御本尊不敬はいろいろの罰を受けるのか

 

【問】御本尊様をそまつにした場合、いろいろの罰を受けると聞いています。たとえば錐で穴をあけたりした

場合、七つあければ、それと同じように、自分が与太者にどうとかされるとか、夫が傷を受けるとかという話

が、一部いわれておりますが……。

 

【答】 御本尊様をおそまつにするということは、仏罰をこうむります。しかし、いまの人のおっしゃるように、

御本尊様をそまつにしたら、愛する夫がヤクザに乱暴されるとか、御本尊様に七つ穴をあけたら、自分が七つ穴

をあけられるとか、そういうふうに、さもわかったようなことをいう人は、おかしいです。そんなばかなことは

ありません。

 

 それなら仏罰はないか。あります。ありますが、その仏罰は、こんなものが出るとか、あんなものが出るとか

は、いえないのです。ただその人が、幸福になれないということはたしかです。この御本尊をそまつにした人は、

ひどいものです。その貧乏な姿を、見せにきます。不幸になった姿を見せにきます。それを、乱暴されるとか、

何とかというのは軽率です。そういう場合もあるかも知れませんが、それは、その人の持っている不幸をば、と

くに現わしてくるのですから、どういう形で出るとはいえません。御本尊をそまつにした人は、ひじょうに気の

毒です。じつに気の毒です。ですから、かわいそうだと思って、よく、こんこんと改めて信心するように、教え

ておけばよいのです。あまりくどく、御本尊様をそまつにした者を追いかけてもだめです。いまに姿を現わして

きますから、その時に折伏してあげればいいのです。

 

 私は、いまから二十五年前くらいに、三人の方に御本尊をお持たせした。女の人です。しかもそれは常住御本

尊様でした。ふたりの人はごくまじめに信仰を続けてこられた。ひとりは、ともかく聞くところによれば、一億

からの財産を作られたそうです。もうひとりの方も、りっぱな生活をしておられます。いまひとりの人が御本尊

様をそまつにしています。そまつといっても、不敬したわけではないのです。ただ拝まなくなってしまったので

す。ありがたいと思わなくなってしまったのです。

どうですか、二十二、三年たってから、一昨年でしたか、私のところへ、御本尊を持って、出てきたではない

ですか。私は何もいわずに、すぐ「あなたはしあわせですか」といった。「しあわせではない」という。もう、そ

れこそ見すぼらしい姿なのです。私は前にその人を、総本山での夏季講習会にいっぺん連れていったことがある

のです。その時の喜びというものは、ひじょうなものでした。年をとった人ですが、女学生にかえったみたいな

姿でした。私はその姿をまざまざと目で見ているのです。「あなたは、あの時のしあわせをすっ飛ばしてしまっ

たね」といってあげました。もうぬけたみたいな顔になってしまっているのです。そして、蹌踉(そうろう)としてやせ犬み

たいなかっこうで、私の前へわざわざ御本尊を持って現われたのです。これは恐ろしいものです。ほんとうに恐

ろしいものです。そういうふうな現証は、かならずあるのです。さきほどのように、どうなるこうなるなどと決

定したようなことは、いうものではありません。ただ仏罰の恐ろしいというだけは、いっておかなければなりま

せん。また恐ろしいものです。

ある男ですが、これは御本尊を受けて、少しも拝まないで、ゴミだらけにしておいた。それが、犬のような生

活の姿を、わざわざ私に見せにきた。ひどいものです。だからじっと見ていなさい。いらないことをいう必要は

ありません。ただひとことだけ「御本尊をそまつにしたら仏罰が出ますから、よく考えておやりなさい」とやさ

しくいって、現証を見ておきなさい。それが一つの折伏です。罰はかならず出ます。あたるのではない。出るの

です。罰というのは、その人の生命の状態が生活に現われるのですから「罰をあててやるぞ」などというもので

はありません。