なぜシキミをあげるのか

 

【問】日蓮正宗では色花を仏壇におそなえしないで、なぜシキミをあげるのでしょうか。

 

【答】 法華経をお読みくださると、よくわかりますが、インドの国には香木がずい分たくさんあるのです。黒

檀、紫檀とか栴檀とかとくに、栴檀などというのは、香木として唯一のものであります。

 それで仏をよろこばせるために珍香というものをたくのです。そしてまた、鐘を打つということも、仏をよろ

こばせるための音楽の一つになります。ですからこの客殿でよく合図で打ちます。鐘は七五三に打っているので

す。このように、釈尊の仏法においても、まず香木をもって仏を喜ばせる、こういう一つの意義があるわけです。

日本の国において香木という、いわゆる線香の材料になるものですが、これはシキミしかないのです。日本には

香木はシキミしかないのです。それで日蓮大聖人様以来シキミを使うことになっているのです。これが第一です。

 次は仏法というものは生命の永遠を説いているのです。寿量品なんか読むと、しつっこいほど生命が永遠だと

いっているのです。これ以外なにもいっていないではないですか。それで死ぬのは方便だといって、人間の生命

というものは永遠であると、これを主張しきっているのです。

 ところが、シキミ以外の色花は、咲いたときの姿はいいけれども、すぐ散ってしまう。シキミだけは、ことに

つゆ時など、折っておいても芽が出てくるのです。生命の永遠ということを代表しているのです。

 ですから、ほかの宗教はほんとうのことを知らないから、色花などを使いますけれども、日蓮大聖人様の仏法

は、日蓮大聖人様が仏法に透徹していられたのですから、色花などは使うわけがありません。

 

 これは、ついでに質問外の話までするのですけれども、衣でもごらんなさい。糞衣と申しまして糞のころもと

書くのです。これは、インドでは虫がひじょうに多いのです。それで虫の糞が、すてた布につくのです。これを

洗濯して、僧侶が着るものでありますから、いまの日蓮正宗のお坊さんの着ているようなウス墨の色が、仏法を

知る僧侶の衣になっているのです。釈尊の時代にはみなあの色の衣を着ていたのです。欲というものを断つため

に、あの衣を僧侶は着ることになっているのです。しかし、紫の衣だとか、赤の衣だとか、黄の衣を着るのは、

仏法をにごしていることになるのです。

 むかし、天皇が紫の衣を賜ったといいますが、あんなことは日寛上人様はバカだといっています。なぜかとい

うと、中国に則天武后という男好きの皇后様がおりまして、天皇陛下が死んで、そのあとを自分が采配を振った

のです。そのうちに坊主の男妾ができたのです。この男妾をば、大臣級の出る会議の中へ出したい、それにはか

っこうをつけなければならない、りっぱそうに着飾らなければならない、そこで紫の衣を作ってバンドをはめさ

せて連れて出したのです。これが紫の衣の起源です。そんなもの、はずかしくて着られるかというのです。