総本山の御本尊について
【問】総本山へ行ったら御本尊様がたくさんあって拝むのがいやになった、という人にわかりやすく指導して
ください。
【答】 総本山へきたら本家ですから御本尊様はたくさんあるにきまっているではないですか。総本山になかっ
たらおかしなものです。それは、あるのがあたりまえで、ないのがおかしいのです。みなさんのところにはそれ
ぞれ御本尊様があるでしょう。あっちへいっても御本尊様があり、こっちへいってもあり、それで拝むのがいや
になったと文句をいっても始まりません。それは、根本は、源は何といっても奉安殿の御本尊様です。源があれ
ばかならず流れがあるように、それから流れている水がいろいろな御本尊様なのです。奉安殿に一閻浮提総与の
御本尊様があるし、その御本尊様と同じお姿の御本尊様があなたがたのまえの、私がさっき拝んだ客殿の御本尊
様です。客殿の御本尊は、日興上人様がお顕わしになったのですが、すごい御本尊様です。
日蓮大聖人様は、本尊流布ということをお考えになっていらっしゃった。だが、時機の問題で実行できかねて
おられたのです。そうしたところが、その後を継いだ興師様が、この御開山様が、ご遺志をついで御本尊様をぜ
んぶの者におわたしになった。ですから私は泣けてたまらないことがあるのです。いまから三年前か五年前か忘
れましたけれども、お虫払い法要の時に、御開山日興上人のご直筆の御本尊をぜんぶ見せて下さるが、その中に
お筆止めの御本尊という御本尊様があります。もったいないけれども、その御本尊様が細く、枯れてしまってい
るのです。そこまで生命を打ち込んで御本尊様をお顕わしになったのです。だから、たくさんあるにきまってい
るではないですか。なかったらおかしいのです。本山だの本店には、むかしから何でもあることになっているの
です。
こういう問題があるのです。有師様という方がいらっしゃった。日有上人と申し上げて、大石寺中興の祖とあ
おがれた第九世の猊下で、お偉い方なのです。その方が、一閻浮提総与の大曼茶羅を偽作したと、邪宗ではいう
のです。これは大問題なのです。それから私は、宗務総監に話したのです。「そんなことがあるのですか」と聞
いたら、「そんなことはない」というのです。ないのがあたりまえです。「でも有師様が何か作ったものはないの
ですか」といったら、「ある」というのです。「日蓮大聖人様の御本尊を板曼茶羅にしたという事実はある」とい
うのです。「その御本尊様はどこにあるのですか」と聞いたら、「いまあの御宝蔵の中にある」というのです。私
もおどろきました。りっぱな御本尊様です。そして、金文字が一ぺんはがれたのです。それが、元禄だか文化だ
か知らないけれども徳川時代の塗方師のはし書きがうしろにあるのです。有師様が作った本尊というのは、それ
なのです。それが、あの、小さい御宝蔵にあるのです。しかし、それはだれにも見せないのです。そこでなんと
か私が、お願いをして、私と教学部長だけはきちんと拝ませていただきました。ほかの者は石だたみの上で拝ん
だのです。だから、いまの大御本尊様は、有師様が偽作したと、こういうことをいう者がいます。有師様が作っ
た御本尊様はきちんと別にあるのです。たしかにりっぱな御本尊様です。それがどうしてそういうふうにいわれ
たかというと、日蓮大聖人様のお筆のものを、そのまま板にはって彫ってしまったのです。それを京都の要法寺
からきたある漢学者の学頭がやきもち半分に「おしいことをしたものだ。お紙のままでおけばいいものを板本尊
にした」ということを書いたのです。それで有師様が、お紙の曼茶羅を板本尊になおしたということになるでし
ょう。それが口伝されてしまって、それで、日有上人が、いまの大御本尊様を板曼茶羅に作った、ということに
して、身延の連中がいっているのです。そんなのではないのです。ほんとうです。実際に私は、その御本尊を拝
しました。だからといって信心もない邪智謗法の徒に、御本尊を公開するわけにいきません。御本尊は見せ物で
はありません。