明  暗

     (一)
 松村さんと圭子さんと正一とが、牧田先生のもとから帰ったのは、夜の十時ごろであった。十三夜の月に照ら
されて、電車通りを歩む三人の声には、生き生きしたものがあった。松村さんは信仰する決心した時から、心が
明るくなったようだ。明日御本尊をいただくと決めて、時間やその他を正一と約束しながら、正一に向かって
『今日は非常に楽しい気持ちになっているが、明日の二時になれば、又地獄の行だ』
 その言葉の中に投げやりの調子はなくて、しみじみした生活の実感があった。
『松村さん、大丈夫ですよ、悩みなさい、悩んだってよいじゃありませんか、必らず救われるに決まっているの
ですから。僕は確信をもって、松村さんが事業的に更生する事を信じます』
 そして二人と正一が別れぎわに、追いかけるように松村さんに
『松村さん大丈夫だ、しっかり悩みなさいよ』
と云った。
 二人と別れた正一は、二人の乗った電車を見送りながら、朗(ほが)らかそうに口笛を吹いて小石川の方へと歩き出し
た。そして立ち止って天を仰いで一人言を云った。
『ああ愉快だ。実に世の中は楽しい。圭子さんのお父さんが信心して同志となった。云うぞ云うぞ、人が聞いて
もいいや、胸一杯の事云うぞ。スリをやってた時よりゃ、ずっと楽しいや。泥棒、皆やめろ、アハヽヽヽヽ』
 こう云って、又小さくつぶやいた。
『人が見たら、気狂いだと思うだろうなあ』
 喜びに満ちた足どりで、ズンズンと歩き出した。
 松村さんは電車の中で一人瞑想にふけっていた。この間までしゃくにさわってたまらなかった小僧の正一が又、
何と頼もしい、何と優しい男だろう。同志の美しい感情が、ヒタヒタと松村さんの胸に流れて来た。その時、圭
子が、小さな声であまえるように父親の耳許へ口を寄せて、
『お父さん、帰ったら私の御本尊拝みましょうね』
 松村さんはただウンと答えた。その時に、幼い頃に抱きかかえて頬ずりしてやった、あの可愛い圭子の顔がま
ぶたの底に浮かんできた。圭子も昔のお父さん、今のお母さんのいなかった時、甘えてばかりいた、あのやさし
い父親を感じた。二人の遠い夢の様な、なごやかな父子の生活が胸にあふれてきた。松村さんの目からは、意味
のわからぬ涙が二滴、三滴と流れ出たのである。
 その時突然、
『松村さんではありませんか』
と云う声に、事業人特有の厳しい警戒的な姿に変わった松村さんは、じっと相手を見つめた。そして警戒をと
いて、若い青年に笑顔を向けて、『徳山さんですか』と云って、自分のいすを立ち、『さあ、どうぞ』と云って席
をゆずった。そして圭子に向かって、
『お父さんが御世話になっている参謀本部の徳山大尉殿だ。お話しなさい』
 

    (二)
 圭子はていねいに挨拶をして、徳山さんをじっと見つめた。ととのった顔立ちで、どことなく秀才な感じがす
る。しかし、何となく重みがないような感じをうけるのが好かなかった。徳山さんも圭子さんを見つめて、軽く
礼をした。心の中でこんな聡明な顔立ちで、しかも忘れることのできないほどの、涼しい眼の娘を見た事がない
と思った。そして松村さんの方を向いて、
『この間の件でお話をしたいのですが、今日は遅いから明朝来ていただけませんか』
 松村さんは、この間作った本が一般向きでない。それがために売れ行きが悪くて非常に困っていたので、その
内容が神道論であるのを幸いに、参謀本部で買い上げてもらうように運動していた。その返事が聞けるかと思う
と何だか信心のおかげでないかという気がチラリとした。
『遅くとも大尉殿さえおさしつかえなければ、どこかその辺で御内意をおもらしいただけませんか』
『いや、やはり役所でいたしましょう』
 そしてつけ加えるようにして、
『お茶だけでものむならおつき合いしましょうか』と云ったのは、圭子さんと話をして見たいという気持ちが動
いたからである。ちょうど電車が停留所にさしかかったので、腰を上げて、『お嬢様も御一緒に』と誘った。圭
子も無邪気に『お供致しましょう』と云って腰を上げた。
 三人は間もなくある小さな料理店の客となった。時間を忘れていろいろな世間話をし合った。徳山さんは非常
に圭子さんが気に入ってしまった。心の中で、これはどうしても松村さんに一肌ぬいでやらなくてはと思ってし
まった。その時に松村さんは、
『大尉殿、あの点の吉凶だけ、少しもらしてください』
とねだるように、頼むように話しかけた。
『松村さんお話致しましょう。三千部買い上げます。金はある外廓団体から出させる事にしてあるから、明日朝、
役所で書類を差し上げますから、さっそく届けてお金をもらいなさい』
 松村さんは一歩退いて、改めてていねいにおじぎをして、
『松村が助かります。御恩は忘れません』
 圭子は同じくおじぎをして、
『父のため』にと云って、ていねいに又挨拶した。徳山さんは何か非常によい事をしたような気持ちになってう
れしそうにニッコリ笑った。そして別れぎわに圭子さんは、
『徳山さん、あなたにお礼におもしろいお話をして差し上げたいから、ぜひこの次の日曜にお遊びにいらして下
さい』徳山さんは快よく承諾して、二人に軍人らしい挨拶をして別れた。遅くなったので、親子は円タクを拾っ
てわが家へと帰ったのである。そのとちゅう、
『お父様、これは御本尊の功徳ですよ』
とささやいた。松村さんはいつもの頑固にも似ず、素直にうなづいた。その晩、娘と並んで読経する松村さん
の姿には、いい知れぬ元気が湧き出て、上げるお経の声にも力があった。圭子さんの継母の初枝さんは物めずら
しそうに、けげんそうに二人の姿を眺めていた。お勤めしている圭子さんの頬には涙が二、三滴流れていた。


     (三)
 次の日曜日に、松村さんは精神的に自分を生き返らせてくれた正一と、物質的に自分の窮場を救ってくれた徳
山参謀とを夕食に招待した。食事の前に、圭子さんと徳山さんと正一の三人は、打ちとけた態度でよもやまの話
をした。正一は、徳山さんと圭子さんの話の中に入ってはいるものの学問のない自分に卑屈を感じ、何となく徳
山さんにねたましさを感じた。話が信仰の問題にふれた時に徳山さんが圭子さんに、
『南無妙法蓮華経というのは一体何ですか』
『南無妙法蓮華経とは宇宙唯一の仏さまです。絶対の威厳と絶対の慈悲と絶対の智慧とをそなえられた仏さまで
す。しかもこの宇宙で、最初の仏さまであって、今なお生きていられる、いや死ぬことがないのです』
『観念的な存在ですね』と徳山さんがいって間をおいてから、
『キリスト教のゴットと同じではありませんか』
 にっこり笑った圭子さんは、
『たいてい、そうおっしゃると思いましたわ』
 うるみのある人を引きつけるようないつもの声でいい出した。正一はほれぼれとして、新らしい話でも聞くよ
うに圭子さんの横顔を見つめた。徳山さんはそう明な顔つきで、正面から圭子さんを見つめて、何を言い出すの
かというような顔をした。
『私は申し上げたではありませんか、宇宙で最初の仏さまだと、最初におさとりになった仏さまです。ゴットは
宇宙を作った方だというのです。宇宙のない前にどんな神様でも、仏様でもどうしてできたでしょう。今でも万
物を作っているといいますけれど、そんな事こそ観念論ではないでしょうか。そして我々もこの神に造られたと
考えるのはおかしいではありませんか。生命というものは、だれにも造られるものではありません。南無妙法蓮
華経は私共を造ったのではないのです。絶対の威厳と申し上げたのは、私達の主人という事です。絶対の慈悲と
申し上げたのは私どもの父ということでございます。絶対の智慧というのは私どもの師匠という事なのです。
主師親(しゆししん)三徳をもっていらっしゃる仏様です。ゴットは我々を創造して僚属(りようぞく)させているものです』
 徳山さんはとちゅうから目をつぶって、深く聞き入っていたが、おもむろに口を開いて、
『絶対とは、われわれは天皇陛下の事と信じている。それ以上の絶対、信じる事は僕にはできない』
 その時、圭子さんはあわれむような顔をして、徳山さんを見つめて静かに言った。
『自分を認めない奴隷のような立ち場においての絶対を知っていらっしゃる。それが教養ある、あなたがたの考
え方でしょうか。自己の絶対性を見出してこそ、真の宇宙の絶対を見る事ができるのです。宗教の事は別として
考えてみましょう。神とか仏とかいう事がらを考えることをまずやめましょう。すなおに自分を見つめた時、自
分の生命こそ絶対ではありませんか』


     (四)
 圭子さんは言葉をついで、
『あなたの生命こそ、尊厳であり、絶対ではありませんか。その尊厳にして絶対のあなたの生命を南無妙法蓮華
経とも申し上げるのですが、日蓮大聖人の御慈悲にあわなければ、その尊厳、絶対かつ自由な自己に覚醒が起こ
らないのです。徳山さん御本尊を信じませんか。御本尊を信ずる時に、あなたの生命と日蓮大聖人の御生命と宇
宙の生命とが、混然一体として、見事なあなたの生命が完成できるのです』
 徳山さんは目を開いて圭子さんを見つめ、
『私は軍人です、天皇陛下以上の絶対を信ずることができない。あなたのお話には打たれるものがあるけれども、
私の今の心境としてはどうしても、その気になれないのです』
 圭子さんはおしつけるように、
『徳山さん、私どもの生命は永遠ですよ、永遠の生命をあなたは信じますか』
『そんなふうに何度も聞いたことがあるけれども、私には霊魂があるというようなことは考えられないので
す』
『その考え方がまことにまちがった考え方で、キリスト教の悪い影響です。低級宗教のかもした弊害なのです。
釈迦も日蓮大聖人様も、最高の仏教では霊魂を否定しているのです。霊魂などあるはずがありません。私共の生
命は、小さな粒のようなもの、糸のようなもので目に見えないつながりがあり、それを霊魂と云って、その小さ
な粒や糸で生命が続くと思いこむことは大へんな誤謬ですよ。突飛のように聞こえるでしょうけれども、あなた
の肉体そのままが永遠の存在なのです。これ最高の仏教教理によらなければ、とうていわからないことですし、
御本尊を拝まなければ絶対にわからないのです。たとえ永遠の生命の理論がわかったとしても、それは、生活に
とって何の役にも立たないことです。百万円の計算はいくらできても、百万円のお金をもたなければ、百万長者
とは云わないでしょう。そのように永遠の生命をすっかりとつかみ切ってしまわなければ、本当の幸福は味わい
切れないのです』
 徳山さんは信心だとか、生命の絶対だとか、永遠に生きるとか、霊魂がないとか、とてつもない、今まで考え
た事もない話にぶつかって、戸惑ったような気持ちになってしまった。そうして、こういう哲学を自由に取り扱
う聡明な女牲は、生まれてはじめてだと思う心が一ぱいで返事をしかねていた。まじまじと圭子さんの顔を見つ
めるばかりであった。信仰問題よりも、こういう怜理(れいり)な女性と結婚したらという考えがチラリと浮んだ。いかな
る戦場にも驚かぬ徳山さんも、がらにもなく、心のどよめくのを感じた。その時、正一が突然、
『徳山さん、この話を聞いても信仰しなければ罰が出ますよ』
 徳山さんは、またびっくりした、
 とんでもない話である。正一の頭がどうかしているのではないかと疑った。若いのにどうかしている。頭が科
学的でないせいかな、少しおかしいぞとふき出してしまった。圭子の話は面倒だが、この罰の話はひやかすのに
ちょうどよいと思った。