その1から続き
進化論と久遠常住の関係
渡部 それから、あの進化論では、こういうふうな進化が
一応行なわれて、人間の発生した時が、十万年とか、五十万
年とか決まりますと、仏法でいう仏という方が非常に長時間、
昔からいらっしゃるという事実が、あるいは釈迦が五百塵点
劫以来、娑婆世界に二十何回出現したというようなことは、
一体、どういうふうに解釈するものなんでしょうか。
戸田 その考え方は、地球だけに限らないのだと思う。他
の星でもやはり、今のような場合があった時には、人間がお
ったと考えられる。それで、地球に生まれた人間が必ずしも、
他の星に生まれないとは限らないと思うのです。今ここで僕
が死ぬと、必ずしも地球の中に生まれてくるとは限らない、
他の星の人間のなかに生まれるかも知れない。金星が今、シ
ダ類が繁茂している時代だというではないか。そういうとこ
ろへ生まれるかも知れない。あるいは太陽系以外の星でも、
地球と同じような温度で恒星から届く光も同じような所があ
れば、生まれるかも知れません。歩いて行くのではないのだ
から。(笑)
渡部 娑婆世界というのは、どのくらいの範囲でしょうか。
戸田 地球において、衆生が勘忍していなければならな
い状態のことを娑婆世界というのです。必ずしも、こういう
ような恰好の人間とは限らないけれども、人間界を充分感じ
ていける世界があれば、大宇宙のどこであろうと、そこへ、
ちゃんと生まれます。だから五百塵点劫といっても何といっ
ても、宇宙自身、久遠元初といったら宇宙それ自体なのだか
ら、先もなければ後もない。
篠原 時間をいうのでは、ないでしょうか。
戸田 時間をいうのです。時間と空間とがひとつになって
いるのだ。星や地球やなんか全部取ってしまったら、宇宙と
いうものは時間になってしまう。空間的な広がりがなくなっ
て一点になってしまう。
篠原 そういたしますと、久遠元初に下種仏法があったと
いうことは、どういうことでしょうか。
戸田 宇宙生命それ自体が、南無妙法蓮華経なのです。南
無妙法蓮華経は下種仏法でしょう。また南無妙法蓮華経を行
ずる人間の宝号を南無妙法蓮華経という。大宇宙それ自体が
時間だ。空間があるっていえばあるし、ないっていえばない。
だから久遠の下種仏法を、どこの星で、どうしたなどとい
うことは規定できないが、ただ釈尊や聖人は、それを感じて
おられたのでしょう、無始の生命を……。どこで生命が発動
して、どこで修行し、どこで衆生を化導してああいう仏の境
涯になられたか、それはおわかりになっていたのではないで
しょうか。必ずしも、この地球の上とは限定されない。もし
限定してしまったら、仏法はみな嘘になってしまう。五百塵
点劫から仏になっていたと言ったって、地球のない所でどう
して仏になったのか、ということになる。
安保 大聖人様が「五百塵点劫の当初……我が身は地水火
風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」と仰せられて
いる御文(御書全集五六八ぺージ)がありますが。
戸田 そう、そのことなのです。人間になってこの世に生
まれた時が、もうすでに久遠元初だ。また、人間がそのリス
の親方から出てきたとすれば、それが仏なのです。
篠原 そういたしますと、久遠元初の自受用報身如来の再
誕と、大聖人様のことを申し上げますが、再誕ということは
前に一度出てこられて、またふたたび出てこられたというこ
と、久遠のそのままの姿で出てこられたと考えていいのでし
ょうか。
戸田 そうですね、その時の姿でしよう。無作の姿で……。
釈迦みたいな金ピカのお化けの姿ではなくして、ありのまま
なんだ。そうでないと、天台がいうような「霊山一会、厳然
として未だ散らず」とはいえないのです。あれは十界互具の
方をはっきり言ってるのだから。われわれのこうしている肉
体、この中が全部大宇宙の生命自体です。大御本尊様は、大
宇宙の生命を最も強く結集されたものです。それと感応する
から、こっちの生命力が強くなってくるのです。
「久遠即末法」ということが、今話したことにならないか
な。久遠即末法ということはなんだかおかしいように思うで
しょう。大昔も今も即だという。
一念三千の立ち場からみれば
戸田 人間がこういうふうに出てきたというのは、どうし
て出てきたかということは別にして「衆生世間」「五陰世間」
です。それは今のような説明でいいと思うが、仏法では
「国土世間」が入ります。だから仏法で論ずれば総じていう
場合と、別していう場合と二つになるのではないだろうか。
別しての場合は、「衆生世間」を論ずる場合には、さっきの
説明でよいのではないかと思う。まあ、批判してもらいたい
けれども。私の見解は、地球にある種の生物が当然生きられ
る時には、その生物がそこに出てることになる、どういう
ふうに出てくるかは別にして。そして、今いうリスの親分
(笑)がわれわれの先祖だとするのです、そうしてもいいの
です、否定するわけではない。ただ地球が人間の生まれる条
件ができた時に、変化してきて人間になったのだと思うので
す。極端な話だが、たとえれば、衆生、人間というのは仏法
では、経の中には、「一時、仏……」とある、一時です。あ
る時、衆生が仏を感じて、仏がこれに応じて出現するという
ことがあります。この地球状態の他の星でも同じことですが、
人間を感ずる、感ずるというと、ちょっとおかしいが、……
大宇宙全部が十界ですから、そこにおいて人間生命がそれに
応じて、何らかの形で出現する。あるいは、ここに、イヌだ
のネコだのいるとする。仮定ですよ、これは。そこに人間が
一人もいなかったとすると、その畜生界にその人間界を感ず
るのです、十界互具だから。そうすると生まれるのが人間み
たいなのが生まるのです。また、こうして人間がいる時に、
畜生界を感じたとすると、生まれる子供がサルみたいだった
りする。そういうのがあるでしょう、よく、イヌに似てたり
ウシに似たようなのが生まれることがあるでしょう。ああい
う現象ではないかと私は思う。進化論的な考え方からすれば、
オパーリンのような考え方でいいわけだ。仏法上の考え方は、
僕はどうしても、そうなると思うんだけれども。意識すると
否とにかかわらず畜生界を感じてサルみたいな子を生む人が
あるでしょう、またウシを殺したからウシのような子が生ま
れたなんて、よく言うでしょう。秋田へ行ったらいたそうで
す、ヘビにそっくりの顔の人間が。人間は必ずしも人間だけ
生むとは限らない。
和泉 鳥目なんかもそうですか?
戸田 烏目?あれは栄養失調だよ(爆笑)
柏原 わたしも見たことがある……足はもう完金にニワト
リなんです、手はイヌにそっくり、口はウサギです。そうい
うのを見たのです。
戸田 そういうのを進化論では突然変異というのです。結
局原因が分からないのだから、そうとでもいわなければ説明
がつかないのです。
柏原 そうですねえ。
石田(次) 青森県の小学校の先生で、豚とおなじ顔をした
人がいるのです。町中、豚先生という評判なんです。
小平 ところで、その、豚の顔というようなのは、むしろ
宿習というような……。
戸田 まあ一面からみれば、そうも言えるでしょう。だが、
私のいうのは、人間が発生したのが、リスの親分からでもな
んでもいい、畜生界が人間界を感じた時に人間というものが
出現したのではないかと思う。
北条 進化論とは表面的な見方で、今のは内面的な見方と
いうわけです。
戸田 そう。急に人間がどうして出てきたかっていうこと
になれば、そう考えるより他にないのです。私はそう思って
いる。
篠原 そうしますと、仏法の一念三千からいきますと、あ
らゆるものが、人間の生命なり、畜生の生命なり全部具して
いるからということになりますね。
戸田 そうです。
篠原 オパーリン等が代表する現在の科学の考え方では、
そうでなかったものが変化して、そうなったという考えが強
いように思えるのです。
小平 それは、互具の考えがないわけですね。
篠原 仏法では、もともとそうなり得るように具している、
それが出てくる……。
戸田 ええ、君だってイヌみたいになり得るんだよ。気が
変になってワンワン吠えて(笑)十年も経ったら、すっかり
犬になったなんて……現在のわれわれの肉体でも、そうだ。
神尾 私が、太郎(飼い犬の名)とジャレて遊んでいると、
噛みついてきます、そうするとこっちも噛みつきたくなりま
す。(笑) 関連があるかどうか知りませんが、感じますね。
戸田 私は子供の時に、恐ろしい人間を見ましたが、冬、
雪の降っている最中にある家へ行ったのです。そうしたら、
炉の中にチョコナンとサルみたいなものがいるのです。みん
なは畳の上にいたのですが。それはかたわみたいな子供が生
まれたので、殺すわけにもゆかないで、食べ物をやらずに放
っておいたら、何か自分で探してきて食べて生きているのだ
という。しかも裸なので寒いから炉の中にいるのです。サル
そっくり、人間がサルを生んだと言ってもさしつかえないと
思うのです。いつだったか、九州にもいたって、何か新聞に
載っていたでしょう。
篠原 載っていました。先祖帰りしたといって。(笑)
戸田 サルみたいなのです。人間が畜生を感じてサルを生
んだと言った方が適当ではありませんか。
渡部 先生、そういうのは、国土とか、民族というものが
畜生道的になってきた時にやはり多く出る現象でしょうか。
戸田 そういうことも考えられるし、また個人も、畜生界
を互具しているのだから。
渡部 それから私は、前によく、電車の中などで、「あい
つはタヌキみたいだ」とか「あいつはイヌにそっくりだ」と
か、そんなことばっかり気になったことがあるんです。時々、
飛っ拍子もなく動物に似てる人がいるのですが、ああいうの
はすぐ前の世の結果が現われているのではないですか。
戸田 さあ、そこまでは考えられない。
小平 そんな、サルやイヌやネコばかりではないから、前
世は。
渡部 そういう動物は人間に近いから……(爆笑)
戸田 その人間の持っている性格が、そういうものに似て
いるというだけの話ではないですか。
柏原 サルというのは、今まで人間の先祖だといわれてき
ましたが、サルの仲間には必ず一人、中心者が、大将がいる
そうですね。そして、仲間の食物の争いとか、強い者が弱い
者いじめをするようなことを、うまく解決するそうですね。
戸田 ほう。しかし、サルから人間になったということは
考えられないね。
石田(明) さっきのお話にかえるのですが、畜生を感じる
ということについて、あるいは畜生界が人界を感じるという
場合、感じるというのは、感じさせるものがある、それは前
にやった、習性みたいなものによるものですか?
戸田 そうではない。それを感ずるというのは、まあ早く
いうと、末法になると、みんな非常に苦しい生活をするでし
ょう、ああ苦しいから楽になりたいと、一切の人が感ずるで
しょう。その時に、それに応じて仏がでてくる。それと同じ
ように、地球全体が人間界を感ずるわけなのです。あらゆる
生命が無意識であるが、人間界を感じた時に、それに応じて
人間が現われると、こう私は考えているのです。習性からで
はないと思う。個人の場合も同じだと思うのです。
小平 その感ずるのを、前に畜生という習性を持っていた
から、だから今畜生界を感ずるのか、というわけでしょう。
習性ではなくて、互具しているのです。
戸田 そう、われわれの生命に畜生を持っているのです。
狐を拝めば、コンコン様になってしまうというのは、畜生の
生命が発動してくるのです。
原島 よく近親結婚をすると、変なのができるということ
をいいます。週刊雑誌に写真が載ってましたが、今の、畜生
界を感ずるということからいえば、近親で結婚するなんてい
うのは畜生に多いですから、そんなようにも考えられますが。
頭が二つあるのやなんかが写真にでていました。
戸田 へえ、生きているの?
原島 いや、もう、すぐ死ぬらしいのですが。
戸田 頭二つで生きていたら大変だな、何をするにもいち
いち相談しなければならないし……。(笑)それは、こう考
えられないだろうか。双子ができて体がくっついたと。畜
生界を感じたというのとは、また違う問題ではないだろう
か。
篠原 双子が完全に分かれなかったといえると思います。
原島 ただ、近親結婚が理由というのが多いようです。