大 混 乱
(一)
徳山大尉は少佐に昇進して、参謀本部に帰って来たのは昭和十八年の四月であった。春のうららかな陽光を浴
びて、静かな明治神宮外苑の緑の芝生を、圭子さんと語らいながら日曜の午後を楽しんでいた。
『圭子さんの仏教論は僕は聞き飽きたよ。僕があなたの信仰する日蓮正宗を信じなければ結婚出来ないというあ
なたの気持ちはどうしてもわからない』
圭子さんは憂いを含んだ顔をして、
『徳山さん、私があなたを愛さなくてはならないとは始終思っています』
『愛さなくてはならないとはどういうわけ?』
圭子さんは返事もせずに頬を赤らめてジッと立った。しばらく言葉をのむようにしていい出した。
『夫婦になる以上は、私はあなたを愛さなくてはならないでしょう』
『今、愛しているんではないんですか?』
『ええ、半分程』
徳山少佐は大声をあげて笑い出した。
『半分ですって? 半分じゃ困ったな、後の半分は誰を愛しているの』
後の半分は、と言った時に顔の影にかすかな嫉妬の影がひらめいた。圭子さんはニッコリ笑ってからかうよう
に、
『仏様をよ、オホホホホホ』
徳山さんは肩すかしを喰ったような顔をした。
『まあちょっと芝生にかけよう、話す事があるから』
と言って芝生の上にハンカチを開いて二入は掛けた。四月の陽光は二人を寿ぐようにサンサンとふりかかった。
何の鳥かきれいな鈴のような声で鳴いて、何処に戦争があるのかと思われるようであった。
『今、我々の中に是非ともやろうと問題になっている事がある。それは皆にいって貰っては困るけれども、宗教
の統一なんだよ。手始めに、南洋にも満州にも朝鮮にも大神宮を今建て出している。第一段階として仏教徒の大
合同と神道の国教化なのだ。そして行く行くは仏教徒を神道化する事、これが根本のねらいさ、だから圭子さん
の信じている宗教だっていまに統一され撲滅されるのだ』
『それでしょう。此の間和泉貞三さんの所へ行ったら、何とかという仏教団体のパンフレットをすっていたわ。
読むともなしに読んだんだけれど、仏教徒は一丸となってこの大戦争に寄与しなければならないというような事
が書いてあったけど、何だかそうしなければ自分達が滅亡するんだというような、うら悲しい感じを受けたわ』
『そうだよ、仏教徒だって自分達の位置を感ずるよ。神道が日本の宗教として東洋に君臨するんだから彼等の位
置はなくなるよ』
『そんな事を始めたら二千年前の仏教が日本の国へ入って来た時に逆もどりの混乱じゃないの。宗教問題が二千
年前に逆もどりね。そんな馬鹿な事するもんじゃないわ』
純粋な気持ちの娘の抗議に徳山さんもタジタジとした。同僚同志の議論なら卓を叩いて論ずるんだが、どうも
圭子さんではどうやっていいかわからない。徳山さんは間もなく論陣を立て直して、
『圭子さん、天皇陛下と仏様とどっちが偉いんだい』
妙な質問に圭子さんは目をパチクリした。そしてきまっているじゃない、という顔つきになって、
『それは仏様が上よ』
『フム、じゃ天照大神と仏様とどっちが上だい』
『決まっているじゃないの、仏様の方が上よ』
『ヘエ、日蓮上人と天照大神とどっちが偉いのさ』
『決まっているじゃないの、日蓮大聖人様よ』
(二)
二人は散歩に来たのか、議論に来たのか、而もその話は恋愛と信仰問題の二つの流れをしている。二羽の雀が
鳴き合っていたとしても、人間には何をさえずっているのか解らないように、二人の話は許嫁の仲の話なのやら、
二人の感情なのやら、或いは国家を代表して神仏二論の混乱を物語っているのやら、更にわからない状態であった。
国家に大混乱が生ずる時、又は革命が起こらんとする時、国家の思想の流れは一家の混乱となり、又は一家の
中に二派の革命思想を生ずるものだ。
今、若し国家に争乱が起こったとしても、その争乱が部分的、一時的なものであるかどうかを判断するのには、
その波乱の状態が家庭に及んでいるかどうかを、吟味すれば根本的に永遠的なものか、又は部分的、一時的なも
のかが判断出来るものである。若し一時的、或いは分等的とすれば、その影響は決して家庭に現われないもので
ある。
しかるに、昭和十八年の日本国家の宗教的動向は、東洋三千年の仏法に対する神道の反逆である。日本国家と
いう若き国家の力を借りて、日本民族は神道を以って宗教的面での東洋民族征覇にかかったのである。いかんと
なれば、武力戦には必ず思想の背景がある筈である。その思想の背景こそ武力戦の勝敗を決するのである。
圭子さんと徳山少佐とが、神道か仏教かと、まるで、日露戦争当時の奉天開戦の時のように、談じ合っている
時に、アメリカのルーズベルトが仲裁を申し込んだような事件が起こり出した。
『おい徳山、うまくやっているじゃないか、帰るや否やこんな美型と芝生の上で喋々なんなんとは何事ぞ、わし
もやけたぞ』
ひょいと顔を上げた徳山さんは驚いたような顔をした。
『おい鈴木、お前は何だってこんな所へ』
鈴木少佐は腰に下げた大刀の柄を手に握ってカラカラと大笑いした。
『おい徳山、俺がこんな所へ来たのが悪いとでも言いそうな形だね。戦の法には奇襲という事もある。ちょっと
奇襲された態だな、おい、そんな事よりは美型に紹介しろよ。何をお前等が議論していたか話せ。お互い満州
の山野で飯を分かち合った仲じゃないか』
最初はどぎもを抜かれたような顔をしていた徳山さんも大声で笑い出した。
『おいおい、飯を分かち合ったなんて嘘言ってはいかん。俺の飲み量を全部占領した仲間だと言いな』
そして優しそうに圭子さんを振り向いて、
『鈴木少佐といって、同じく満洲で作戦し合って来た仲間さ。大酒飲みで我儘で、頭が良い奴というのは此奴の
事です。今後おつき合い願います』
そして真面目そうな顔をして鈴木少佐に向かって照れ臭そうに
『僕の未来のワイフで圭子という。宜しく』
鈴木少佐はこれ又照れ臭そうに『ホウ』と言ってぴょこんと頭を下げた。そして元気な声を出して、
『何を議論していたのか、やきもち喧嘩かい、圭子さんは』
圭子さんは甘ったれるような声を出して、
『いいえ、徳山さんたら、神道で今度の日本の国の戦争を指導しようとがんばるんですもの。そんな事とても駄
目よって言っていたのよ。その上に、私に試験するような事を言い出すんですもの』
鈴木少佐は妙な顔をした。
『それなんだ、おい徳山、問題だぜ。満洲へ天照大神の社を建てたのは、満洲人間で問題になっているんだ。南
洋の方でも同じだって言う話だぞ。その上にな、日本国内では仏教徒がちょっと目覚めて騒ぎ出しているらしい。
この仏教徒を敵に廻しては国内の統一は難かしいぞ。神仏二門の問題は、これは混乱時代に入ったぞ』
(三)
鈴木少佐から神道が植民地に受けの悪いと言う話と、国内の仏教徒の騒ぎとを聞いた徳山さんは、
『おい鈴木、これはやっぱり大政翼賛会の主張もちょっと考えなければならないぞ。国士連や新聞社に働きかけ
て仏教徒の合同を策すると一緒に、彼等にも一役買わせたら面白いかも知れんな』
『いやそれは本当だぜ、どうも日本にはこちゃこちゃと色んな宗教があるんで、どれと話していいのかまとまり
がつかん。三つか四つにまとめ上げて、それを又一本に縊ってしまって身動きの出来んようにしてかかるのも一
つの手かな』
『いや、それは前からやっているんだがはかばかしく行かないんだ。もう少し文部省の尻を叩かなくてはならん
な』
『国内の思想統一をどうしても計らなければどうにもならないぞ、まあゆっくり皆と相談してやろうじゃない
か』
鈴木少佐はそんな話はもう決まっているじゃないか、というような顔をして、チラリと圭子さんを隙見して、
徳山少佐に話しかけた。
『おい徳山、若しお嬢様のお許しがあるなら、いや君の気持ちが僕と同意であると承認するならば、どうだい一
パイつき合わんか』
徳山さんは苦笑して圭子さんの顔を眺めた。目頭にはどう返事するかと言う事を聞いているようであった。圭
子さんは非常に浮かない気持ちになってしまった。
(四)
軍人会館の大広間には十四、五人の人達が集まって雑談していた。部屋はぜいたくに作られていて、坐ってい
るソファーも心地よい。夜の電灯はあかあかと光っていた。
佐藤金太郎中将、小笠原日生中将、土田博士等を中心とした水魚会の人々である。
『日蓮宗が打って一丸となって、日蓮主義の上に国家の為に働くのは当然でなければならぬ』
佐藤中将がポツンといった。色の黒い背の高い四十がらみの男がそれに応えて
『いや大体合併論は決まるんじゃないか、もう少しすると身延の槍谷が来るからよくわかると思うがね』
『いや文部省の宗教局でもこの時局下では、どうしても大合同して国家の総力戦に応えなければならないとの見
解なんだ。これは事実だろう』
集まっている人達の意見は信仰を中心とした事ではなくて、政治的であり主義的な話が中心をなしている。そ
こへちょうど身延の槍谷氏が入って来た。
『やあ、皆さん遅くなりました』
丁寧に皆に挨拶して空いた椅子に腰を下した。土田博士がゆっくりと槍谷氏の方を向いて
『どうだね、合同の具合は、もう皆まとまった事だろうな、国家の大事の場合、小翼を捨てて大道につくのが当
たり前だからね』
『いやそれが仲々、永い伝統のある宗派が多いのだから、そううまくはいきませんよ。ことに小さな宗団のくせ
に日蓮正宗が一番がんこなんです』
『いやそれで、たびたび電報やら手紙やらで忠告しているんではないか、水魚会としては……まだがんこを言い
張るのかね。けしからんことだ』
『土田先生、私には思案があります。色々と研究中ですから御心配なく、北村本門寺は落ちましたからな』
『いやそれは結構だ。国家のため着々とやってもらわなければならん。それにしてもよく承知、したね、だいぶ機
密費を使ったかね』
『極秘な話ですが、管長に一万円やる事に決めたんですがね』
政治には金が付きものだ。信仰のない宗教団体の合同は政治である。慨嘆すべき事ではあるがこれが時勢とい
うものである。給仕が入ってきて槍谷氏に名刺を出して
『この方が尋ねていらっしゃいました』
といった。
『この男ですよ。日蓮正宗の僧侶ですが、笠公慈大といってね、仲々の策略家なんですよ。あなたも承知の通り
水魚会に入ってはいるんですがね、今日は内証の話なんですよ。仲々の野心家で日蓮正宗の管長をねらっている
んですよ。これが合併論にえらい力を入れて、本山をおどかしているんで、今、会って大いに使ってやろうと思
っているんです。成功した暁には清澄山の住職をも餌にそえてやろうと思うんですがね』
といって心に何か期待する事のあるように快心の笑みを片頬に浮かべた。