抑日蓮は日本国の者なり、此の国は南閻浮提七千由旬の内に八万四千の国あり・十六の大国・五百の中

国・十千の小国・無量の粟散国あり、其の中に月氏国と申す国は大国なり、彼の国に五天竺あり、其れより

東海の中に小島あり日本国是なり、中天竺(ちゅうてんじく)よりは十万余里の東なり、仏教は仏滅度後正法一千年が間は天竺にとどまりて余国にわたらず、正法一千年の末・像法に入って一十五年と申せしに漢土へ渡る、漢土に三百年すぎて百済国に渡る、百済国に一百年已上一千四百十五年と申せしに・人王三十代・欽明(きんめい)天皇の御代に日本国に始めて釈迦仏の金銅の像と一切経は渡りて候いき、今七百余年に及び候、の間一切経は五千余巻或は七千余巻なり、宗は八宗・九宗・十宗なり、国は六十六箇国・二つの島・神は三千余社・仏は一万余寺な

り、男女よりも僧尼は半分に及べり、仏法の繁昌は漢土にも勝れ天竺にもまされり。

 

 この段は日本の国に仏法が伝わった、仏法が東漸した次第を説かれてあります。大聖人様時代の仏法のようす

をいわれているのであります。日蓮大聖人様は日本国の者である、これはいうまでもないことです。ところで、

これは、大聖人様がおられたころの世界観であります。このところは、こういう大きな国と小さな国とたくさん

ある。粟散国とは小さな国をいっております。それほどたくさんの国々があるのです。

 

 月氏国というのは、今のインドです。五天竺というのは、インドに五つの国があったということです。

 日本の国は、それから東の方で、小さな国であるというのです。十万余里といいますと、ずいぶん、今の計算

と違うように思いますが。それは実際は、どうなのか知りませんが、このときの一里は中国流の六丁一里をいっ

ているのですから、それを頭において下さい。

 

 ところで、仏教はインドでおこりまして、釈尊の滅後千年間を正法といい、釈尊の滅後千年から二千年の間を

像法といい、それ以後を末法ということになっていますが、正法一千年の間には、仏教はインドにとどまって、

インドから外に出なかったというのです。

 ところで、釈尊滅後千十五年に中国に初めて仏教が渡ってきたのです。それから中国に渡って三百年過ぎてか

ら、今の朝鮮の一部である百済という国に渡ってきたというのです。

 それから百年たって、三十代、欽明天皇の御代に、釈尊滅後一千四百十五年に、日本の国に釈尊仏の金銅の像

と一切経が渡ってきたというのです。

 その日本の国へ仏教が渡ってから、大聖大様の御時代まで七百余年です。その間に仏教典の多いことは、五千

余巻または七千余巻といわれています。また宗旨の数は、八宗、あとからおこった禅と念仏を入れて十宗という

ようにいわれているのです。

 

 ところで、日本の状態をみると国は六十六か国に分かれています。

 その間に神社は三千余社、お寺は一万余であるというのです。また男女の数、すなわち人口から考えますと、

お坊さんと尼さんが、半分以上もできているというのです。その仏教の繁盛ぶりをみると、インドにも中国にも

まさっているではないかと、こういうのです。

 

 但し仏法に入って諍論(じょうろん)あり、浄土宗の人人は阿弥陀仏を本尊とし・真言の人人は大日如来を本尊とす・禅宗の人人は経と仏とをば閣(さしお)いて達磨を本尊とす、余宗の人人は念仏者・真言等に随へられ何れともなけれども・つよきに随ひ多分に押されて阿弥陀仏を本尊とせり、現在の主師親たる釈迦仏を閣きて他人たる阿弥陀仏の十万億の他国へにげ行くべきよしを・ねがはせ給ひ候、阿弥陀仏は親ならず主ならず師ならず、されば

一経の内・虚言(そらごと)の四十八願を立て給いたりしを・愚(おろか)なる人人実と思いて物狂はしく金拍子(かねびょうし)をたたきおどりはねて念仏を申し親の国をばいとひ(厭う)出でぬ、来迎せんと約束せし阿弥陀仏の約束の人は来らず・中有(ちゅうう)のたびの空に迷いて謗法の業にひかれて三悪道と申す獄屋へおもむけば・獄卒・阿防・羅刹悦びをなし・とらへからめてさひなむ事限りなし

 

 この段は、大聖人様の御在世当時に、流行した邪宗の真言宗と禅宗に対する破折であります。今われわれが、

霊友会や立正佼成会や、あるいは仏立宗はいかんというのと同じです。

「創価学会の連中は他宗に対して悪口いうからいかん」などといっている。悪口といっても、悪いものを悪い

というのは、悪口になるのか。良いものを悪いといったら悪口だろうが、悪いのを悪いというのだから、正当な

言だと思うのです。それと同じく、大聖人様が念仏と真言と禅を、今破折しているところです。

 

 仏法の中に入って、いろいろと諍(あらそ)いの論がある。さて、そこで本尊論から行なったわけです。念仏の連中は阿弥陀を本尊としている。また真言宗の者は大日如来を本尊としている。禅宗の者は教外別伝と申しまして、仏もいらぬ、経文もいらぬといって、達磨の教えを主としていますから、達磨を本尊としているというのです。

 ところで、その外の宗教の者はどうかというと、どちらでもよいようなものだと思いながらも、念仏宗の方が勢力があるから、その方へ引っぱられて、阿弥陀を本尊とするようになっているというのです。

 

 ところで、これはおもしろいお認め方でありますが、現在の主師親の釈迦仏のおられるところというのは、本

尊のことです。仏という位は、衆生の親であり、主人であり、師匠でなければならない。それを、その主師親三

徳の仏のおられるところは本土というのです。それ以外を他土というのです。それで十万億の西方などの国へ生

まれることを願うのですから、本土を捨てて他土へ行こうとしている。要するに阿弥陀仏は、主師親の三徳を備えていないと断ずるのです。

 

 ところで念仏を唱えれば、阿弥陀の両方の端に勢至と観音がおって、直ちに、死ぬときに西方浄土へ連れてい

って安らかに暮らさしてくれると、こういうふうに阿弥陀の連中は説いているのです。これは、とんでもない間

違いでして、この四十八願というのは、法蔵比丘という坊さんがおって、こういう願いが通らないならば仏にな

らないという願をたてて、そして仏になったといわれている。これが十億劫の間の仏です。ですから、何遍も

同じことをいっていますが、阿弥陀にもいく種類もあるのです。あなた方のアミダ(くじ)にもいく種類もあ

るでしょう。タダの人もあれば、百円の人もあれば、使いに行く人もあれば、三百円とられる人もあるでしょ

う。

 阿弥陀にも三種類ありまして、権大乗経の阿弥陀は、法蔵比丘四十八願の阿弥陀というのです。法華経迹門に

も阿弥陀があり、因位を尋ねれば大通智勝仏の十六人の王子の中の一人で、その十六王子の一人に釈迦もいたこ

とになっています。また法華経本門の阿弥陀は、久遠実成釈迦如来の分身仏です。名前は同じですけれども、位

はみな違うのです。ところで念仏宗で立てている阿弥陀は、法蔵比丘四十八願の阿弥陀なのです。中国で曇鸞、

道綽、善導等と三人が打ち続いてきたのですが、これは中国の阿弥陀の元祖です。日本では法然になっている、

源空ともいいます。そして、そのときは仏法が乱れ切ったのです、僧侶がみんな仏教なんかやらないでケンカば

かりやっている。武蔵坊弁慶のような者ばかりだ。お経なんか読めない。そして度胸のいい坊さんばかりで、お

経なんか誰も知りはしない。その時代に源空(法然)が阿弥陀経を持ち出した。

 

 ところで今の浄土真宗では親鸞が開祖で、なんとか大納言とかの子供だとウソをついている。あれは大ウソつ

きです。親鸞などというのは、この歴史の上において見当たらない。みつけたら、捜査願いを出しておきますか

ら、知らせて下さい。それは、念仏宗の書いたものはダメです。歴史的のものでなければ証明にならない。大聖

人様の時代は法然といくらも時代が離れていない。ですから、法然の高弟らは御書にも名前が出てきます。親鸞

だけは出てこない。おかしなものです。

 

 それは、それとして、曇鸞、道綽、善導、法然と続いたのが、いわば念仏の正統です。親鸞ではないのです。

この正統の中の根本に間違いがあるのです。

 

 念仏は、どこを用いたかというと、四十八願の願の中の第十八願に「もし我仏を得たらんに、十方の衆生、至

心に信楽して我が国に生ぜんと欲し、乃至十念せんに若し生ぜずんば正覚を取らじ」という願があります。

 法蔵比丘は十方の衆生が、仏を念じて浄土へさっそく生まれてこなければ、仏になりませんといったのです。これを持ち出した。しかし但し書きがあります。「但し五逆罪と正法誹謗の者は除く」とある。だから五逆罪を犯したものは、いくら信心しても阿弥陀かの国へは生まれない。また謗法の者は生まれない。法蔵比丘を認めたとして

も、それだけの但し書きがある。その但し書きを隠してしまって「どんな悪人であっても、ナンマイダゝといえば西方浄土に生まれる」とたてた理論にウソがあるのです。まことに、これはこっけいな話だと私は思う。そういうソラゴトの権大乗教のうちの仮の作り話を信じて、金のタイコでわんわん騒いで、そして念仏をやっているのは、いと浅はかなことであると大聖人様は論じたところであります。

 

 今、来迎の約束、すなわちこれは念仏宗では、死んだときには、勢至と観音がかならず迎えにくるという約束、

だから、みんな死んだら迎えにくると信じているにかかわらず、その約束のとおり迎えにはこない。なにをもっ

て大聖人様はこれを論じたかといいますと、仏法の上から理論的にいっても、また事実の上からいっても証拠が

ある。善導和尚の死がそれです。類聚伝(るいじゅうでん)という本にあります。これは念仏宗では偉い坊さんですけれども、本当に迎えにくると思って柳の木に首を吊ったら、だれも迎えにこないで、木から落ちてしまった。縄が切れて、枝が折れたのか知りませんけれども、いやッというほど地べたにぶっつけて、十四日間、ひどく苦しんで死んだという自記がある。だから、誰も迎えにこない。迎えにこないから「中有のたびの空に迷う」というのです。中有のたびとは、どっちにも行けないことをいうのです。そして謗法の業にひかれて三悪道におち、地獄で苦しめるものがいて、いじめること限りがないというのです。

 

 これは、今の仏法ではなかなかたいへんです。本当にこうだといえば、それは迷信だとこうなる。だが、事実

だからそうだと断ずる以外にはない。これがなかなか説明に骨がおれます。この間も、ラジオ東京とNHKの人がきたときに私がいった。「ここにドイツ語がありますか」といったら「ない」という。「ここにNHKの言葉がありますか」「ない」という。「そんなことないでしょう。ラジオかけてごらんなさい。鳴るでしょう」

 NHKにしてもアメリカの放送にしても、あるから出てくるでしょう。ないといえますか。ある。しかし、それが、どうなっているか、説明つかないでしょう。誰か大学者で説明してくれる人があればよいと思いますが。

 NHKの声が、ラジオ東京の声にオンブしてるともいえないでしょう。ここがラジオ東京で、ここがNHKというわけにもいかないでしょう。あるものなら邪魔になるわけでしょう。これが本当に聞こえたらたいへんです。

耳が十あっても足りない。(笑い)うるさくてたいへんなことです。しかし、聞こえないところに妙なところがあ

るのではないですか。それでラジオをおけば聞こえるではないか。この理論を考えてみますと、死後の生命の実

体が、ほぼ考えついていかれると思います。

 

 われわれの生命は死ぬとともに、大宇宙の大生命に溶け込んでしまう。どこにあるかといったってわからない。

死んだら、その人がいろいろの業を感じて苦しむのです。苦しむのなら、おまえの家のおとうさんとおかあさん

とは、隣同士だから並んで苦しんでいるのかというと、それはわからない。ちょうど、ラジオの電波と同じです。

大生命の中に溶け込んで、あるともいえないし、ないともいえない。いるといえば、出してみろといっても、そ

れは出せない。いないといえば生まれてくる。まことに奇妙な存在です。そのことを空という。それを空諦とい

うのです。それを悟るのを空観といいます。

 

 これが仏法の大事なことで、これがわかってこないと理解できないのです。ここに空諦を明らかにすることに

よって、溶け込んだものが、地獄におちて阿坊(あぼう)・羅刹(らせつ)などという獄卒におどかされるような苦しみをする。その人間はどこにいる、どこにもいない。どこにもいないでいながら苦を感ずる。その苦を感ずるのは何かということになるのです。そこで大乗仏教の常楽我浄の中の我を考えなくてはいけない。その我というものは粒のようなものか糸のようなものか、そんなものでもない、その我がまた空なのです。なんでもかでも空々といえば、それで説明は終わったことになるみたいです。なかなかややこしい。それで話した方も空だから習った方も空なのです。(笑い) それで、わからないで空と、こうなるのです。(笑い) 冗談はさておき、生命の本源はまことに不可思議であり、信心の眼を開いていかねばわかりません