秋月左都夫先生

     (一)

 蒙徳寺の境内に広からぬ邸宅を構えて、八十二の老年を養なっている秋月先生は、日本政界の古老であり、外
交官吏の大長老であった。
 オーストラリヤ大使を最後に、多年の外交官生活を引退して後は日本の政治、外交、文化をみつめて孫嫁の世
話を受けながら、老後を楽しんでいた。
 机の上に牧田城三郎著の価値論を置き、ジっとその青い表紙を見つめて、
『イヤこれは中々大作だ。方々の国の哲学も価値論も読んだし話も聞いてまわったが、こんなに心を打ち込んだ
真面目な研究は見た事がない。しかもドイツの研究とは全然変わった見方をしとる。日本人としては偉すぎる。
今日来るようにと話して置いたが見えるだろうかな』と一人つぶやいた。
 その時、静かにふすまがあいて五十年配の老女が淑やかに入って来た。
『おじい様、牧田さんという方と若い方が一人ついてお目にかかりたいと申して居られます』
『応接へ通しておきなさい。今お目にかかるから』
 応接といっても、人が来るから仕方なしに会う為にソファーや椅子を置いたというような、ごく質素な部屋だ
った。
『秋月先生でいらっしゃいますか、お手紙を頂きました牧田でございます』
『いやいや、よくお出下さいました。まあごゆっくり』
 秋月さんはゆったり腰をかけながら、牧田さんお座りなさいと云うような身振りをした。
『巌君、秋月先生です。御挨拶をするように。秋月先生、此の人は巌といいまして私の弟子です』
 秋月先生はにこやかに巌さんにも会釈をして三人鼎坐(ていざ)の形になった。八十二歳というのにかくしゃくたる老人
だったが、優しい声で牧田さんに向かって日本の教育の在り方について色々とたずねられた。言葉は優しいけれ
どもその問い方は仲々辛辣なものであった。
『教育というものは、次の国民を作る最も大事な事でありながら、日本の国では文部大臣が伴食大臣な位だから、
しっかりした教育制度を確立出来ないので、国家の将来が心配でたまりません』
その点なんですよ。私が今懸命に説こうとしている所がそこにあるのです。教育制度の確立にはその根本とな
るべき思想がなくてはならぬはずです。又方法もいろいろと研究されなければならない。それには軍に参謀本部
があるように、教育本部というようなものがあって、政府が変わる事に関係なしに、国家に直属して設置されな
ければならないと思います。又校長なぞも情実に支配されることなく、試験制度で新進を抜擢しなくてはなりま
すまい。これが私の小学校長登用制度案でございます。又子供も、七つから二十四、五の大学まで学校の勉強だ
けさせておくというのも考えものです。ある年令以上は学校の勉強は半日にして、後の半日は職業教育に用いる
ようにしたらよいでしょう

 あきる事もなく、このような教育上の話が二時間以上も続いた。二人は旧知の人のように顔をつき合わせて語
り合っていた。巌さんは二人の老人の話をつつましく聞いていた。帰りぎわに秋月先生は牧田先生に向かって、
『あなたの為に何か私で役立つ事があったら遠慮なくおっしゃって下さい』と追いかけるように云い足した。
 

       (二)
 牧田先生はその後、しげしげと秋月先生の所へ通うようになった。或る日、巌さんに向かって、巌君、秋月先
生が学会の為に是非何かして下さろうというが、どうしたもんだろうね、といった。巌さんは牧田先生の顔をジ
ッと見つめて
『長い間の懸案である幹部の教育をしたらどうでしょうか。もし秋月先生から月に六拾円宛二年間御後援願える
なら十人の幹部の教育が出来るではありませんか』
『それはどう云うわけかね』
『優秀な人材をえらんで月に一人十円づつ交通費の補助をしてやれば、週に二回づつは先生のお宅へ通えるよう
になるのではないでしょうか』
『フム、それはよい考えだね、そうしようではないか』
 そんな話があってから間もなく六人の人材と思われる小学校の教員が選び出されて、教育学の研究を仕込まれ
る事になった。それは大村光男、木村栄、渡辺力、林幸四郎、寺西陽三、三矢孝の人々であった。翌年もこれと
同じく選ばれた人は又六人で次の人々であった。金子純二、中恒豊四郎、小塚哲四郎、山本、菊地、林、こうし
た人々の活動によって集まった人材は相当の人数になって来た。
 世の中に、一つの事業が進行する時に、その内部にその遂行目的を理解しなかったり、或いは感情的に反抗し
ようとしたり、或いは大きな目的よりも自分自身の利害を考えるものがいるものである。こういう人々は感情か
ら出たにもせよ利害から出たにもせよ、或いは己(おの)れの愚かさからにしても、必ず一致団結してその目的遂行の破
壊にかかるものである。

 ここに、矢代、渋谷、高知、団岐、小林という連中が、せっかく秋月先生が応援すると云うのに、わずか月に
六拾円位の金を貰(もら)って事足りるとしているのは不愉快でたまらない。むしろ自分等の手で秋月先生を動かして、
教育の研究所と云う名目で私塾でも建てて、自分達がその経営の任に当たろうとしたのである。
 これを聞いた巌さんは激怒した。五人を呼びつけて、
『君等は牧田先生の偉大な目的を知らないのか、わずかばかりの小さな私塾を開いて、何で生徒なんか集まるも
んか。もし実際に私塾が必要ならば私のもっているこの塾をいつでも提供する。君等は牧田先生の名において自
分自身の事を計ろうとするのだろう。もしそのような企てを止めなければこれからすぐ牧田先生の所へ私が行っ
て事情をぶちまけるがいいか』と言い渡した。
 五人は非常にモヂモヂしていたが、その中の渋谷が口を開いた。
『いや無理にどうしてもやろうと云うんじゃないんですよ。只計画を立てて見ただけなんですよ』矢代も又その
後に続いて、
『只我々が相談して見ただけなんで、どうか牧田先生にはこの事はいわんで下さい』
『それはおかしい、私と先生とは師弟である。親子の情愛を持っている。学会内に起こった事件を私に対して、
先生にかくしておれという事は、私に先生の敵になれというのか、私が先生に学会の事をかくし事をしたならば、
その日から私は牧田の弟子だという事が出来るものか、そんな考え方は私の境涯には無い』
断固と言い切った巌さんの目には、強いひらめきがあった。その事件があってから矢代が牧田門下を去ったの
は間もない事であった。