嵐
(一)
お召しによって登山した以後の牧田先生はあい変わらず折伏を盛んになすっていられた。神札を邪神の力ある
ものとして取り扱っていた事には更に変わりなかった。
巌さんはカギサ商店の三階に陣取ってあらゆる方面に指図を下していた。はげしい戦争から来る圧迫感と、ヒ
シヒシと我が身に迫ってくるような不吉な予感をどうすることも出来なかった。淀橋警察へ連行された陣出さん
も有田さんもとうてい帰る見込みもないし、警視庁に闇で上げられた本馬さんも、とうてい帰る見込みもなさそ
うである。
物資は欠乏してくるし、株相場は下に下にとなってくる。新聞報道ではあっちでも勝ったこっちでも勝ったと
いってはいるものの、街行く人の顔にもいらいらした空気が見えている。何となくいんさんな世の中である。
八月の五日の五時頃、麻布十番の梅の家へ巌さんが車でやって来た。立花さん達や稲畠さんや西川さんや藤重
さんや学会幹部の人々十二、三人が二階の大広間に集まっていた。肴も取らず酒ものまず何かと雑談していた。
巌さんの顔を見るや稲畠さんは
『今日も牧田先生もおいでになるんですか』
『いや、牧田先生は下田へ折伏に行っておられるので今日はお見えにはならない。たとえ東京においでになって
もこの会にはお呼び申し上げぬつもりなのです』
『なぜですか』
『今日お集まり願ったのは重大な決意をお互いにしたいからであって、人に聞かれたくない事でもあるから、ど
うだろうか、地下室へ集まろうではないか』
『へえこの家に地下室なんかあるのかな、初耳だな』
『妙な家でばくちか何かをやらせたのかも知れんが、僕が買い取ってからその室を見つけて、ふだん使用する事
を禁じていたのだ』
一同は巌さんに案内されて地下の八畳の室に入った。小じんまりとした感じを与える部屋で気分の悪い部屋で
はなかった。
巌さんは一同をキッと見て、
『お忙しい所をお集まり願ったのは他でもないですが、本馬君、陣出君等の事件につれて何となく、緊迫したも
のを僕は感ずるんです。その上に、支那との戦争もどうもはかばかしく行かんのですが、これはきっと日本民族
の癌になるかも知れんと思うのです。日清戦争でも日露戦争でも一本の筋があったように思えるのだが、今度の
支那事変ではぬかるみに入ったのではなかろうかと思われてならないのです。外は戦争の事から内は国家の事、
又宗教界をみても混乱を重ねているではありませんか。牧田先生一人がいろいろなすっていらっしゃるが、我々
も牧田先生の心を心として、この混乱から国家も民衆をも救おうではないか。それに日蓮正宗の信心に対する半
信半疑を捨てて、この宗教の力でこそ、この戦争に打ち勝てるという大信念をもって、一大折伏に入ろうではな
いですか。この議題のもとに大いに討論していただきたいと思うのです。できる事なら我々の手で、広東、かん
しんの地下工作までものり出したいと思うのだが、きたんなく御意見をきかせて下さい』
この議題を中心にして二時間にわたる討論の結果、各自各自の事業をしっかりやりとげて、その余力を以って
大いに国家に協力し、その力をより高く働かして大折伏闘争に入ろうと決議した。
(二)
八畳の間に白い蚊張をつって、巌さんはぐっすり寝こんでいた。今六時を打ったばかりである。朝の太陽はキ
ラキラと地面いっぱいに照らして、巌さんの眠っている部屋にも明けはなされた窓からさし込んでいた。玄関の
所で何かガヤガヤと話声がしている。うつつの中に誰かきたのかなと思ったとたんにゆり動かされた。
『一寸起きてくれまいか』
巌さんはききなれない男の声に、眠むたげな目をあげて何事かと闖入者の方へ顔を向けた。
二人の男が枕もとに一人は中腰、一人は立っているのであった。その後に巌さんの女房が心配そうな顔をして
いる。巌さんは静かに起きて
『君らは誰かね』
『警視庁の者だが、ちょっと高輪署まで来てもらいたいのだが』
巌さんには何も思い当たる節がない。又誰かが妙な事をして、僕にやっかいをかけているんだろうぐらいに軽
く考えて蚊張の外へ出て単衣をきた。
『下の応接で話そう』
と気軽に先に立って下りて行くと、玄関に三人の男が立っていた。後からついてきた二人の中の一人が
『うまく行きましたよ、安心ですよ』
こういうと玄関の三人はニタリとした、かしらだったような一人が靴をぬいで巌さんと玄関わきの応接へ入っ
た。ドアは開け放されて、二人がさも護衛するように立った。女房の節子と義理の母とが、心配そうに二人の護
衛兵の後から中をのぞいていた。
『今日はすぐ帰れないかも知れないから、朝御飯を食ベて行かれたら』
『そうですか、それでは一杯たべて行きましょうか。お待たせしてすみませんね』
こういって節子の方を向いて『おい食事を持ってきてくれ』
巌さんの家庭では巌さん一人きりで食事をする習慣になっていたために、何時でも巌さんの起きる前に、食事
の用意はされてあったので、数分も立たぬ間に食事ははこばれ巌さんはうまそうに二杯食ベ
『さあ行きましょう』
といってから、ちょっとお待ち下さい、といって二階の居間に引き返し御本尊様を拝んでお守様を体につけゆ
ったりと表に出た。高輪署は巌さんの家の裏が見える所を通って行くのだ。その裏に背の高い男が立っていたの
が不思議に思われた。あとで分かった事だが、その男は高輪署の特高主任であったのである。高輪署へ巌さんを
連れ込んだ一行は調べるのでもなくある部屋の方へ連れて行って
『ここでちょっと待っていてくれたまえ』
部屋の中に合図をして、ガラリと開くと、巌さんを押し込むようにして中に入れた、戸がしめられた。巌さん
はびっくりした。留置所じゃないか。一人の巡査がいすに腰かけて、陸軍中将のような顔をして兵隊に物いうが
ごとく『おい、ここへこい』巌さんを呼びつけて性名、年齢を聞き、はだかにして帯や、ひも類を全部取り去り
単衣物一枚をきせたきりで前の鉄の格子戸のはまった部屋の中へ入れた。巌さんは驚いた、間口五尺、奥行九尺
ほどの所に七人もの人間がすわっているではないか。しかも行儀よく膝をくずさずに。
(三)
巌さんは自分がどうして高輪警察へ留置されなければならないか、という事についてまだはっきり意識出来な
かった。しかも裏と表に張り番を置いて、実にギョウギョウしいとりもの陣を思っては、又不思議がっているだ
けであった。
皆がかしこまってすわっていると同じきちんとすわって、中をかんとくしている二人の巡査が三軍を閲兵する
司令官のように、威厳ある姿を眺めているだけであった。
ガタン、ピシンと又新入りがあった。それは朝鮮人であった。裸にして、何か質問をしているらしかった。し
ばらくしてから留置所の司令官がこうどなり出した。
『きさま、本当の商売を言わないのか』
『だんな、さっきから何度も申し上げているように私はただの雑貨行商ですよ』
『どうもきさまは臭い、セミのせめを一つやってやろうか』
その朝鮮人はキョトンとした顔をして司令官たるおまわりの顔を見ていた。
『おい、この柱にぶらさがれ』
巌さんはおどろいた。六尺も高い所にある捧にぶらさがれというのだ。朝鮮人はすなおにぶらさがった。そし
て足を壁につっぱってぶらさがったら司令宮殿のいうことには
『手をもう少しひろげろ、足をひろげて壁につけろ』と
各室の自分の子分であり兵隊であるところの者に
『どうだ、いい責めだろう』
棒にぶらさがって足をつっぱっているそのあわれな人は、だんだんと苦しみは強くなって行くらしい。見てい
た巌さんはいきどおりと悲しみに打たれ出した。こんなごう問があるものか、まだ徳川時代の弊風がぬけないの
か、または国家権力を笠にきて、力を失った一匹の羊をいじめる警官は、実に悪い奴だと思った。ごう問される
その人はだんだんと弱ってきた。司令官はおごそかにそのあわれな兵隊に向かって命令を発した。
『ミーン(セミの鳴き声)と泣け。ミーンと泣け。上手に泣けばおろしてやる』
弱った兵隊はミーンと鳴いた。
『一声ではだめだ、けい気よく鳴け』
あわれな調子と弱った声で、かよわき兵隊はミンミンと鳴き続けた。やっとゆるされて巌さんの入っている隣
の房へ入れられた時に巌さんはホッとした。
『ああ、日本が朝鮮の民族をして、悦服はさせていないのではなかろうか。今度の大戦争に朝鮮がどこまで日本
の味方になるか、これはわからないものだ。日韓相互の上に重大な問題である』と思ったその時に、又ガタリと
戸が開いて新入りが入ってきた。巌さんは思わずヒヤリとした。それは稲畠じゃないか。巌さんの驚きは極点に
達してきた。稲畠さんは涙を流して泣いているのである。そして型のごとく巌さんより一つ離れた房に入れられ
た。入る時に巌さんにわかるように
『家の者に心配するなとつたえて下さいね』
と司令官にたのんでいた。その声は泣き声であった。巌さんは初めて問題が学会の事であると気がついた。さ
て事件がぼくで終わればよいが下田へ行かれた牧田先生の御身へ、同じ運命があってはと初めて胸のさわぎをお
ぼえ出した。