どうしたら慈悲の折伏ができるか
【問】折伏はあくまでも慈悲の心を持って行なえといわれますが、自分のいままでの折伏を考えてみると、慈
悲でなくて、相手をいい負かそうという気持ちになってしまうのです。どうしたら慈悲の折伏ができるでしょ
うか。
【答】 折伏自体が慈悲なのです。慈悲の心をもって折伏するというが、あなた方、たいてい威勢よくやるでし
ょう。「やらないか、やれよ、やらないと罰あたるぞ」などと。だから脅迫しているなどといわれるのです。そん
なことをやっても、なかなか折伏できるものではありません。信仰させてやろうという折伏はいけないのです。
自分の仲間を作るみたいなのはいけません。それを作りたいので折伏するというのはいけないのです。班長から
いいつかったからとか、いい顔になりたいからとか。「どうだ、今月は三人やった。えらいものだろう」などと、
そういうのはだめなのです。
折伏とは、相手を見まして、「ああこの人は気の毒だ」と思う心から、じゅんじゅんと御本尊様のありがたいこ
とを教えてやればいいのです。理屈などはいりません。貧乏して困っているとすると「ほんとうにお金持ちにな
りたいなら、このありがたい御本尊様を一生懸命信仰してごらんなさい」と。それでいいのです。それを他のこ
とをいってもだめです。「なにしろ、方便品というのは、如是相、如是性……これは、一念三千のもとだから」な
どと、そういうことをいっても、だれも信心しません。それよりは、ほんとうに病気で苦しんでいる、医者が見
てもなおせない、「ああ、気の毒だ、なおしてやろう」と、そういう気の毒だという気持ちが折伏の根本でありま
す。
こういう折伏をした人があるそうです。ある人が座談会に行ったところが、「この信仰は金がもうかる。から
だがじょうぶになる。商売が繁盛するからやりなさい」といわれた。行った人が「私はからだがじょうぶです。
金もいりません。商売はやっていません。商売はやっていませんから、月給取りですから、商売繁盛しなくても
いいのです。私は、しかし、この信仰には、何か深いものがあると思う。それを一つ教えて下さい」といったら、
「金もいらない、からだもじょうぶにならなくてもよい、商売繁盛しなくてもよいなどと、そんなやつはばかだ、
早く帰れ」と。これはどうでしょうか。そういう折伏は正しいとはいえません。そういう人こそ道を求めている
のですから、「そうですか、それでは、信じて題目をあげてごらんなさい。そこに深いものを味わうことができま
すから」と、これだけでいいのです。求めているのですから、教えてあげればいいのです。それを、「お前みたい
なばかはだめだ」などと、これではだれも聞く人はいません。
これは初代の会長がよくいわれたことですが、認識と評価とはちがうということです。よくこういうことがあ
るでしょう。子供が「あれは何ですか?」と聞くのです。「あんなのわからないか、ばかだ」という。なにも子供
は、ばかだ、利口だと批判してくれといったわけではないでしょう。一方は求めてきているのだから、「あれは何
何だ」と答えてやればいいのでしょう。
夫婦ゲンカでもよく、こういうことがあるでしょう。「ああおとうさん、あれはどこへ置いたでしょうね」「ば
か野郎、お前そんなことがわからないのか」などと、ばか野郎といってくれと頼んでいるわけではないでしょう。
知らないなら、知らない。あそこなら、あそこと教えればいいでしょう。このばか野郎などという必要はないわ
けでしょう。折伏にも、よくそれがありますから、気をつけて折伏しなければなりません。
それから、座談会あたりの、決のとり方ですが、私は直接見たわけではありませんけれども前に新しい人を並
べておいて、「さあ、決をとります。あんたはどうです。やりますか、なにやらなきゃ、あんただめです。お隣り
はどうです。まだわからないのですか?」「家へ帰って相談します」「こんなにいってわからないのは、ばかです
ね。帰ってしまいなさい」などと。あの決のとり方、えらく勇ましいのがあるそうではないですか。あなた方も
やっていませんか? そんなことしなくてもいいと思うのです。そうあわててやらんでも、「きょうは帰って考
えてきます。お
とうさんと相談します」「女房と話します」それなら、それでいいではないですか。それを無理
やりに御本尊様を持たしてしまうものだから、おやじが怒ったり、女房が怒ったりして、御本尊様を不敬してし
まうのです。そういう折伏はいけません。