「我」は常住する

 

渡部 畜生界の話がでましたけれど、われわれもこういう、

 木とか草とか、土とかいうものになり得るのでしょうか。

戸田 なり得るというよりも、そこで大宇宙に溶けこんだ

 生命が、どこにいるということもいえないのだが、唯、「我」

 の常住が、そういうような所で、同じようなものを感ずれば

 こういうものであるかも知れないというだけのことです。そ

 れは、"我"は常住するのだから、しかしそれは魂ではない

 のです。丸のものでも四角のものでもない、空なのだ。我が

 常住しなければ、この生命観は成り立たない。常楽我浄とい

 うことはいえなくなってくる。しかし、どこにあって、どう

 だったということはいえない。「我」が常住するから、死ん

 で地獄を感ずるという御書の意がはっきりする。阿鼻大城へ

 堕ちるということは、常住する我が死後において、何らかの

 業を感ずるということになる。その我が、また何らかのハズ

 ミで、衆生世間を感ずる。衆生世間を感ずれば、このように

 して出てくるわけだ。

北条 そうしますと、木なら木という生命は、別にはない

 のですか。たとえば私なら私の生命というのは、この五体に

 感ずる以外にない、みんな別ですね。一本の木なら一本の木、

 何年も生きている杉の木なら杉の木と、ああいう生命という

 のはないのですか。

戸田 ああいう生命もあるわけだ。あれは、草木の活動を

 感じて発動したのだ。

北条 たとえば、私が死んで、また人間に生まれてくると、

 その間に、木の実になっちゃったと、そこに自分の生命を感

 じたということはあり得るのですか。

戸田 あり得るのです。しかし、君が死んで、君の「我」

 はどれだ、どこにあるというわけにもゆかないのだ、それは.

 それが一番面倒なのだ。仏法上の空観になる。逆さでもなけ

 れば、横っちょでもなく、光もなければ、姿もない。無性無

 相。特定して、その「我」が草木を感ずれば、草木になって

 いることがあり得るのだ。

柏原 それはあくまで、他の人が見れば、木の実の生命と

 しか見えないわけですか。

戸田 そうです。

柏原 自分は、木の実に生命を託したものを感じているわ

 けですか。

戸田 そうです、感じているわけです。

渡部 その時、どう感じているかはまったく予測できない

 わけですね。(笑)

戸田 それはできない、不可思議境だから。衆生法妙とい

 う。われわれにしても、ネコにしても、イヌにしても、衆生

 は法によってできているのだから。全部、規則によってでき

 ているでしょう。心臓がこの辺にぶら下がってくるわけでは

 なし、肺が外へ出ている人はないし、(笑)うまく、あるべ

 きところにある、規則でできているのです。それが法で、そ

 の法が妙なのだ。不可思議なのだから、どうもしょうがない。

 それを衆生というのです。

安保 それでは、先生、これはどうでしょうか。よく、人

 が亡くなる時に体のどこかに字を書いたりしておくと、それ

 が、また、その通りにどこかへ生まれてきたという話を、よ

 く聞くのですが……。

戸田 念力っていうのかねえ。色受想行識というところか

 ら、それは五陰世間の問題になってくるのではないですか、

 私は見たことないけれども……。

石田(栄) 前に先生がおっしゃったことがあるのではない

 ですか?

小平 足の裏へ……。

戸田 わたしも聞いたには聞いた、ばあさんから。

渡部 この間、一般の雑誌かなにかに写真がでていた。股

 のところに南無妙法蓮華経と書いたのです。そして、東京都

 杉並区……何のだれ兵衛と書いておいたら、五年後にそれが

 出てきたそうです。その生まれた方の子の両親が手紙で紹介

 してきて、もとの親が飛んで行ったら、まさしくそうだとい

 うのです。

石田(次) そういう証拠がたくさん出てくれば、こちらで

 は助かりますね。

戸田 写真ぐらい撮っておいてね。

渡部 それには「霊魂は尽きない」などと、こんなデカイ

 字で書いてありました。

戸田 霊魂では説明できない。色受想行識の受が強かった

 んだろう。「我」が受を強く受けていたのだろうと思う。色

 受想行識すなわち我だからね。それでふたたび人間界を感じ

 た時にそのまま出たわけでしょう。そのような説明しか、仏

 法ではできない。