女 妖
(一)
陣出クリーニング商店は営業不振の状態である。陣出さんは非常に人のよい人で気も弱かった。信仰に帰依し
て牧田先生の指導を受けて、どうやら少しはしっかりして来たものの、自分の事業を挽回する程の生命力はまだ
湧かなかった。そこへつけ込んで、信仰の指導と生活指導という看板のもとに寺西さんが入り込んだ。
弟の有田をその会社の專務にして、自分が顧問格となって指導した。それには自分が折伏した数百に近い人々
がいるのが何より彼の強味であった。これは一種の信仰利用である。しかし誰もこれを見破る者はなかったが、
巌さんだけはこれが学会の癌にならねばよいがと心配しながら、自分が又怨嫉謗法に堕ち入るのを誡しめつつ高
所からこれを眺めていた。
寺西さんの親友である木本さんは金融業を営んでいたが、牧田先生へは大実業家としての振れ込みである。牧
田先生はその振れ込みを本当に信用していられる。
巌さんだけはあれだけの大失敗から、御本尊の功徳を受けて立ち上がって、またたく間に十幾社の社長を兼務
しただけあって、それ程の実業家とは少しも思っていなかったが、その点で牧田先生と論争が起これば、何時も
涙をにじませて巌さんは負けるのであった。
なぜかというに、巌さんは大酒呑みで毎晩料理屋通いをしているのであったが、他人が巌さんの批判をする時
に、牧田先生はいつも巌さんに言うのであった。
『巌君、あの人悪い人だよ、巌君の悪口を言っとったよ。君が遊里に沈酔しているなんて言うんだから、あれ
とつき合わないようにした方がいいよ』
事実、巌さん自体が毎晩事業に関連があるとはいえ、又負け戦から起ち上がらねばならぬ時間を急ぐ立ち場か
らとはいえ、折伏も勉強もせずに毎晩飲み歩いているにも拘(かか)わらず、牧田先生は巌さんを人材なりと信じて居ら
れるのであった。その信頼を思う時、木本さんを信頼する先生の気持ちを偲ぱずにはいられなかった。
先生の純真さ、正直さを思う時、巌さんは自然に涙が出て、木本さんの実体を言い切る力が抜けてくるのであ
った。自分も悪い人間だが、あいつ等も悪い人間であると思う時もあったにせよ、先生と同じ気持ちで彼等をか
ばう気持ちになっていた。
陣出さんの近所に岸田さんという未亡人がいたが、男を手玉に取るというので有名であった。この人も信仰に
帰依して寺西さんの指導を受けて居ったが、木本さんを大実業家と信用し切っていた。お世辞が非常にうまいの
で、牧田先生へも要領よく取り入っていた。ある時、寺西さんと岸田さんが会って話をしていた。
『陣出さんの会社を金まわりをよくするだけを考えては、寺西先生駄目でしょう。木本さんはあんな立派な金融
業をやっていらっしゃるんだから、お金の応援をして上げて、私共にも儲かるようにしてくれるわけには行かな
いの? 私だって二万や三万の金は持っています』
『木本もその事は言っていたよ。貴方が応援してくれるなら、僕にも折伏した数百人の人がいるんだから、その
子分等をかせがせて方法はあるんだがね』
『巌先生があんな負け戦から、またたく間に回復してあの通りなんですもの、陣出の会社をダシにして木本さん
をかついだら、きっと、面白い事ができてよ』
商売には実業と虚業がある、虚業にならねばよいがと、巌さんを心配させた仕事の第一歩はこうして始まった。
牧田先生や信仰が蔭の大きな看板となったのは言うまでもないが、これは大きな謗法である。
(二)
夏も過ぎて秋の涼しい風を入れながら、銀座のこじんまりした料亭の二階で、三人の男女が酒を汲み交わして
いた。流れる風も気持ちよく街路樹の葉を夕闇にゆるがせて、支那事変が起こっているとはいえ、東京はまだの
どかであった。
『木本さん、儲かってるの? もう、拾万近くも集まったでしょうね』
『岸田さん、貴方にだって毎月ちゃんと配当を払ってる。それ位わかる筈じゃないかなあ、寺西君』
『岸田さん、心配する事はないよ。この寺西がついているんだから……。資金の大部分にあの有名な藤田愛太郎
さんの下で会計課長をやっていた。三谷達司君が石油会社を起こしてるんでそれを応援しているんだよ。この会
社は儲かるぞ」
『岸田さん、もう少し金が無いかね』
『私だってもう四、五万も出したじゃないの。皆に較べれば大株主よ』
『いや貴方のじゃないよ、他からちっと集まらんかね』
『有田さんだの、陣出さんの奥さんだの、かね子さんだの、一体どうやっているの』
『やってるよ。僕はね、毎月配当もらわない奴は価値論を知らないね、価値論を知っている者は信仰してない奴
だからと言っておどかすんだ。いやはや大変、皆夢中だよ。それも牧田先生を蔭にしてやるんだから、薬の効き
目は凄いぞ』
『オホホホ、寺西さんのやり方の凄さは聞いたわよ。座談会の終わった後で、ボンと手形を落すんだってね、わ
ざと。そしてそれが何かと聞かれるのを待って、これは金儲けの機械だ、信仰から割り出し価値論から出たもの
で、これを知らなけりゃ信者とは言えないとかなんとか言い出すんだそうね。大変な先生さ』
『いやはや大変な事を聞かれちゃった、しかし君だって仲々凄いんじゃないか』
『それは当たり前の事じゃないの。私だって配当の上前をはねるんだもの少しは働かなくっちゃね。此の間も面
白かったのよ、あの呉服屋の安久さんと、牧田先生の所で会った時、私は牧田先生に向かって〝ねえ先生、お金
を持って銀行へ預けそのままにして置いて、それ以上儲けようともしない人は価値論を知らない人ね〝と言った
ら、牧田先生は私をすっかり信用しているから〝ああそうだ〝と仰言ったので、安久さんに牧田先生も、此方(こちら)の
事業に一緒になっていると思い込ませて、此方側の話をしたのよ、今に相当寺西さんの所へ持ってくるわよ』
(三)
『それは凄い、ひとつ前祝いに景気よく飲もうじゃないか、さあ岸田さん一パイ』
と寺西さんが盃をつき出した。
『寺西さん、私が酔ったら送って来てくれる?』
と四十代の岸田さんがおしろいを濃くぬった顔に媚をふくんで寺西さんを見つめた。寺西さんは迎えるように
ニッコリした。
『送りますとも、どうせ貴女は一人者だもの。何処迄でも送りましょう』
木本さんは大きな声で笑い出して、
『お安くないぞ、御両人』
と言ってコップ一パイの酒をぐっと引っかけた。暮れ行く銀座の夕闇に三人の宴はなごやかであった。