二 撃
(一)
九月もいよいよ末となった頃、巌さんはいつもの通り刑事室によび入れられた。そして甘い空気をすいながら
長刑事の脇でたばこを吸っていた。
牧田先生はいつもの通り、中警部の机に向かって座っていた。午後の事で警部は席にはおらなかった。二、三
十分すると中警部がずかずかと入って来て牧田先生に向かい合って座った。
中警部はていねいであった。
『牧田、いよいよ今日東京拘置所の方へ行くことになったんだが、役所というものは忙しいもので、決まるとす
ぐという事になるんでね。どこかへ電話をして自動車を呼ぶことができるかね』
牧田先生は姿勢ひとつくづさずに驚いた風もなく
『稲畠の家へ、電話をしていただきましょうか』
稲畠の家ではその電話をうけるや大変な騒ぎで、大黒柱の稲畠さんが、みんなと一緒に留置所へ行っているの
で、心配はこの上ないところへ長女の嫁入り先である、牧田先生が拘置所へまわるというので驚きは、一通りで
はなかった。
留守を守っている長男の文夫さんが電話を切るや否や、
『お母さんお母さん大変です。目白のお父さんが拘置所へ行くので、自動車をよこしてくれというんですが』
『それは大変な事ですね。私が送ってまいりましょうか』
『僕が行こうと思いますが、留守をお願い致します』
『貴方は、今日はお父さんの方の事で呼び出されているんですから、車をすぐ頼んで頂戴。そして誰か目白の方
へ使いを出して、この事を知らせるように間に合えばいいんですがねえ』
非常な驚きとさわぎの中に自動車は警視庁へと送られた。
警視庁の前で一時間程待った頃、刑事につきそわれた牧田先生が玄関から出て来た。
車にゆったりと乗った先生が、ドアーがしまると一緒に、突然に
『巌君はどうした巌君は、一緒に行かないのか』
当然に巌さんが一緒に行く事と思っていた牧田先生を、びっくりする様に稲畠夫人は眺めてなぐさめる様な語
調で
『お父さん、巌さんは後からまいりますよ』
『そうか』
牧田先生は黙然として腕を組まれた。
二階の刑事室で、牧田先生が拘置所へ行くという事をきいた巌さんの驚きは絶頂であった。自分はまだ若いし、
体も丈夫であるから自分が残っても、先生だけは帰ってもらいたいと思っていたのであった。
しかるに、自分は残って先生が先に拘置所へ行くとなっては、自分の運命もしのばれると共に、何かしらんよ
り大きな重圧を感ずるのであった。中警部が牧田先生に拘置所行きを宣言した時、慄然たるものを感じ、先生に
最後の別れを惜しもうと決意した。ずかずかと中警部の所へ行って先生に別れの言葉をつげてよいかときいた。
警部は気持ちよくこれを許してくれたので、千万言の別れを惜しもうと、先生の側へよりそった時、出るもの
は涙だけで、
『先生お体を』といったきり、何一言言う事もできず、子供の様に泣きじゃくるだけであった。ただ淋しそうに
先生の後姿をしずかに見送った巌さんの目には、とめどなき涙のみがあった。
(二)
牧田先生が東京拘置所へ行かれたから、巌さんは自分の運命も同じであろうと思った。それなら自分も一日も
早く拘置所へ行って、検事判事の取り調ベを受けて、一日も早く保釈になる事が皆を安心させる事と思った。
十一月の十一日いよいよその時は来た。一時頃刑事室に呼び出されて、拘置所送りを宣言された。会社へ電話
をかけて自動車を呼んだり、色々とごたごたしているうちに時は移って、警視庁を出るのは四時頃になった。支
配人の住田が助手台に乗って、巌さんは刑事と二人後の腰かけに乗って、拘置所へと入ったのは秋の日ざしも落
ちて、ちょっと薄暗い様な感じのする頃であった。ボーッとしていた巌さんは何処が何処やらさっぱりわからな
い。そのうちに青い着物をきた者が七、八人ガヤガヤ立ち働いている部屋に入った。
『おい、新入りだ。着物とふとんとべんとうを出してやれ』
巾二尺位、青い色のせんべいぶとん二枚、かけぶとん一枚と枕と膝よりちょっと長い、青い、着物と箱ぜんと
をわたされ、
『今着てる着物を全部ぬいで、そこに風呂があるから、その風呂に入って上がってこい。この着物は二、三日消
毒してまた入れてやる。それまでその着物を着ていろ。早くしろ』
生まれて始めての新世界に、巌さんは非常に心細かった。いわれるがままに風呂場へと入っていった。うす暗
い風呂のなかには、入道の様な男が、頭に手拭いをあてて、鼻うたをうたっていた。巌さんは風呂の中に飛び込
んだが、それが一分であったかおぼえは全然ない。入ったのやら上がったのやらもわからずに、身体を簡単に拭
って、青い着物を身につけた。その時の悲しさ。自分は人間なのか、死人なのか、病人なのか、気狂いなのか区
別のつかない気持ちであった。男子と生まれて、かかる恥かしめを受けようとは。
ふとんを抱いて、箱ぜんと枕をならべて屠所の羊の様に、青い着物をきた男の後に従ってトボトボと歩んだ。
『早く来い』
巌さんは返事をする気もなく早く歩く気にもなれなかった。いく曲りかし、幾つかのドアをすぎて二階に上が
った左側のとっつきの部屋へ入れといわれて、ハハァ、ここが自分の独房かと始めて気がついた。部屋の様子を
みきわめようとする元気など何処にもない。つんのめるようにして、そこへ坐り込んでしまった。その時、別な
青い着物を着た者がやって来て、
『ここにボタンがあるぞ。用事があったらこのボタンを押すんだ』
と、つっけんどんにいってバアンと扉をしめた。鉄の音が部屋内にひびき渡った。
六燭程の光の電燈が淋しそうにともっている。冷めたい部屋の中は冬の高原を想わせる。何処からも何の音
もきこえて来ない。海の底の様な感じである。巌さんは男泣きに泣きたいと思ったが、只胸一杯の苦しさで泣く
事もできない。よろよろとよろめいて、ふとんを敷き、その上に横たわったものの、家を思い仕事を思い、妻子
を思い友人を思っては、一夜まんじりとする事もできなかった。
(三)
眠れぬままに、うつらうつらとしていた巌さんの耳に起床という声がきこえた。巌さんは起きるのかと心につ
ぶやきながらだるい体を起こして床の上に座っていた。十五分ほどすると戸が、がちゃんと音を立ててあいた。
何事かと思って入口をながめると、金筋をまいた帽子をかぶったえらそうな男が出勤簿を持って立っている。そ
の脇にあとでそれが雑役夫とわかったが、青い着物をきている男がえらそうに立っており、その脇に看守とわか
る男が立っていた。
『床の中になどいてはいかん。ちゃんと床を上げて入口の所へ来て挨拶をするんだ』
巌さんはのろのろと入口の所まではっていった。
『おい、おじぎをするんだ』
頭の上がらないうちに、声はぴしゃりととめられた。巌さんは又ふとんの上へもどって来て、あぐらをかいて
茫然としていた。さっきの巡視が一通り終わったかと思うと、戸が突然にあけられてさっきの雑役夫が顔を部屋
につっこんだ。
『こいつまだ布団も上げないのか、そのすみの方へつんでおくんだ』そういったかと思うとずかずかと入って来
て、
『おい布団を二枚敷くとはけしからん。ぜいたくな奴だ』
巌さんは思わず吹き出しそうになった。何もかも見当ちがいの世の中だ。わしはなぜこんな所へ来たのかしら
んと夢のような気持ちで
『この布団は夕べ下から寄こしたんだ。わしの知った事ではない。そうがみがみいわんで規則を一通り親切に教
えてくれよ』
その雑役夫はじろじろと巌さんをみて
『お前は何で入って来たんだ』
『宗教問題だよ』
『早く出られそうなものだ』
『三月もおればいいんだろうよ』
三月と聞いた雑役夫は何を思ったか、又来て教えてやるからなといって布団を一枚持って出ていった。巌さん
は始めて部屋の中をよく見廻した。正面の三尺の鉄の扉で中からは絶対にあかない。その入口から畳二枚を敷い
てあるその畳の隣りには、窓の下に、高さ三尺、幅三尺の戸棚があって、その上に幅一尺五寸、高さ八寸位の台
が取りつけてあって、本なり花びんなりおけるようになっている。その前にふたがあって、そのふたをあけると
洗面できるようになって水がどんどん出てくる仕掛けである。ふたをあければ洗面所、ふたをしめれば勉強机
である。腰掛けがあって、腰掛けのふたをあけると水洗便所、巌さんは腰をかけてふたをあけたり、閉めたりし
てふふんと感心するばかりである。その左側が窓になって鉄格子の外側に頑丈な硝子戸があって、やっと一尺位
下の方だけつき出して開けるような仕組みになっている。青いひざまでの着物を見廻しながら、この姿をみんな
に見せたらおどろくだろうと、うら悲しい気持ちになっている時に『食事の用意』という声が聞こえて来た。
巌さんは又もめんくらった。この大邸宅において如何なるをか食事の用意というか、ただめんくらっている時
に、又もや表の戸があいた。
『お膳を入口に出しておくんだよ』
ははんと巌さんは夕ベ持って入って来た箱膳だなと思った。その箱膳を前へ持って来た。
『箱膳のふたを出すんだ。その上に茶椀を二つ並べるんだ』
いわれるままにした時に一つの茶椀にはうすい味噌汁を、一つの茶椀には麦をのりでかためた一にぎりの御飯
を入れて、又もやばたんと戸がしまった。
(四)
二、三日の間は巌さんはただぐったりとして病人のようであった。自分でも病気になったのではないかと思っ
て医者にみてもらうことを看守まで申し出た。医者にかかっても案外に待遇の良いのには驚いた。看守長が特別
に会ってくれたのも、後で考えれば不思議なような気がした。その看守長は巌さんの友人のまた友人であるとい
うことは明かされないので、巌さんは馬鹿に親切な人だと思うばかりであった。三日目に巌さんの着物が消毒さ
れて入って来たし、五日目にふとんのさし入れがあった。巌さんは何かしらん家庭的なものを感じてうれしくも
あった。六日目の朝、ふとんからおきようとした時にチクリとお尻をさすものがあった。何げなく手をやると針
であった。わずかな三畳間で暮らす身になれば針一本でも大きな財産であると彼は思った。大切に棚の上に置い
て日常の生活に入った。棚の上には医者が粉薬を包んでくれた四角な白い紙が、十枚程きちんとおいてあった。
朝御飯が済むと巌さんは嬉しそうに机の前に坐ったのである。先ず藁の葉を粉々にした中へ御飯つぶを入れ
て、少し水をさしねりまわしていると丁度良いインキが出来上がったのである。ようじの先を歯でかみくだいて
細いふでとした、彼はにっこり笑って
『用意ができた』とさけんだのである。
我本行菩薩道 所成寿命今猶 未尽復倍上数
丁寧に針で薬の紙に穴をあけて行って、この文字を書きしたためたのであった。そしてこくめいにその上をお
茶でこしらえたインクで塗っていって立派な一枚が出来上がると又二枚目の作業に取りかかった。最初の一枚は
さし入れの本の中にしまいこんで置き、家庭へ帰る時のみやげにと、わびしい楽しみを心に画いたのであった。
二枚三枚とたまって行く時の楽しさ、彼は子供のような気持ちで、この経文の一句の書写をたのしんだのであっ
た。これは何を意味し、何を暗示しているかはその時の彼にはわからなかったのであるが、後になって彼はそれ
が大きな暗示であったことを知ったのであった。
拘置所に於いては文字を書くという事、しかもそれが紙にしたためられるという事は大きな罰則の原因であっ
た。これは牢獄内の通信を阻止する為に特に大きな罰則が設けられているのである。新しい囚人はこれを知る由
もない、只一句の書写に夢中であった。
バタンと戸が開けられた。
『おい、その書いているものを出せ』
臨時の看守がえらいけんまくである、巌さんはキョトンとした。
『これですか』書きかけた紙を一枚さし出した。
『まだあるだろう』
巌さんは非常に前にこしらえた物がおしかった。
『もうありません』
しかしそのとうべんは通用しなかった。なぜかならば雑役夫が彼の仕事の工程を知っていたからだ。たちまち
十枚程の紙は見出されてしまった。