なんかする必要はない。分明で
しょう。誰か疑いを生ぜんやです。(笑い)
されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益
を施し給う時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ、かくの如き等の法門・日蓮を除き
ては申し出す人一人もあるべからず、天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし.
胸の中にしてくらし給へり、其れも道理なり、付属なきが故に・時のいまだ・いたらざる故に・仏の久遠の
弟子にあらざる故に、地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出
現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、
是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり、されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法
蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏な
り、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏な
り、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に
三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三
仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり、此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども
迷悟の不同にして生仏・異なるに依って倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、さてこそ諸法と
十界を挙げて実相とは説かれて候へ
あらゆる現象界というものは、みな妙法蓮華の姿です。大宇宙の状態、あるいは大宇宙の生命それ自体を妙法
蓮華経というのです。ですからわれわれの生命も、それ自体妙法蓮華経なのです。南無妙法蓮華経というのは、
ちょっと動けば風になり、ちょっと動けば人間になり、ちょっと動けばネズミになるというわけです。ちょっと
動けば腹が立ち、ちょっと動けば愉快になるというわけです。だから法界はことごとく妙法蓮華経、妙法蓮華経
の動きの変わったものです。変化の状態です。
宝塔品に説かれている釈迦多宝の二仏というも、妙法蓮華経という体の仏から用の仏として現われて、末法に
妙法蓮華経を弘めようという御相談をあそばした。すなわち働きの仏であると断じられるのです。
こういう大事な法門、すなわち南無妙法蓮華経という仏法は、大聖人を除いては誰人も教えることはない。天
台・妙楽・伝教等は知っていたけれども、他にむかって説かなかったのだと。
それでは・なぜ前の天台や妙楽がいわないかといえば、第一に付属がない、第二に時期がこない、第三に久遠
の弟子ではない、久遠元初の自受用報身自体ではない、その弟子ではない。だからいわなかったのだという。
すなわち宝塔の前に涌出して、久遠元初の釈迦如来から、末法において、南無妙法蓮華経を弘むべしと誓いを
立てたそのときの上行・無辺行・浄行・安立行にあらずんば、誰か寿量品の御本尊を末法にきて、弘めかつ顕わ
す人はあるものか、天台や妙楽ではできないわけだと、こうおっしゃる。
南無妙法蓮華経という仏様こそ本仏で、釈迦といい多宝というも、それは用の仏である。倶体倶用といいまし
て、体と働きがあり、体は南無妙法蓮華経、働きは釈迦多宝ということになるのです。
寿量品に「如来秘密神通之力」とあり、如来の秘密というのは、体の三身で本仏である。仏の三身すなわち法
身、報身、応身の三身である。神通之力というのは、用の仏として法報応の三身を具する。
秘密とは、われわれが仲間同士でいうような秘密ではない。仏のみ知ろしめし、仏がいまだ説かないところの
ものをば、秘密というのです。御本尊様に向かって、われわれが題目を唱えるが、仏様はなにもおっしゃらない。
しかし、仏様はきちんと知っていらっしゃるのです。いってくれればいいのだが、つごうの悪いことです。御本
尊様だけが知っておられ、そして、いまだ説かないところのものです。だから本仏なのです。ところが、われわ
れがこの御本尊を拝みまいらせると、ここに神通の力があらわれて、きちんと貧乏人は金持ちになり、病気は治
り、心は勇ましく強くなる。これが神通力なのです。秘密は御本尊様であり、神通力はこっちに現われてくるの
です。御本尊様に神通力が出てきて、御本尊様から帝釈天が出てきたり、鬼子母神が出てきたりしたら、御本尊
様を拝むのがいやになります。冗談ではない。(笑い) いらっしゃるものやら、いらっしゃらないものやら、これ
は秘密ですから絶対にわからない。しかし、御本尊様は神通之力だから、きちんとわかる。ことにご婦人の方な
んかは、鬼子母神とか十羅刹とは仲が良いでしょう。(笑い)
そうなってくると、われわれ凡夫は本仏だというのです。仏様だと思ったのが、働きの仏様だというのです。
どう信用してよいやら、いって良いやら悪いやら、われわれみたいな凡夫が、本仏だとおっしゃる。まことに、
もったいない話ですけれども、どう御返答申し上げてよいやら、わかりませんから、帰って、つらつらと思索を
して下さい。
まことに、ここも申しわけないところです。仏様が主師親の三徳であると思ってきたにもかかわらず、大聖人
様は、仏に三徳を授けたのは、われわれ凡俗であると仰せられている。まことに、もったいない話です。しかし、
よくよく考えてみれば、そうかもしれません。なにも、われわれのようなバカ者がそろっていなければ、仏様御
出現の必要がないのです。われわれがいるから、しようがないから仏様はお出ましになったのです。そう思うと
なんだか、こっちが御本尊様に恩をきせたようなものです。
如来というのは三世十方の諸仏、二仏、三仏、本仏、迹仏である。そのうち本仏というのは、われわれ凡夫で
ある。普通にいう仏というのは、迹仏である。倶体倶用、迷悟の不同によって、生仏 ー 生とは衆生、仏とは仏 ー の異なりがあり、倶体倶用の三身のことがわからないのである。如来というのは、ここで実感的に受け取れ
るのはわれわれです。
如(にょ)、如(にょ)として来る、これが如来です。如、如として来てしまって、いなくなったのを去来という。
これから先に如、如と来るを未来という。その如とは瞬間、瞬間の生命活動をいい、如、如としているのは誰かといえば、われわれではないですか。如とは瞬間、今でしょう。今来たけれども"今"でなくなっているのでしょう。如、
如として来る、その世界はわれわれしかもっていません。だから如、如としてきたる凡夫を如来ときめるのは正
しいことがわかります。いつも、われわれは如来になっているのです。現在にしか生きていないでしょう。すぐ
過去になってしまうのです。そして、すぐ未来に突入するのです。いつでも現在です。そうならば、哲学的に時
というものを考えて、時を表現する言葉として、現在というものが如来ならば、いつも、如来でしょう。これく
らい不思議なものはありません。如々として生きているわれわれ、如々として来るわれわれ、それこそ妙である。
しかも、それが法でしょう。規則どおりに、一定のリズムに乗って活動し、また生死を繰り返しているでしょう。
ですから、如来これ妙法です。