これをあらあら経文に任せてかたり申せば・日本国の男女・四十九億九万四千八百二十八人ましますが・

某一人を不思議なる者に思いて余の四十九億九万四千八百二十七人は皆敵と成りて、主師親の釈尊をもち

ひぬだに不思議なるに、かへりて或はのり(詈)或はうち(打)或は処を追ひ或は讒言(ざんげん)して流罪し死罪に行はるれば、貧なる者は富めるをへつらひ賤き者は貴きを仰ぎ無勢は多勢にしたがう事なれば、適(たまたま)法華経を信ずる様なる人人も世間をはばかり人を恐れて多分は地獄へ堕つる事不便なり

 

 日本の国に、四十九億九万四千八百二十八人の人がいる。大聖人様がえらくていねいにお書き下さるので、私

もこれにはまいりました。これは、その当時の人口調査なのです。大聖人様は出典の明らかでないものはお用い

になりません。そこで、今でさえも一億にならないのに、そのころに四十九億とはと疑問に思うでしょうが、こ

の億は万の十倍の十万のことです。だから四百九十九万四千八百二十八人となります。そのうちのお一人という

のは大聖人様お一人です。そのお一人を除いては、ことごとく謗法であると論じているのです。

 そして、主師親の三徳の仏を尊敬しないばかりでなく、ただ一人の法華経の行者を、ののしったり、打ったり

追放したり、あるいは讒言を用いて流罪し、または死罪にしようとする。まことに間違ったことではないかと、

こういうところです。

 そして貧しい者は富める者にへつらい、賤しい者は高貴な者を貴び、無勢の者は多勢に従う世の常の習いで、

大聖人様に従う者は誰もいなかった。たまたま大聖人様を信じて御本尊を拝むようになった人々も、多くの人は

世間を恐れ、人を恐れて退転して。地獄におちる人が多かった。これは、まことに不愍(ふびん)であるというのです。今も同じです。まことに、こういう人はかわいそうです。

 

 但し日蓮が愚眼にてや・あるらん又宿習にてや候らん法華経最第一・已今当説難信難解・唯我一人能為救護

と説かれて候文は如来の金言なり敢(あえ)て私の言にはあらず、当世の人は人師の言を如来の金言と打ち思ひ・或は法華経に肩を並べて斉(ひと)しと思ひ・或は勝れたり或は劣るなれども機にかなへりと思へり、しかるに如来の聖教に随他意随自意と申す事あり、誓えば子の心に親の随うをば随他意と申す・親の心に子の随うをば随自

意と申す、諸経は随他意なり仏一切衆生の心に随ひ給ふ故に、法華経は随自意なり一切衆生を仏の心に随へたり、諸経は仏説なれども是を信ずれば衆生の心にて永く仏にならず、法華経は仏説なり仏智なり一字一点も是を深く信ずれば我が身即仏となる、譬えば白紙を墨に染むれば黒くなり黒漆に白き物を入るれば白くな

るが如し毒薬変じて薬となり衆生変じて仏となる故に妙法と申す

 

 次に大聖人様は愚眼であろうか。わからないから、こういうことになったのだろうか。あるいは過去の宿習で

あろうかとおおせであります。

 まず、大聖人様のお読みになる法華経は、仏法上最高第一のものであると、経典にあるとおり堅く信ずる。已

今当説の已説とは過去に説いた爾前経、今説とは今説いた無量義経、当説とは未来に説く涅槃経のことで、その

中で法華経が一番難信難解の経文である。こういうことを信じている。また「唯我一人のみ能く救護を為す」と

いうのは、我とは仏のことで、一人よくこの娑婆世界の人々を救い護ると説かれてあるのは、まことに仏の金言

である。こう自分は堅く信じている。そのとおりなのだということです。これは大聖人のお言葉でなく、法華経

の中の言葉だというのです。

 当世の人は、人師の言葉を如来の言葉と誤って ー 人師というのは先ほどありました曇鸞とか道綽とか善導と

か法然とか、あるいは真言宗でいえば弘法など ー が、勝手に説いた学説を、如来の言葉と間違ってとるという

のです。要するに仏の金言と普通の言葉とは、肩を並べたり、あるいは勝れていると思い、あるいはこれは少し悪いけれども、機根に合っていると思っていたりして、法華経こそ已今当説にすぐれた最第一のもので、仏のみよく救護するという最高の経典であることを信じないのです。

 

 他の教には、随他意といって人の心に従って説くものと、随自意といって仏様みずからの心をみずから説いた

ものとがあります。このように経典に二色あるというのです。随他意というのは、たとえていえば、子供がやる

ことに、親の心が従うようなものだというのです。随自意とは、親の心に子供が従うことです。そういうことを

やってはいけません、こういう学校にはいりなさい、夜はこうしなさい、みな親が子を思っていう言葉で随自意

です。このように随自意と随他意との相違があるというのです。

 

 そこで、法華経以外の経文は、衆生の心に随って説かれた経典であるから随他意の経典ということになります。

法華経は仏の心に随わせんがために、衆生がわかろうとわかるまいとに関せず、一切衆生を仏にせんがために仏

が説いた経典です。そこで、諸経は衆生の心に随って説いた教えですから、その経典をいくら信じても衆生の心

以上には出ないと。法華経は仏にするために説かれた経典であるからして、それを信ずればかならず仏になると、

こういうのです。

 

 あたかも白紙に墨を塗れば黒くなり、漆に白い物を加えると白くなるようなもの、これはこのとおりです。法

華経を信ずるということは、毒薬が変じて薬となり、衆生が変じて仏となる、貧乏人が変じて金持ちになるので

す。だから妙法というのです。どういうわけでなるかといっても、なるものはしかたがない。