(五)
 徳山さんはおもむろに正一の方に向き直って、
『罰が当たると云う事は非科学的です』
 正一は、ぽつりと、
『罰が当たるとは云いません。罰が出ると云ったのです』
『どこへ出るんだね』
『あなたの生活に』
『罰とは一体どんなものかね』
『反価値のことです』
 徳山さんは、少し面くらい出してきた。なかなかこの連中は変わった事を云う連中だと思った。
『反価値とは?』と思わず聞きかえした。
 正一はおちついて、
『誰でも幸福を望むものです。これは人間の通性です。幸福を望まないというならば、その人は本当の人生を
理解しない、自分という生命の本質を見つめないものでしょう。幸福の内容は価値です。価値といえば、すぐあ
なた方のような方は、ドイツ哲学の真善美が価値内容だと思うでしょうが、真理は認識の対象であって、評価の
対象ではありません。本当の価値内容は美醜、利害、善悪なのです。この学説は牧田大先生が十有余年間の苦心
を重ね、到達した大研究の結果であって、いまだ世には知られておりません。実際生活に醜い事柄、醜いもの、
損のこと悪い事ができたならば、これは反価値の生活といって、一言にして云えば罰が出ると仏法語で云うので
す』
『私があなたがたの信仰に反対したからといって、どうしてそんな生活が出るのでしょう』
 徳山さんは、けいべつしたようなムッとしたような表情で正一をにらみつけた。正一はこんな世間的に偉い人
でありながら、自分のような一介の印刷職工と対等に議論しようとするのはおかしいことだと思った。それとい
っしょに、自分がどうどうと議論できるようになったのを、まことにありがたいことだと感謝にみちて、じっと
心の中に御本尊様を思い浮かべながら、
『徳山さん、普通一般の信仰ではないのです。あなたは日蓮大聖人を単なる偉い坊さんだとしか考えていないの
ではないですか、先程圭子さんも話した、あなた自身の生命が南無妙法蓮華経であり、これが宇宙の一大真理で
あると発見された方は、単なる偉い坊さんではないのです。仏様なのです』
なお続けて正一が話そうとした時に、突然徳山さんは大きな声で、
『仏? それは迷信だ。そんな馬鹿な事があるものか』といってひじょうに不機嫌な顔になった。座は白けわた
って、圭子さんも取りなす術がない。その時、ちょうど松村さんが入って来た。そして、
『そんなやかましい議論はもうよしましょう。何もありませんが、まあどうぞ御食事に』
 といってうながした。徳山さんもいいしおだと思って、
『まあ、森田君またゆっくり話そうじゃないか、ともかくごちそうになりましょう』
 といって松村さんの後にしたがった。圭子も正一もこれに続いて食事へと立っていった。


     (六)
 松村さんの小宴は松村さんの世なれたもてなしと、圭子さんの朗らかな応対でまことになごやかに終わった。
 正一はさっきの議論について、何か心構えるような態度も最初はあったが、ついそのなごやかさに引き込まれ
ありし日の自分の家庭も思い出されて、帰る時には朗らかになって帰った。
 その次の日から、徳山さんは何かしらうきうきしたものを感じて、松村さんに対しても、実に好意的であった。
太平洋戦争の勃発(ぼつぱつ)以来の忙しさの中に、天皇陛下に捧(ささ)げたこの身は、自分のものではないと覚悟はしているもの
の、何か春のような、自分が浮き出ているのをどうにもできない。日が立つにつれて圭子さんの姿がだんだんと
大うつしに自分の心の中にうつってくるのをどうする事もできなかった。会えぱ会うほどつらくなり、会わねば
会わぬほど苦しくなってくる自分を見出した時、これとは別だ、という考えで松村さんに事業的後援をしていた
自分が、実は圭子さんのために、松村さんを無意識に応援している事をはっきり意識して驚いた。
 松村さんが徳山さんを尊敬し頼みとして、事業を営なんでいる姿には、昔日の松村さんはなく、すっかり軍の
外廓団体と提携して、事業も隆盛になって来た。出版物はおもに軍の御用出版である。そして信心もだんだん衰
えて、ただ徳山さんさえいればよいように思い込んで、人を頼る心で一ぱいで、御本尊を頼る心がないといって
もよい程であった。それには松村夫人の信仰しない影響も大きいものがあった。
 圭子さんは、松村さんの信心がうすくなってくるのを心から恐れ、絶えず父に反省をうながすのであったが、
そのたびに怒声をきくのがせいぜいであって、怒声に答えて圭子さんの目には涙がにじみ出てくるのであった。
たびたび御本尊様の前にうち伏して涙にむせぶ日も多かった。
 正一は松村さんの小宴以来、あまり圭子さんをおとずれる事もなく、ひたすら御書に親しんでいる日が多くな
った。そして偉大な大聖人の御心にふれて感激にむせぶ日も数々あった。そのかたわら面倒な御書があるとツラ
ツラ自分を情けなく思う事もあった。しかし彼も青年である。圭子さんの姿を忘れる事ができない。ときおり圭
子さんに会う時には、女神を迎えるように、尊厳と、つつしみとをもって迎えたのである。そして自分の身分と、
年齢の相違を考えて淋しい思いにおそわれる時がときどきあった。
 昭和十七年の七月の月末に松村さんが外廓団体との契約ができて、そのお礼に徳山さんの所へうかがった時、
徳山さんが改まった態度で、
『松村さん、ぶしつけの話で申しわけないが、これは私事ではありますが、一つお願いがあります。まことに私
のような者でお気に入るかどうかわからないけれど、お嬢さんの圭子さんを、私の嫁にいただけませんでしょう
か。お嬢様の心持ちもうけたまわっていただいて御一家御相談の上、御返事下さい』と頭を下げた。


     (七)
 松村さんはひじょうに喜んだ。陸軍大尉として、将来性のある参謀として実力もあり、家庭も非常に良い事を
知っているので、何で圭子が不足をいうものかと確信に満ちた気持ちで、この良縁を取りにがしてはたいへんだ
という気持ちも手つだって、
『いや、圭子に反対はないはずです。あなたを尊敬している事は私がよく知っております。親の権利ではっきり
きめましょう。承知いたしました。ふつつかな娘ですが、末永く可愛がってやってください。結納や仲人の点は
又あらためて相談致しますが、一つ徳山さんの方で、結納の日や仲人の方をお考えおきください』
 一気に返事をしてしまった。
 徳山さんは、あまりあっさりした返事にひょうし抜けしたような気持ちでありながらも、喜びで胸が一ぱいに
なった。あの聡明な圭子さんと結婚できるかと思うと、喜びに胸の中がふるえるのであった。
その晩、微酔を帯びて帰ってきた松村さんは、ひじょうに大機嫌であった。まずこの結婚の話を家内に、話すと、
夫人も大変立派な縁談だと打ちよろこんだ。軍国主義華やかな、今将来ある青年将校との結婚は、若き女性のあ
こがれでもあった。また一家の名誉でもあった。まもなくこのことを打ちあけられた圭子さんは実に驚いた表情
であった。反対をいうひまもない。両親の喜びは有頂天である。尊敬こそしておれ、愛情というような点には考
えても見なかった。又信心のことでいくら語り合っても理解できない徳山さんには、一方大きな失望をも持って
いた。天皇主義の信者と結婚する等という事はどうしても考えられない。このことを云い出して反対しようとし
ても、父親の喜び、義母の誇らしそうな顔を見ては、子としてどうして反対できようか。しかも高圧的に父の権
利、家長の権利として、決めてしまったのだからと断じている父親の態度は、軍国主義、家族主義の中に表われ
る最も典型的なものであった。圭子さんはこの二つの主義の中では、小羊のような力しかなかった。
 その晩から、圭子さんはだんだん深い悩みに陥った。切れ長な目に、深い海の底の藻のような、神秘な色をた
たえて悩みつづけている彼女の姿は、実に可憐なものであった。この悩みを正一にあてて書いた。正一はその手
紙を読んだ時、同情と、自分の女神の去る事に、青年の血潮は高まって、机にうつぶして泣けて泣けてならなか
った。そして、小さな声で『圭子さん、ことわる事ができないのか、僕の女神として永遠にいる事ができないの
か、いや、あなたが愛情に燃えて嫁ぐならそれは別なんだけれど』
 と云って、手紙の涙でぬれるにまかせていた。
 その時、後からやさしく背中をたたく人があった。
 それは姉さんでもあり、お母さんでもあるおつやであった。
『正ちゃん、何をないているの。泣くような大事な時には、いつでも、私に打ち明けるのが本当じゃない』
 と云って正一を見た。


     (八)
 おつやに声をかけられた正一は、悶々(もんもん)と心の悩みを訴えてきた圭子さんの手紙をおつやに差し出した。
 手紙を黙々と読んだおつやは、正一に向かって、
『まあかわいそうなお嬢様、人の力ではどうすることもできない事じゃあないですか、あなたも男らしく、思い
切って此のお嬢様の幸福を願って上げる以外ないでしょう。さあ御本尊様を拝みましょう。そして静かなもとの
正ちゃんの心になりなさい。平静という事と、智性の働きと云う事が、一番大事だと大先生がよくおっしゃるで
はありませんか。さあすぐに御本尊様の所へ』
 二人は長い間題目を唱え続けた。一時間も過ぎたころ、正一の顔には生き生きとした元気な色が顕われてきた。
微笑すら浮んでいるではないか、題目が終わってから正一は、おつやに向かって、
『社長夫人、まことにうれしい気持ちになりました。よろこんでください、正一は若い男の子なんです』
 いつものひょうきんな態度でペコリと頭をさげた。おつやは思わず、つり込まれてニッコリ笑って、
『正ちゃん元気になってよかったね』
『奥さんこの間、大工のおばさんが指輪をどこかへ売ってくれと云った、あの指輪売れましたか』
『あんなダイヤの千二百円もするもの正ちゃんどうするの、急に圭子さんのお嫁入り話で自分もお嫁さんをもら
ったら上げようと思って買う気かね』
 その時、正一は直立不動の姿勢を取った。これは正一がじょう談でもなく、本当でもない時よくやる姿勢であ
った。しかもその時はうれしい心持ちの時で、軍隊口調で云うのが常であった。
『社長夫人、森田正一の全財産は千二百円であります。これでダイヤモンドの指輪を買うと云うことは最も光栄
と存ずるところであります』
 それから五分ほど立って、おつやに送られて正一は銀行へと出かけて行った。
 その晩、六時頃圭子さんの家を訪れた正一は、圭子さんに向かって、
『圭子さん悩むものじゃありませんよ、一切を御本尊様が解決してくださるのです。あなたの頭の中でどんなに
考え、どんなに悩んだって、このような厳しゅくな宿命をどうすることもできませんよ、運命の打開は御本尊様
の御力にあるのです。ただ御本尊様を信ずる以外には無いじゃありませんか。信行学の三つを励みましょう。き
っとあなたの結婚も幸福になるでしょう。私は心から祈ります』
 うるんだ目で、じっと正一の顔を眺めた圭子さんは、
『森田さん、本当にありがとうございます。一生けん命に御本尊様を信じて題目を上げます。そしてこの結婚は
幸福な結婚になるようにお祈りいたしましょう』
 その時、正一はごく厳しゅくな態度で、
『森田正一が、まずしい全財産を松村圭子嬢の結婚をお祝いしてプレゼントいたします』
と云って指輪の箱を差し出した。
 圭子さんは無言で受け取り、押しいただいて目を見張り、指輪を取って、指にはめて正一に、
『森田さんありがとうございます』
とにっこり笑っておじぎをした。


        (九)
 その夕方、会社へ帰る正一の足取りには、楽しさがみなぎっている。胸の中の喜びは松村さんを最初に折伏し
た時と同じものであった。早く帰ってつや子さんにこのすがすがしい喜びを打ちあけようと会社のドアを開けて
奥さんと呼ぼうとしたとたん、奥の方からつや子が、『正ちゃんじゃない大変よ、覚悟はできている?』と青ざ
めた顔で正一に呼びかけた、正一はドキンとして思わず、
『兄貴の事ですかい、僕の事ですかい?』
 ただならぬおつや(つや子)の様子に、もしか家の中に何か起こったのではないかと心配でこうただした。
『あなたの事よ』といいながら、何か紙切れを差し出した。
 正一は、『僕の事なら胸の中は喜びで一ぱいです。御心配なく』と云って何心なく紙切れを受け取って、ヒヤッ
とした。召集令状である。赤紙なのだ。『覚悟は?』とおつやが押しかぶせるように叫んだ。おつやにていね
いにおじぎをした正一は、ヅカヅカと奥の八畳へ入り仏壇の前に坐って、御本尊様に向かってお勤めをし始めた。
三十分、一時間、二時間遂には三時間にわたるお勤めの背後に、おつやのぬれたような声と、正一が可愛がってい
る貞一の可愛い声とが入りまじって聞こえた。お勤めが終わってから、クルリとおつやの方へ向かった正一は、
『姉さん、ここ二日しかないこの娑婆の世で姉さんと呼ぶのをゆるしてください。兄貴もこの二日間は兄さんと
呼ばしていただきます。身よりのない、馬鹿で悪者であったこの正一を、よくもこんなにお育て下さいました。
皆御二方の慈悲です。何も申し上げる事はありません。正一は立派に日蓮正宗の信者として、又日本国民の一員
として、必らず責務を果たして来ます。御二方は、貞ちゃんとともにどうか丈夫でお暮らし下さい。再び会えな
いかどうかは御本尊様の御力でありますから、何事もおまかせいたして立ちます』
 おつやはただサメザメと泣くばかりであった。返事をする力もなく、可愛い弟が死んでいく時のようにただ悲
しみで胸が一ぱいだった。その時、貞三の朗らかな声と、それにまじって牧田先生の笑声が聞こえて来た。四人
がささやかな門出の祝宴をはったのは、それから間もなくであった。かわす盃には、華やかさもなく、しめっぽ
さもなく、真実のみがくみ交わされていた。大先生が御帰りになるすこし前に、
『もう心が落ちついたかね。先ほどから云う通り、兵奴の果報(かほう)と云って、戦争につれ出されて奴隷と同じ仕事を
するのは、前世に法華経を誹謗した罪だと、立正安国論に大聖人様が仰せられている。君は今度の事で色心の二
法に罪報を受けて、過去の重罪を消してくるがよい。無事に帰ろうとするもよし、無事に帰るまいとするもよし、
その煩悩は君の自由ではあるけれども、只一つだけは絶対に心がけてもらいたい。今君がお供して出陣するお守
り御本尊様だけは生死にかかわらず、富士大石寺の大御本尊様の許へ、お届けする責任がある事を

 この言葉は正一の胸の奥深くへ、きざまれた御言葉であった。それから二日後、同志に送られて品川駅を発っ
た正一の胸の中に、憂いをふくんだ、違った形の二人の顔が永遠の昔からあったように刻み込まれた。


      (十)
 正一の出征したその後、和泉貞三は心に何とも云いようのない淋しさに満たされていた。おつやも同じ思いで
前より一層御本尊様を拝むようになった。
 松村さんは正一の出征などは、ほんの儀礼的なあいさつで、心になんの響きももたなかった。ただ、毎日軍部
へ通うのが楽しみであり仕事でもあった。徳山さんは一日おき位に圭子さんを訪れて又楽しそうであったが、圭
子さんの心は何となく浮かなかった。
 ちょう度、正一が出征してから三月目であった。徳山さんが少佐に昇進すると同時に、北支軍(ほくしぐん)の参謀となって
出征すると決まった時、松村さんは後任の人に自分を助けてくれるように運動するのに夢中であった。徳山さん
は佐官になった喜びを胸にいだき、まだまだ昇進してめでたく凱旋した時に、華やかな結婚式を上げようと、未
来の夢を大きくえがいて圭子さんを喜ばせようとした。
 圭子さんは信心なき夫、名誉欲にかられている夫を持つ自分の不幸をしみじみと悲しかった。ただせめても一
年なり二年なりのびるということが心を慰めただけだった。盛大なる徳山さんの出征の御祝いにも見送りにも、
ただ一兵卒として出征した正一の揚合よりも、感激のないのが不思議でならなかった。
 同じく出征する人を見送りながら、夫となるべき人の身の上よりは、貧しき全財産を祝ってくれた正一の身の
上が気づかわれた。時おり心の淋しくなった時、正一に祝われた指環を指にはめてジッと見入り、頬に当てて、
『正ちゃん、丈夫で帰ってね。毎日御本尊様にお祈りしているわ。あなたのプレゼントこそ、私の一生の宝よ』
 と云ってつぶやいているのであった。
 その後、松村さんの事業は何と云っても大きな後楯を失ったために、一日々々と衰微を見せて来た。これにく
らべて和泉貞三の商売は正一のいないのにもかかわらず、一日一日と繁昌して来たのは不思議な対象であった。
人を失って衰える事業、人を失っても栄える事業、これは何に起因しているのであろう。人生明暗の二道、不思
議なものではなかろうか。人生のもつ福運は人智をもって解決されようか。科学をもって説明し得られようか。
三世にわたる因果の法則をもってした仏法でなければ、どうしても解決し得ないのではないか。
 福運のなかった和泉貞三が、だんだんとお金ができてくるようになり、金持ちであった松村さんがだんだんと
貧乏になって……。あんないやしかった正一が、あんなきれいな心持ちに変わったのはどうした事であろうか。
和泉貞三も正一も福運のない男であったのに、それが世界唯一の大信心で、大御本尊様の御利益で福運を得られ
たのである。信心は福運の因であり、だんだんとお金が出来たのは果である。この理も、貞三も正一もよく知っ
ているのである。であるから命がけの信心になっているのである。この信心に二人を導き入れたおつやの手柄は、
偉大なものではないか。おつやの晴れ晴れしい顔と気品のある姿、五年前の彼女では絶対ない。これが婦人とし
て貞三にも正一にもまさる功徳である。