経済的悩みが大きくなった

 

【問】経済的な悩みで信心して二年になりますが、だんだんその悩みが大きくなっている状態です。

 

【答】 四十歳ぐらいで、商売を熱心にやっていればだいじょうぶです。金はもうかるようになります。しかし、

あまり若いうちから、金はできないほうがいいでしょう。五十ぐらいからどうですか。

 

 このなかに、経済的に悩んでいる人もあろうと思うから、私の体験を一応話しておきましょう。私は、ヒバリ

のような運勢といわれているのです。それは、貧乏すると、どこへもぐったかわからないほど貧乏をしてしまう。

 それからひとたび景気がよくなると、どこまであがっていくかわからないのです。ですから友人は、私のことを

ヒバリというのです。

 

 四十四の時、牢へはいる前ですが、昭和十八年です、その時六百万円持っていました。どうやってできたか自

分におぼえがないのです。それが牢から帰ってきたら、借金が二百何十万のこっているのです。

 それを返し、そうとう財産を作ってから謗法をしたのです。私が天台流の講義をやったのです。それは、私が

会長にならなければならない宿命なのです。だが、会長になるのがいやでたまらなかったのです。会長にならな

いというと、身は日蓮大聖人の弟子でありながら、講義は天台流の講義をしたのでは、心は天台の弟子です。そ

れは大謗法です。自分の謗法というのは気がつかないものです。それでえらい損をしました。

 それで私は、昭和二十六年会長になりました。それから、天台流の講義は絶対にいたしません。おかげで、ど

うやら金では今日は困りません。だから戸田は、創価学会をやっているから、私たちの寄付で、ノンキにやって

いるから、そんなこといえるのだろうと疑ってはなりません。それはあなた方の方から一銭ももらってはいませ

ん。ぼくに金をくれたという人がいたら出てごらんなさい。

 

 それは、あそこへ普請している大講堂の御供養のお金はもらっています。だが私がもらっているのではありま

せん。あの建物がもらったものです。

 私がどうにかなったのは、五十二からです。四十四のとき、六百万も持ったとき、たいてい五十から財産がで

きると人は話しているが、私は頭がいいから、人より十年早いのだと、いばっていたのです。ところが、パッと

なくなってしまったのです。

 五十を越してからどうにかできてきました。だから、そうあわてる必要はありません。それから、いま、あな

たのことばをきいていると、ひょっとすると、利息を払っている金をかりているのではないかと思うのですが、

利息を払うということはこわいことです。「だいぶ利息をとったから、元金を利息でとったから、お前の借金は

まけてやる」という人は、どこにもいないのです。だから、もしあなたが借金をして、利息を払っているのなら、

そこを打ち勝たなければならないのです。これがいちばん根本の問題です。このような場合利息を払う人がある

ものですか。だから利息など払わないようにと考えるのです。これは、大事なことです。

 

 しかし、銀行の利息くらいは、払ってもよい。二銭か、二銭一厘の利息を払って、商売をやれないようなもの

なら、商売をやらない方がいいです。ところが、まぬけな人は、日歩十銭だとか十五銭だとかいう利息を払うの

です。そんなものを払って、商売などできるものですか。日歩十五銭とすると、年にして六割、月にすると五分

ぐらいです。そんな金を払って商売などやれるわけがありません。

 ですから、いまの人が二年半も信心して、だんだん重苦しくなってきたというのは、手形を出して、たくさん

利息を払っているのでしょう。それをやめるのです。二年も三年も信心していて、金ができないというのは、た

いてい高利を払っているのです。この中にも、そういう人がいるのではないですか。断じて高利など払ってはな

りません。それをどうしたら払わないですむかということを考えるのです。そうして、そこからのがれれば、い

やでも応でも、謗法さえなければ、商売は一生懸命になるし、金はできるにきまっています。

 

 ところが、いくらもうけても、高い利息を払ったらどうにもなりません。それで、不熱心はだめです。折伏だ

折伏だといって、商売もしないで、折伏にあるいている人がいるのです。この中には、そのような人はいないで

しょうね。

 折伏はすべきである。しかし商売をほおってまですべきではありません。四条金吾殿という方は、ひじょうに

りっぱな方でありまして、本名は中務三郎左衛門と申し、この人の位が中国の名前で金吾という位になるので、

四条金吾殿となったのです。日蓮大聖人様が打ち首になるときに、もし、日蓮大聖人様が首を切られたら、追腹

切って死のうとなさった方です。

ある方が、お手紙を日蓮大聖人様に差し上げたのです。「このごろは忙しくて、法華経も読むひまがありませ

ん」と。そのときに、日蓮大聖人様の御返事が「御みやづかいを法華経とおぼしめせ」勤めが法華経である、商

売が信心であるというのです。

 この商売に熱心でなかったならば、いまの方はどういう方か知りませんが高利を払っているということは、不

熱心ということです。そうでしょう。合理的ではありません。それをやめなければなりません。どうやってやめ

るかを考えなければいけません。その人、その人の事情によるからです。「御みやづかいを法華経とおぼしめせ」

商売が信心です。その商売を熱心にやらないで、金ができないなど、不熱心ではありませんか。自分のもうけた

だけそこへ払うならまだいいですけれど、ひどいばかは、かりてまで利息を払うのです。

 そのようなばかなことをしていて、商売熱心だといわれますか。私は、商売熱心ではないと思います。不熱心

です。どうか、熱心にがんばりなさい。