質問会のあり方
このような大衆の質問会には、質問する人を大きく分けると二色あるのです。すなわち真実に求めて聞こうと
する味方と、やっつけてやろうという敵側とあるのです。
また質問を受ける方にも、受ける場所によって覚悟があります。やっつけてやろうという連中ばかりいるとこ
ろへ行く揚合には、それだけの腹がまえがいるのです。行って、めちゃめちゃにやられては、たまったものでは
ありません。
ところが、仏法のうちでは、たいてい味方で、自分のわからんことを聞きたいと願っているのがふつうなので
す。それで私には敵でも味方でも、どっちでもいいのです。やっつけてやろうというなら、やろうという腹でや
ってもらいたい。
質問するのには、敵であろうと味方であろうと、仏法の上には規則があります。それはいかなる経文におきま
しても、仏は「四衆に囲繞(いにょう)せられ」ということばが、まず最初にあります。これは四つの種類の人にかこまれて
ということであります。その四種の人というのを説明します。
まず、影響衆という人がいます。経典はぜんぶ一つの質問会です。質問のないのは方便品だけですが、あれは
無問自説といって、乱暴な経文なのです。釈尊の経典というのは、みな質問があります。質問をもって問い、問
いがあって仏が答えをおこす。日蓮大聖人様の御書もぜんぶそうです。問いがあって答えをおこす、その時にそ
の形の中にいまいう四種類があるのですが、影響衆といいますのは、かならず釈尊の説法をたすけ、日蓮大聖人
様では五種の説法をたすける人であります。また、当機衆といいまして、その説法を聞いてわかる人がいます。
結縁衆といいまして、そこで縁を結ぶ人がいます。それからもっとも大事な発起衆といいまして、質問をおこす
人、この人が、そこに集まった人たちが聞かんとすることを、問いおこすのです。自分だけのことではないので
す。発起衆はみなの気持ちを知っている、一般の代表者という意味になるのです。それを発起衆という。それな
のに質問会を進めていくと、勝手なことをいいだすのです。たとえていえば病気なら病気のことを聞くでしょう。
それもけっこうであると思います。この中にも病気で悩んでいる人がいるのですから、病気のことを聞いてはい
けないということはありません。しかし、あの人はこの程度でなおるといわれたのだから私のもなおるのだと、
こう承知したらどうですか。これを、当機衆というのです。ああそういうものかな、もっと信心して、もっとわ
かろうといえば結縁衆です。このとおりでありました、私はそういう体験をもっておりますといえば、これを影
響衆といいます。
借金の話なら借金の話でこれも仕方のないことでしょう。仏法の話なら仏法の話で、いいことでしょう。また
学会に関することを聞くならそれもいいことでしょう。ただ、同じことを重ねて聞かないようにしなさい。それ
だけを心得ていることです。発起衆は、自分だけ聞けばあとはいいのだというのでは、質問の意味はないと思う。
それならば支部長でも間に合うことだし、地区部長がおかしいことをいったと、あれでは私は腑におちないとい
うなら、全地区部長に対するいい方になりますから、この発起衆の考え方、問い方はいいでしょう。
また小児マヒの子供をもっているとするのです。この中にもいるかも知れませんが、これは原論上いつもいっ
ていることで、なおるか死ぬかのどちらかです。親が子に悩む宿命を持ってきたのだから子供に罪はない。とこ
ろで折伏すれば小児マヒの子を持つ必要がないという宿習に変わる、子供はそこにおれないでしょう。するとど
うなります。ちょうどシラミを持っていたとする、からだをきれいにしてシャツをきれいにすれば、シラミはど
こかへ行かなければならなくなる。理くつはこれと同じことです。小児マヒにしても一つの魔ですから、その親
の側にいなくなる以外にない。
ここが、いつも教えるところなのです。これ一つがわかれば小児マヒの話はきく必要はないでしょう。それを
何べんでも同じことをきく、ここらで小児マヒの話が出るとあっちでもこっちでもと……。まるで小児マヒの病
院へきたみたいなものです。本山だか小児マヒの病院だかわけがわからなくなってしまう。借金の話がこっちで
出ると、あっちもこっちも借金の話ばかりで、何だか裁判所へきたみたいです。そうならないように質問しても
らいたい。