現在の生命と死後の生命

 

神尾 そうすると、われわれの生命というものは、ここに

 ある色身、これは大宇宙の生命から立体的にアブリ出された

 ようなものと考えられるでしょうか。(爆笑) 後のわれわれ

 の生命は、南無妙法蓮華経の宇宙生命の中に、遍満している

 ので、どこにあるのでもないので、何かのかげんで金星にア

 ブリ出されるというような……。(笑)

原島 こういう説明はどうでしょうか。ここに一本の木が

 あるとしますと、これを大宇宙の生命とするのです。その木

 からいろいろ枝も出るし、花も咲きます、こういう枝とか、

 個々の花です、これがわれわれの個々の生命体だっていうふ

 うに考えられないでしょうか。

戸田 出たものというのではないのです。この水(卓上の

 茶碗)を、大宇宙とするのです。風が吹いてここに波ができ

 るでしょう。波の立ったそれがわれわれの生命なのです。

 また大宇宙の生命の動きの一種なのです。だから風がなくな

 れば、また元通りになってしまう。そのように説明していま

 す。

原島 死んだ生命は、宇宙の中に遍満し、溶けこんでいる

 といいますね。こうやって生まれてきていても、やはり溶け

 こんでいるでしょう、この宇宙に。

戸田 溶けこんでるっていうより、宇宙の生命それ自体な

 のです。それ自体が変化を起こしているのだ。

原島 波の頭ですか、変なかしらですねえ。(笑)

渡部 アメーバの足みたいな恰好になるのですか。出たり

 引っこんだりしているから。(爆笑)

戸田 この水が平かで何にも動かない時には、これを唯識

 では、九識真如とか何とかいうのではないですか。大聖人様

 の御書にも「真如の都を出でて、我等流転の……」とかおっ

 しゃっているでしょう。波の立ったところがわれわれの生命

 でも、死ねば元通りになってしまうのです。

神尾 体のまわりにこう垣根をして、ここんとこが俺の地

 所だといっていても、取り去ればもう何の区別もなくなるみ

 たいな……。(笑)

戸田 そう、そんなようなものです。

小平 飛び出したり、ひっこんだりするわけではないで

 しょう。寿量品には、「無有生死、若退若出」とありますか

 ら。

石田(明) こう考えてはいけないでしょうか。私なら私が、

 これを形づくっている一つ一つがそのまま生命であるという

 ふうに考えます。そうすると、もし私が地獄の相をして死ん

 だとします、生命自体が地獄へ堕ちますと、死んで非情の生

 命にあるわけですが、その時は宇宙に溶けこむといいますと、

 全宇宙の地獄界みないな所を、自分の体として、そこに存在

 すると考えてはどうでしょうか。

戸田 大宇宙の地獄界か、大宇宙に溶けこんだあなたの生

 命の我が、地獄を感ずるだけなのです。

石田(明) その我が、こういうような体であると考えては

 ……。

戸田 我は体がないのです。我っていうものは形を持たな

 い。持たないで感ずる。唯、もともと、まだここに肉体が置

 いてありますから、つながりを持ちますから、それで死相が

 黒くなる。

石田(明) 肉体を焼いてしまったら、生命の体というもの

 はなくなってしまうわけですか?

戸田 ないのです。我が存在するその我っていうものもわ

 れわれの肉体で感得するように、どこにあるのでもないので

 す。

山崎 そうしますと、夢の中の自分が、苦しむような、あ

 れでしょうか。

戸田 そうです。あれが我だと一応考えられる。大変こみ

 いった話になったね。

 

十界互具とは

 

石田(栄) 十界互具なのですが、前に伺ったのですが、あ

 らためてまた、お願いしたいのですが。

戸田 どんなことが、はっきりしないのですか……?

石田(栄) 人間界の仏界の地獄界という……(爆笑)

戸田 大宇宙の生命それ自体が十界なのです。それでいて、

 その十界のうちに、われわれ人間界というものが、あるわけ

 なのです。大宇宙の人間界の生命に感応して、一つの変化を

 起こしたのが、われわれ人間界なんでしょう。人間界も十界

 互具だから、人間界の生活の中に、仏界の生活も菩薩界の生

 活もあれば、そういう常住とまではいかなくても、ある期間

 内暮らすわけでしょう。たとえば、牢の中に放りこまれたと

 か、強制労働させられたとかは、地獄界です。その地獄界で

 ありながら、そこで仏界を感ずる場合もあるし菩薩界を感ず

 る場合もあるし。大宇宙の人間界とわれわれの人間界は共通

 なのだ。その人間界でいて毎日の生活の中に、仏界に永く住

 む人もあれば、天界に永く住む人もある声聞界に永く住む人

 もある。人間界の生命のままに、それこそ人間らしく穏やか

 に暮らす人もある。それで、そういう生活の中にまた、十界

 がある。

石田(栄) そうしますと、牢に入っている時は、地獄界で

 すね。人間界所具の地獄界ですね。

戸田 人間界所具の地獄界だから、われわれが、一日とせ

 ず二日とせず、地獄界を強く感ずる世界に置かれる場合があ

 るでしょう。この地獄界について、また人間界を感じ仏界を

 感じ、畜生界を感じるのです。

石田(栄) そうすると、どうしても、三段論法になってし

 まうのです。人間界の地獄界のまた人間界というように。

 (笑)

石田(次) それでは、一念三万になってしまう。(笑) 一

 念三千の、一念という問題から出発しなければいけないと思

 うのです。自分自身を、今、人間だときめこんでしまうと、

 何かおかしくなるんではないでしょうか。

戸田 いや、そうではないのです。なんかの思い違いをし

 てることが一つあるのです。十界互具というと、人間界に生

 まれたのでしょう、われわれは。人間界に生まれたから今度

 は、その中で地獄や畜生その他を感じたりする以外はないと、

 思いこんでいるでしょう。そうではなくて、これは、十界互

 具という方程式なのです。だから、私なら私が、地獄の世界

 におって、人間界ですけれども、どう見たって地獄にいると

 しかみえないような生活をする。

石田(次) 要するにこういうわけですね。十界というもの

 があって、それは互具するものなんだと。

原島 だから、今の話は、二つに分けていいのではないで

 すか。人間が地獄の生活をしてるというのは、もう、一つの

 方程式です。それからまた、別に、地獄界にいながら、人間

 を感じたということと。

小平 話は二つなのです。

戸田 十界互具という、一つの方程式、法則なのです。

石田(次) 十界というものは、もう一段進んで十界に展開

 する性分を持っているのですね。

戸田 そう、AプラスBはイコールCというのなら、これ

 にどれを当てはめても、たすということには変わりなくなっ

 てくるでしょう。そういう法則があるのだから。

原島 それを先にもってくれば判るわけだ。

戸田 人間界に生まれて、地獄の生活をし、そこで天界を

 感ずる場合もある。たとえば強制労働させられていて、飯も

 ろくろく食わせられない時に、腹いっぱい食物をもらったり

 したら「ああ、よかった」と天界を感ずる場合がある。人間

 界で地獄界へ行ったから、あとはもう、どこへも行かないな

 んて、きめこむのはおかしいのです。(笑)

 それから、そういう場合、人間界で地獄へ堕ちたと、そこ

 で天界を感じたら、人間界の天界になると考えていいのです。

 まあまあ、理事長あたりは、今天界の生活だといえるでしょ

 う。それでいて、しょっちゅう、天界かというとそうでなく

 て、呑み過ぎだなんて蒼い顔をしている時があるとそれは地

 獄界でしょう。天界にいて地獄を感ずる。それは人間界の地

 獄といったっていいのだ。

篠原 そうすると、われわれは人間の生活をやっている間

 は、人間界なのですね。

戸田 人間界だ。だけど、人間界の地獄界も、仏界の地獄

 界も、地獄界というのは、みんな同じです。境涯において同

 じだ。その時に何界だなという区別はない、同じ地獄界なの

 だ。

山浦 たとえば、地獄界にいる人が、喜びを感じますね。

 それから、今度、人間界のふつう人並みの生活をしている人

 が喜びの生活を感じますね。その天界を感じた、その瞬間と

 いうものは、両方同じわけで、特別、地獄界の天界だとか、

 何界の天界だとかいう必要はないわけですね。ただ、天界だ

 けでいいわけですね。

戸田 そうです。

山浦 ただ、その天界というものが、また十界に変化する

 素質をもっているということですね。

 

十界本有常住とは

 

北条 人間でも天界なら天界の人間もいると、その天界で

 も十界も感じるのだと、ゆえに十界互具という理論が成り立

 つわけです。したがって、人間界の中に、天界も畜生界もそ

 の他もあるのだと類推してゆけばいいわけです。

戸田 類推したのが天台なのです、「説己心中所行法門」

 といっているだろう。自分の己心に現われたいろいろなもの

 を総合して説いた法門です。

北条 ですから、結局、お金に例をとりましても、これは

 月給だとか、これは別に儲けた金だとか、いろいろいいまし

 ても、金には違いないわけです。人間界の天界とか天界の天

 界だとか、(笑)いっても、天界を感ずる一念に変わりはな

 い、同じ天界だというわけです。

小平 われわれが今何界にいるということは、各人の因果

 によってきまるというようなことで、どうでしょうか。たと

 えば、理事長は、終戦直後は餓鬼界の時にも十界を互具して

 いて、今の天界の時にも十界を互具している。その終戦直後

 の餓鬼界、今の天界ということは、時間によって定めること

 ではなくて、因果によって定まることというふうにいっては

 いけないでしょうか。

戸田 習因習果。因果によるといってもいいかも知れな

 い。

神尾 どうですか。十界のどっかに住所を定めておかない

 と都合が悪いというような(笑)……。

小平 だから、その住所がこの習因習果で定まるのではな

 いでしょうか。

戸田 そんなことを定め切らないと、気が済まなくなっ

 てしまう。しかし実際生活はそんなものではないんだろ

 う。

石田(栄) さっき北条さんがおっしゃったのですが、人間

 界の十界の生活というものは人間界から類推して、そういう

 世界があるだろうと推するだけであって、地獄界の天界とか、

 畜生界の人間界とかは、実際問題としては凡夫には考えられ

 ない生活ですか。修羅界というのは、海の底に住するといい

 ますが(三重秘伝抄一五ぺージ)修羅界の天界という生活は、

 類推して考えられるだけであって……。

戸田 あの日寛上人様の説明は大宇宙自体に十界が渾然一

 体として具わっているという、こういう考え方でなすったと

 思うが、どうでしょう。

石田(次) あすこは、十界の存在自体の説明ですから、十

 界互具まで発展していないのです。

戸田 大宇宙それが、十界それ自体だという意味じゃない

 のですか。そうだろう。そうでなければ、われわれが十界を

 感ずることができない。

 あすこで、菩薩界がどうなっています?

石田(次) 「本化・迹化の如し」……。

小平 今の習因習果は、十如是の説明の所です。「善悪に

 亙りて習因習果あり先念は習因・後念は習果なり」……。

 「二乗は身子・目連等の如し……仏界は釈迦・多宝の如し」

 ……。

戸田 天界は?

小平 「天は即ち欲界の六天と色界の十八天と無色界の四

  天となり」

戸田 そう言ってもわれわれにはピンとこない。

原島 畜生界と、人間界だけは、はっきりくるのですが…

 …。(笑) 畜生のは詳しい、鳥が幾つ、獣が幾つと……。

石田(次) 「餓鬼は正法念経に三十六種を明し正理論に三

 種九種を明す」

戸田 地獄論など、もしそういう本があって、真面目にす

 っかり読んでみたら、われわれの悩みの状態が、ずーっと分

 類されていないだろうか。だから、修羅界に人間界があるだ

 とか、何だとかいうことは、考える必要ないのではないか、

 われわれに必要ないことです。空理空論なのです。われわれ

 人間界に十界があって、その十界にまた十界があるのだから、

 他のにもあることになる。

柏原 十界互具の骨組というのは、どうなるのでしょう。

 何だかいろんな話がゴッチャになってしまう。その中に、法

 則だって先生がおっしゃるけれど、その話の中に、きちっと

 当てはまる考え方はどうなんでしょうか。

小平 それは、十界常住ということが出発になるんではな

 いですか。

戸田 そう、そうです。

小平 その常住する十界の各界におのおの十界を具する、

 十如是を具する、三世間を具する……。