牧田先生

     (一)
 昭和五年の二月、外にほ星も見えぬ、雲の下を東京の名物、特有の冷たい風が吹いていた。十二時を打ったの
が五分程前である。ちょこなんと八畳の床の間を背にして火もとぼしくなった火鉢に手をかざして、六十と言う
年にも見えぬ若い顔で真向いで坐っているのは、牧田先生である。その前にかしこまって、坐って話しを聞い
ているのは、三十歳の働きざかりの巌先生であった。牧田大先生が五十の時から、十年一日もそばを離れない牧
田先生の愛弟子である。肺病をやんでいるというのに精悍な面魂いである。先生の顔をジッと見つめたり、床の
間の掛軸を時おり眺めたりして、ききいっている。『巌君、私は労働価値説から出発して、左右田博士の価値論
を抱きしめて思索すること十五年間で、ようやくドイツの真善美という価値論は誤りであって、利善美の価値論
が正しい学説であると確信を得た。これは牧田の創造であり、多年研究の教育学説の根底となっている。日本に
は真実、小学校の教師がよりどころとする学説はない、今まであり来たりの教育学は、いまだ完成されていない
哲学や美学や論理学および倫理学を基礎としている。未完成の基礎科学に根底を置いた教育学はどうして完壁と
言い得ようか』
 こういって、熱をおびた牧田先生の顔には青年のような若さがみなぎっていた。冷たいお茶をグッと一口のん
で言葉を続けて巌先生に言い出した。
『医学は医術を対象として科学されるように教育学も、教育技術を対象として科学されねばならぬ。この考えは
ペスタロッチ以来、自分をもって創始とする。これを小学校長として在職中にぜひ世に出したいものだ。未だ日
本に小学校の理論において、教育学説を発表した者が無いということは、まことに残念なことである。世の人が
認めると認めないとに関せず、後代の小学校教員のために是非共発表して置きたい』
 その時に、目を輝がしてきいていた巌先生は
『先生ぜひやりましょう、私の財産は二万か三万のものですが、全部お使いなってはどうでしょう』
『いや、その厚志は有難い、是非君に働いてもらうとするが、只残念なのは教育局のやり方だ』
『浅草の、先生が教えられたという区会議員はどうですか』
『いや、それが区会の連中が一致している上に、教育局長の藤井と視学課長の広田が、どうしてもきかぬという
のだ』
『去年一年間待てと先生が区会議員の藤原にいったのでしょう。その時、藤原はきかないで此の方の力で一年引
っぱったのだから、校長の位置をやめる事は、先生、ないじゃありませんか。この学説を完成するまで教育局と
闘争しようではありませんか。田中正三先生と台町の山本さんに私がもう一度相談して見ましょう。一体どうし
て彼等はそんなにしつこいのですか』
『課長の広田が自分の子分を校長に出そうとして、最も後継者のないと思われる校長三人を選んだのさ。その中
に私が居ったというだけなのさ、主義も教育もあったものではない。只親分子分の関係だけで人事をやっている
のさ』
       (二)
 五分か十分ではあるが、巌先生は十年間先生につかえて、先生の不思議な宿命を思わざるを得なかった。絶え
ず官憲と闘争して、権力に屈しない先生の生活と宿命『松に雪降ってなお青し』の観がある。最初は自分が先生
の膝下(ひざもと)に拾われた時の事である。いよいよ食えなくなって、先生の許(もと)へ北海道の先輩、原さんから紹介を受けて
伺った時に、『君の才能は成功すれば、素晴しく成功し、失敗すれば又大いなる敗残者になるであろう』といま
しめられて只三時間の会見が共に忘れがたい仲となったのである。
 下谷西町小学校の臨時代用教員として、それから間もなく採用された。これがただ三月の契約で入ったのであ
った。先生は文部省の地理編纂官から、東京市の教員となって入られた時に、全国的な模範小学校を作るために
大正小学校の校長になられた。その時に、一生涯大正小学校に校長であるべき事を約束したのであったが、時の
政友会のボス、東京市の陰の市長として悪辣極まりなき権謀術策の人、高橋義信に賄賂を贈り、へつらいをしな
い、というかどで西町小学校に左遷されたのである。しかるに先生は権力に屈する事を嫌い、彼の豪華な西町御
殿と時の人がよんだ家に伺候(しこう)はしなかった。彼高橋がますます怒って、時の教育課長、時の区長を使って迫害に
出たのであった。高級職員には、高橋系の者を全部入れて、殆んど学校行政を行なえないような有様であった。
出ていけがしの取り扱い中、幹部以下が大結束をなして先生を守ったのである。自分も末席の教員でありながら、
この運動の参加を許され必死の擁護運動をしたものであった。雨のドシャ降りの中、この運動のために先生の宅を訪ずれてビショぬれになった事もある。
 先生はこの事を時折り口にして、奥様にもらされたとやら、その時の戦いを今また、まざまざと思い出す。その
かいもなく教育仲間では首切り揚所といわれた、三笠小学校に又々左遷されたのである。
 すぐ首を切られる事もなく、先生には三年間の平和が続いた。所が時の視学、成田千里が自分の子分を校長に
したいために上席の訓導を味方に引き込んで先生の首切りにかかった。その時、自分は三笠小学校に居ったが牧
田先生の左遷後、三笠に行くまでに先生の有難い好意を受けていた。先生なき後の西町小学校は、自分に取って
墓場であった。しかも自分は三月で首になる身である、二十一歳の若さにかられて、七十銭で短刀を一本買った。
その短刀をふところにのんで、校長と首席と次席を殺してしまうと談判して、何回も短刀をば机の上にたたきつ
けた事がある。これに恐れて三月たっても首にしない。しかし先行(さきゆき)のない身であった。それを哀(あわ)れんで牧田先生
は自分の学校の訓導と、自分とを引きかえに自分を三笠の学校に引きとって、ただちに任命の手続きを行なって
くれた。ここで自分にも三笠の平和があったために府立第四中学校で、高校の資格の試験を取る事が出来た。し
かるにこのやすらかな夢を破って、とつじょとして、成田視学の親分子分の考えからなる嵐が起って来た。


(三)
 こういう状勢の時には、思想的統一なき社会の常として、二派に社会が分かれるのである。三笠小学校もこの
定則にもれず視学に取り入ろうとする者と、潔白(けっぺき)な校長を守ろうとする激情家との二派に分かれた。敵方は暗躍
に暗躍を続けた。牧田先生はこの暗躍を防禦しながら、堂々と正しい立ち場を宜明して戦ったのである。自分も
末席ながら若い情熱にかられて陣頭に立ったのである。激しい先生の指図はぐんぐんと下る。今筐(きよう)中(ちゆう)に秘して
いる手紙を思い出す。急いでかかれた短い手紙の中に、はげしい先生の気性と、長者らしき指図が見られた。十
年間大事にしまって居た手紙が、ぼうっと目に浮かぶ……。
 

拝啓
君が工藤君に校長より聞いたと言って忠告した事を、工藤が浅見へ告げたと言う事だが果して信かとの問に対
して絶対否認しておいた。左様御承知あれ何かの誤りならんと 二月二十日 牧田
  巌君
 

 その時と同じ様な事が、今白金小学校に出来上がったのだ。三笠小学校の事件の時は、丁度後藤新平が市長の
時で、あわや牧田先生がもう一月で免職の辞令が出る時に、後藤新平市長の第三助役である前田多門先生が牧田
先生の事を聞かれて教育課長に『牧田君は有望な校長であるから面倒を見るように、僕とは二十年来の友人だ、
人格は保証します』といわれたので教育課長はびっくりぎょうてんして、成田千里をなだめ、栄転の道を考え出
したのである。
 前田多門先生は、牧田先生と共に新戸部稲三博士の門下生であった。学問上牧田先生と常に交際の絶えなかっ
たものだが、牧田先生は東京市の第三助役である権力者を、職業上の親分としてたのむ心は少しもなかったので
ある。もし前田多門先生と友人である事を教育課の連中が知っていたら、手はつけなかったであろうし、否、む
しろこびたかも知れない。又牧田先生がこの事件を最初に前田多門先生に話してたらこんなに苦労はなかっただ
ろう。たまたま市の食堂でおち合って、話し合った機会が多門先生をして課長にこういわしめたのであった。親
分子分で市の行政が、否、日本の行政が行なわれていた時に、それを卑しい事として学問一点張りに豪気な性格
で教育事業に従事して来た事は、教育界に異彩を放っていたのである。今でも、民政党の太田正弘(台湾総督)
政友会の総裁犬養木堂先生と親交あるのを今の教育界の親分が知らないのである。しかもかくれたる政界の名策
士、鷲見行正氏が全力を挙げて応援しているのを知らないのである。牧田先生はどうしてこの方々を頼らないの
かと、過去を想い今を考えて冥想にふける巌先生は『巌君、小学校長として在職中に教育学説を発表したいもの
だな』という牧田先生の声に再び現実に引き戻されたのである。


      (四)
『牧田先生出しましょう、書物として発刊致しましょう。先生のような大学説は世の中からは、直に歓迎され
るとは思いませんが、先生の死後三十年、五十年後には必ず世の中に出ることでしょう』
『いや、今は文明の利器が発達している。交通にしても通信にしても、昔には比べものにならない。そんなにお
そくなる事は無かろう』
『先生がドイツの大学の教授であったり、或いは有名な大学教授であれば、すぐにも学者が飛びつくでしょうけ
れども、ドイツ哲学の真善美の価値哲学に育てられた日本の学者連は、新しい利善美の先生の価値哲学を、どう
して信じましょうか』
『真実を認めないと言うことは無かろう。それでなければ学者とは言えないのじゃないか』
『その学者が又親分子分の考えが有るんですよ、又学問はドイツかアメリカか、フランスから仕入れたものでな
ければ駄目だと思っているし、その連中が日本の学問の指導者なんですから、とてもとてもすぐには、広まると
は思いませんよ』
『本にして発表しても君の考え方なら、何処(どこ)の本屋でも引き受けまいし、誰も又損する本に出版費を出す者もな
かろうし、これはむずかしいな』
『先生、損得は別として、やろうではありませんか。私の財産を全部投げ出せば一万や二万円のものは有ります。
裸で北海道から出て来た私です。又裸になるのは何でも無い事です。発行所は私費出版とするならば、先生と二
十数年来の関係のある富山房の生沼支配人に頼もうじゃありませんか』
『よし、君がそこ迄、決心するならば一つやろう』
 力強く言われた先生の目には生き生きとした輝きがあった。
『それにしては、どんな名前にしようかな』
『先生の価値論は、価値を創造すると言うのですから、価値創造哲学でも教育学でも、おかしいですね』
『創造教育学と言ってもおかしいな』
『いっそのこと先生、創造の創と価値の価を取って創価教育学としたらどうですか』
『うん、よかろう。それに限る』
 牧田先生は創価教育と低くつぶやいて、巌さんの顔を見てニッコリ笑った。巌さんは恩師の顔を見て心も晴れ
晴れとし、体に力が湧き出して来た。
 一方には教育局長藤江利興視学課長広田伝造を向こう方に廻して大闘争をしなければならないし、内には牧田
先生の一生の研究である大哲学の発表に掛からなければならなくなって来た。三十になったばかりの巌さんは闘志
に燃えて奮い立った。
『巌君、原稿は書き散(ちら)しで出来ているんだ。これを整理統一して綴り直さなければならないが、誰か文章の上手
な者はおらんか』
『先生の後輩では居ませんか』
『うん、須藤君信どうかね、あれは札幌師範の後輩でもあるし、君の経営の塾でも働いているし、好都合ではな
いか』
『先生のお眼鏡にかなえば須藤君には私から話しましょう』
 師弟二人が希望に燃えて寒風の中に牧田先生を送り出したのは、終電車に間に合うか合わないかの時間であっ
た。