(五)
よし江の心は嫉妬に燃え狂って来た。雪子は八軒長屋の女王様と云われて、その淑やかさに加えて怜悧な所が
人々にほめられている。
その上に家庭の暮らしも楽である。二人一緒に巌先生の会社に入社を申し込んだ時、自分は入社を断られたう
らみも残っている。雪子が巌先生の事を言い出した時からよし江の心は狂い出した。
嫉妬というものは心に赤いベェールをかけたようなもので、嫉妬する対象に対しては、正確な判断が出来ない
ものである。又嫉妬と云うものは、オモチャの電車をレールの上で右に走らせたり、左に走らせたりするような
ものだ。心の置き方に安定がなくて、極端に考えすぎるものである。よし江と反対に雪子は冷静であった。
『よし江さん、巌先生の事を私がどう思っていようとあなたに何も関係はないでしょう。おとらお婆さんのおっ
しゃる事は、あなたの一家を幸せにして上げたい真心からなんですよ』
『それがヤダって言うんだよ。それこそあんたの言うように、私の家の事は何もあんた方に関係はないはずでし
ょう。私はあんたのそういう高慢ちきな顔が嫌いなのさ』
雪子はニッコリ笑ってよし江には取り合わず、鈴木さんの方に向かって
『ねえ鈴木の小父(おじ)さん、御本尊様は大変な御力があるんですよ。巌先生がいつも私達におっしゃって下さるけれ
ど、ドイツ語で、今晩殺すと書いた手紙が来ても、ドイツ語の知らない者にはちっとも恐しくないでしょう、ま
たフランス語でこの手紙を持って明日の八時までに来れば百万円やるといって来ても、フランス語の読めない者
にはさっぱり喜ばしいとも思われないし、明日の八時までに行かないでしょう。だけどこの二つの手紙には人を
驚かせ、人を喜ばせる力があるんですよ。わからないから力がないとはいえないでしょう。御本尊様もその通り
で、私どもには御本尊様は読めません。字が見えるという事と、文字が持っている力とは違うのですよ。ですか
ら、この御本尊様を読み切れる御方、そうねえ、牧田先生のようなお方に読んで頂くより他ないのです。面倒な
言葉ですけれども、色心の二法不二なるを一極という、とかいうことを御義口伝で大聖人様が仰せ遊ばしている
とか。色とは肉体の事なんですって、心とは心の事です。紙は身体になって、御文字は心になって、二つが一つ
であって仏様の御命になるのが一極という事なのだそうですが、面倒な事は私にわかりませんけれど、どっちに
してもこの紙に認められた御本尊は仏様の命なんです。ですから非常に大きな御力があるのです。信じましょう
よ、拝もうじゃありませんか、熊谷さんも一緒にね』
おとら婆さんは感心して聞いていたが言葉が終わるや、膝をピタっとたたいて、
『偉いぞ、六代目、巌先生そっくりだ』
『まあいやね、冷やかすもんじゃないのよ』
突然隣りのおとしの家から
『お母ちゃん、足が痛いよう』
という和夫の大きな声が聞こえて来た。達雄の家でじっと皆の話を聞いていたおとしは、びっくりして我に返
った。医者だ! と頭にひらめいた。
『金がない!』と誰かが大きな声で怒鳴ったような気がした。おとら婆さんにすがるようにして叫んだ。
『和夫の足が治るかね、信心したら』
おとら婆さんがおとしの方へ向き直って厳然と、『治る、絶対に治る』と只二言であった。『やらして』とすが
るおとしの後から鈴木さんと熊谷さんが『俺らも絶対にやる』と頭をペコンと下げた。
(六)
おとしの家に御本尊がまつられたのは次の夜であった。牧田先生がわざわざ見えられておとしに御本尊の力に
ついて色々とお話し下さった。おとらもおくらも一緒に色々と話を聞いておとしに力をつけてやった。おとしの
熱心さは非常なものであった。和夫の足は少しも上らない。そして只痛い痛いと泣くばかりである。
『和夫、お母さんは今朝働きに出掛けなければ晩の御飯も食べられないから、御本尊様はきっとお前を助けてく
れるからしっかり拝むんだよ』
『おっかさん、南無妙法蓮華経というだけでいいのかい』
『それでいいとも、痛かったら仏様に助けて下さいと言って拝むんだよ。おっかさんも人夫をしながら一生懸命
に題目を唱えているからね』
貧しい親子は只一幅の御本尊様を頼りに朝の別れをした。
泥や石を運んでいるおとしの胸には痛みに苦しむ和夫の姿が消えなかった。その度毎に夢中になって題目を唱
え続けていた。石の重さで肩の痛むのをも忘れていた。
夕闇の近づく頃、おとしは一日の日当を持って我家へ急いで帰った。只々和夫の身を心配して……
がらりと戸を開けた途端に、牧田先生が和泉貞三さんと二人並んでいるのが目に映った。
地下足袋を脱ぐ間もなく敷居にぴったり手をついてお辞儀をした。
『おとしさん、牧田先生のいいつけで病気の見舞にまいりました。そのままでよいから手を洗い口を濯いでいら
っしゃい』
云われるままにおとしが急いで外の井戸から帰ってみると、牧田先生と和泉さんは御本尊の前でお経を上げて
いられた。おとしはお経を読めぬままに只題目を上げ通していた。題目が終わってから和泉さんがおとしの方へ
向かって
『留守の間に医者に来てもらったが、医者も病名がわからないという。困って牧田先生へ電話をお掛けしたら、
病名不明では困ったものだ、とおっしゃって、今護秘符をお持ちになって、わざわざお出(いで)下さった』
おとしにとっては護秘符とは何の事かさっぱり分からない。
『その護秘符というのは日蓮大聖人以来の秘伝であって、御法主上人以外はお作りになる方もなく御本山にだけ
しかないものです。医者で治せない難病は必ず治るのです。普通の薬ではありませんよ、信心で非常な力の表わ
れる秘薬なのです』
此の護秘符を頂いた時の、おとしや和夫の感激は一通りではなかった。牧田先生の親切が貧しき親子の胸には、
朝日のような暖かさを降りそそいでいた。その夜からの二人の信心は筆舌にいい尽くせない程熱心であった。翌
日の夕方、おとしが、心配しながら我が家へ帰った時、和夫が、
『おっかさん足が二寸程上がったよ、痛みも取れたよ』
とこの言葉を聞いた時、御本尊が光り輝いているような思いがした。全快した和夫をつれたおとしが牧田先生
へお礼に出掛けたのはそれから二日程してからであった。
(七)
今日はお正月の七草であった。おとら婆さんは少し風邪気味で、起きてはいるけれども何となく気が勝れない
でいた。そこへ珍らしく薄化粧したおとしが入って来た。
『おばさん、あなたのお蔭で信心させて頂いたもんだから、家の暮らしもよくなってお正月の今日も、心からし
みじみ安心して休めるようになったわ。風邪気味と聞いたから少ないけれど、お酒を二合買って来たから呑んで
ちょうだい』
『おお、おとしさん本当によかったね、本当におとしさんも和泉さんの工場でかせぐようになってから暮らしが
楽になったね。熊谷さんの所も鈴木の甚兵衛さんも、皆仕事にありついて、今年の正月だけは八軒長屋も天下泰
平で……』
おとしの心尽くしの二合の酒をあたためて、おとらが御気嫌良く信心の話をし始めた。窓の外には雀(すずめ)の声も珍
らしく、小春日とも言いたげな陽の光りが路地を照らしていた。
その時、セカセカしたような足音がしたと思うとガラリとおとらの家の戸が開かれた。驚いて飛び上がったお
とらは、お膳にでもつまづいたように敷居ぎわに飛んで行った。
『まあ先生様、どうした事でしょう、こんな所へよくもまあ』
『いや今日はお寺へお詣りした帰りにちょっと思い出して寄ったのさ』
七十にも近いと云うお年なのに、意気さっそうとしてお肌もツヤツヤと若々しく、和服姿で遠慮もなくおとら
の家へ上がったのは牧田先生であった。後から続いてニコヤカな顔をして巌さんが一升徳利を無造作に下げてい
た。その後から小柄なおつやは、黒の紋付(もんつき)にお化粧姿も昔のおつやとは異って、上品な若奥様ぶりでつつましく
席についた。四ツ谷の松村さんはモーニングというすました姿で巌さんの一升瓶をニヤニヤ見ながら、続いて入
って来た。
『早く入っちまえよ』
巌さんが怒鳴ったにもかかわらず、表で二人の若い女性が鈴の張るような声を出して挨拶を交わしている。一
人は和服姿の雪子さん、一人は松村さんのお嬢さんの圭子さんだった。
その挨拶を面倒臭そうに、巌さんが内側へ又怒鳴った。ちょっと一杯利いているらしい。
『おい、お婆さん茶椀だよ、茶椀だよ、一杯冷(ひ)やでやるんだから』
牧田先生は愛弟子のわがままを微笑ましそうに眺めながら、長屋中の人達が喜んで挨拶に来るのをさも嬉しそ
うに受けていた。おとら婆さんは女王様のように威厳をもって長屋の人達を支配していた。
『牧田先生、この松村は不思議に思うんですが、牧田先生程の方がどうしてこんな長屋が好きなんでしょうな、
巌さんなら似合いとも思うんですがね』
ニヤリとして冷や酒が利いて来たせいか、巌さんをからかうような調子であった。巌さんは相当酔いが廻った
らしく、あぐらのままでニラミつけ、
『おい松公、真の仏法というものが弘まる時には、下層民の苦悩が救われて来なくてはならないんだぞ。上層の
者が貴族ぶって威張っていて、下層民が政治にも法律にも経済にもしいたげられている時に、新しき宗教は起こ
るんだよ。釈迦の時でも大聖人様の時でも、下層民を救わんが為の仏法ではなかったか。しかし牧田先生は科学
者なんだ。仏法の定理をこの八軒長屋で実験証明したんだ。科学者と云うのは自分の試験所を愛するものだよ』