五座の御観念文について
【問】お経本の最後にある、五座のこ観念文の「乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光」ということについて教
えて下さい。
【答】はじめに、この観念文ということについて申し上げますが、観念というのは、心に思うということです。
心に思うということは大事なことであって、ご観念文を申し上げる時に、もしミソ汁のにおいがする、すると、
とたんにお腹がすいたなあと思うでしょう。そうするとそれがご観念文になってしまうのです。
自分が一生懸命に題目をあげているのに、女房が題目をあげない、「ちくしょう、終わったらおこってやろう」
と、こう思うと、それがご観念になってしまうのです。
五座のご観念文の意味は、この世の中がぜんぶ平和で、それで仏の国になっていただきたいという願いのこと
ばなのです。すなわち法界とは現象界のことであり、小さく考えれば、商売、たとえば魚屋は魚屋の法界で、そ
れが平等であり、夫婦生活もまた法界であり、夫婦は平等でなくてはならない。安同帰寂光とは、おおいに、幸
福生活になろうということなのです。
だから、原子爆弾の実験などをやって人を殺したり、いやな思いをさせてはいけない、みなこの地球上は、ぜ
んぶ平和でいかねばならない、娑婆世界は、ぜんぶ平和でなければいけないという願いが、ここにあるのです。
これなら、わかるでしょう。自分だけ平和ではいけないというのです。「ちくしょう、ぶんなぐってやろうか」
などとこ観念文をやってはいけません。口では、ぜんぶこの世は、寂光土になってもらいたいといっていて、腹
の中では「ちくしょう、ぶんなぐってやろう」などとそういうご観念文は世の中にはないのです。
口でしゃべるのと、腹の中とでは違う場合があるが、腹の中で考えていることが、ご観念文なのです。だから、
ご観念文というのは、そんなかんたんなものではありません。