弥四郎国重と大御本尊との関係

 

【問】弥四郎国重という方と、一閻浮提総与の御本尊様とは、どういう関係でしょうか。

 

【答】邪宗のものが「大御本尊様の対告衆が弥四郎国重となっているが、法華講中弥四郎国重という方は存在

していない」という。これが一般の断定なのです。

 また、これを熱原三烈士のひとりとなぞらえている人も、学説上あります。南条殿の子供と断定している人も

あります。だが、だいたいの学説においては仮空の人ということになっています。これは私は、もっともなこと

だと思います。

 

 なぜ、日蓮大聖人様が「法華講中弥四郎国重」として、弥四郎国重を大御本尊様の対告衆にしたかという問題

なのです。これは、よほど仏法に通達してこないとわかりません。しろうと論議だと納得できないことです。少

なくとも、信仰に透徹して、仏法の奥義がわかれば、ごくかんたんな問題なのです。

 なかにはこういう議論を立てる者もいます。「大御本尊様は日興上人に授与したのであるから、なぜ対告衆を

日興上人になさらないのか」と。

 それは、日興上人を対告衆としたのでは一閻浮提総与とはならないのです。この一閻浮提総与の御本尊すなわ

ち南無妙法蓮華経というものは、全世界にひろめる人、まずこれを日本にひろめて戒壇を建立する人に授与すべ

きものなのです。

 ここで問題が一つあります。そのまえにいっておきますが、私がおどろいたことが一つあります。それは私が

東の坊を創価学会として総本山へご寄進申しあげた時のこと、僧侶から話がありまして「仏器から御厨子までぜ

んぶ私がお引き受けしますから、あとはよろしくお取り計らっておいて下さい」といったのです。そうしました

ら、東の坊の御本尊の対告衆は私になっているのです。ほんとうなら東の坊に御僧侶がいらっしゃるのですから、

その御僧侶へお下げ渡しになったらいいはずでしょう。「私の名前でやって下さい」といったのではないのです。

 しかるに、御本尊お下げ渡しの原則によって、私にお下げ渡しになっている形になっています。しかし、あの御

本尊様は東の坊の御住職の、身にあてたまわる御本尊です。ただ対告衆が、私であるというところを、よくよく

考えてもらわなければなりません。

 

 そこで、弥四郎国重の問題ですが、対告衆に一連のものがあるのです。まず法華経の読み方がわかっていれば、

弥四郎国重の問題もわかってきます。法華経がりっぱな経典であることは、だれでも認めています。その中に書

いてあることを、まず認めなければなりません。ところが日蓮大聖人の御書にも、序品八万の大衆ということば

が使われていますが、序品八万の大衆はどうなるでしょうか。

 経文には、そこに集まった人の名前が記されています。まずはじめは舎利弗、神通第一の大目犍連、その他の

阿羅漢を集めて万二千人となっています。菩薩摩訶薩八万人、摩訶波闍波提比丘尼の眷属六千人、名月天子その

他の天子の眷属数万人、跋難陀竜王などの眷属、これも、何万人、かくして集まった阿闍世王の眷属何千人。ソ

ロバンにおいてみたことはないのですが、霊鷲山へ、ざっと二、三十万集まっています。そうしたらどうでしょ

う、そんなにたくさん集まれますか、一つの都ができてしまうではないですか。しかも八大竜王もきています。

阿修羅王もきています。そんなものがきているわけがないではないですか。かりに集まっても便所の設備だけで

もたいへんです。八年間もそんなに集まって、いくら釈尊が仏でも二十万、三十万に聞かせる声がありますか。

そうなってくると霊鷲山に集まったというのは、おかしいではないですか。菩薩が八万人も集まるわけがないで

はないですか。総本山に七万の人が御遷座式に集まってもあのさわぎです。いま三千人集まってもこの騒ぎでは

ないですか。山の中です、広場ではないのです。そうなったら仏法上の根幹をなす「序品八万の大衆」はどうな

りますか。日蓮大聖人様は、はっきりとお認めになっています。しかも事実の研究の上からゆけば、そんなもの

はありません。ないものを書いた法華経は、信用できなくなるでしょう。もし法華経がだめだとなれば信ずる者

がなくなってしまいます。

 それは何十万でもかまわないのです。なぜかならば、釈尊己心の舎利弗であり、釈尊己心の八万の菩薩であり

ます。釈尊己心の提婆達多であり、釈尊己心の八大竜王であります。死んでそこにはいないはずの舎利弗にも、

己心の舎利弗なるゆえに話しかけ得たのです。釈尊の胸に集めた何十万の人、それを対告衆として法華経を説い

ているのです。生命の実相をはっきりしなければ法華経の序品から読めなくなってきます。

 よく「法華経を読みました」などという人がいますが、おかしくてたまりません。読めるものですか、読める

わけがありません。大御本尊を信じないで、読めるわけなんかありません。もし、ありとすれば、大御本尊様を

信じないまでも、大御尊を知りぬいて言えなかった竜樹、天親、天台・妙楽はこのかぎりではありません。読

めていたのです。

 その意味からいきますれば、弥四郎国重は法華経をひろむべきいっさいの人を代表した人物、日蓮大聖人己心

の弥四郎国重なのです。実在の人ではない。実在の人でなくても、いっこうさしつかえないのです。

 歴史的に調べて実証して、こうあらねばならんなどというのは、科学ということばに迷った人のやり方で、仏

法哲理の上からゆけば、日蓮大聖人己心の弥四郎国重に授与あそばされたのですから、日蓮大聖人のお考えとし

ては、もっとも理想の人格、法華経の行者の弟子として、理想の人格の人物として、世の中へおさだめになって、

その者にお下げ渡しになっているのですから、そんなこと、実在であろうとなかろうと、考えなくともいいこと

になってきます。

 第一、智者の舎利弗の議論にたいして、寿量品を立て、生命を捨てて守護する信者を代表して、己心の弥四郎

国重を日蓮大聖人は立てられたのです。諸君も、日蓮大聖人己心の弥四郎国重になりきりなさい。

 これは私はたくさんの人の中では話しません。もしこれを話して、あなた方がこれを人に話していい負かされ

たり、自分の心に疑いを起こしたりしたならば、かならずや罰を受けねばなりません。それほど重大な本尊論の

問題でありますから、めったに話したことはありません。ごく側近の者に話したことがあります。本日はもしこ

れをいわなければ、なおさら疑いを起こす時期にきているように思いますからして、やむなく問いにまかせて答

えました。これは絶対にまちがいのないことですから、信じていただきましょう。