二座の観念文 ー 福十号について

 

【問】二座の御観念文の福十号に過ぐの意味について。

 

【答】 これは法華経の中で仏の功徳を説いたものですが、このことは二座の御観念文を拝すれば、次のように

なっています。

①「本門寿量品の肝心」とは、釈尊出世の本懐は法華経の寿量品ですが、ここでは仏は永遠の生命を説きあら

わすのです。釈尊は五百塵点劫に仏なりと説くが、日蓮大聖人様のお悟りはさらに深く、御義口伝(七五九ぺー

ジ)に「はたらかさず・つくろわず・もとの儘」と、久遠元初以来の仏であるとおおせられており、すなわち日

蓮大聖人様は下種の仏であり、ゆえに寿量品の肝心は「南無妙法蓮華経」であります。そして、まだ説かざる仏

法をお説き出しになるのですから、

②「文底秘沈」の大仏法であり、仏様の本地は何かわからないゆえに、

③「本地難思」であり、その智は宇宙のいっさいに通達し、われわれが、御本尊を対境として信ずれば智慧が

わき、

④「境智冥合」してこそ、初めていっさいの悩みを解決することができるのです。

⑤「久遠元初」すなわち宇宙はじまって以来の、

⑥「自受用報身如来の御当体」とは、われわれの生命は、そのまま存在するものであり、だれからも左右され

るものではない、その生命そのままの日蓮大聖人様こそ、末法の本仏であります。

⑦「十界本有常住」とは、われわれのだれの生命も十界互具である、ゆえにいかなる悩み、願いでも大御本尊

に通ずる、決して別のものではない、ゆえにわれわれの悩みが感応し、また願いがかなうのであります。

⑧「事の一念三千」とは御本尊、法即人即日蓮大聖人様、

⑨「人法一箇」とは人は日蓮大聖人、法は御本尊、法即人です。

⑩「独一本門戒壇」とは釈尊の法華経二十八品とは、天地の相違があります。日蓮大聖人の法が顕われれば、

釈尊の本迹ともに迹門であり、日蓮大聖人様の法華経をもって独一本門となし、いっさいのものの中でこれに過

ぎたるものはないのです。以上が十号であります。