方便品の十如是を三回読むわけ

 

【問】方便品のあとで十如是を三回読むわけを教えて下さい。

 

【答】 それはかんたんなので、こういうことはめんどうではありません。十如是は方便品にあるのです。これ

を迹門といいます。これを三べん唱える意味は空・仮・中の三諦に唱えるのです。空仮中の三諦などというと、

ちょっとわからないでしょうが、これは空諦、中諦、仮諦と、仏法哲学において、この世の中の実相がどういう

ものか、われわれの命がどういうものであるか、ということを考える考え方を根幹として、「空仮中の三諦」と

いうのがあるのです。これは、天台大師の師匠である南岳大師が考え出した哲理なのです。

 このなかで、私がこうして生きているのは、仮の実体です。私はこのままかといってもそうはゆかないでしょ

う。もう十年もたって、私がもし生きていて六十七歳にもなったら「先生ずいぶん変わりましたね」ということ

になるでしょう。しかしこれだって、私は二十歳のころは美男子だったのです。そしたらその美男子と、いまの

ように美男子でないのと、どちらがほんとうなのか、それはどちらもほんとうです。ですから仮の実体というの

です。いまのは仮の実体としか見えません。これを仮諦といいます。空諦とは、あるといえばある、ないといえ

ばない、こういうところのものを有無にかかわらず、真の実在をば空諦というのです。私の生命も空諦です。お

まえはおじいさんの時があるといえば、それはいまはないでしょう。たしかにおじいさんではない、私は青年で

す。しかしおまえは赤ん坊の時はなかったかといえば、なかったのではない、あったのです。そうなると生命は

空であります。それであって、戸田城聖は中道法相、戸田城聖は厳然として永遠にそなわっている、これが中諦

であります。この三つのたてまえから、一念三千の法門を読むについて、十如是を空仮中の三諦に読むのです。

それで三べんくり返すのです。

 それから自我偈は三度読むことになっているのです。それは法・報・応の三身で読むのです。法身、報身、応

身の三身に、自我偈は三度読むことになっています。たいてい一度しかやらないのです。しかし、一度でも長い

と思っているのに、三度やりなさいとなったら困るでしょう。だからここでは理くつだけ教えて、やりなさいと

はいいませんから、安心しなさい。