奇妙な世界

    (一)
 貞三は小切手を借してほしいと云われても、銀行には預金がないので振出すわけにはいかない、こばみ続けて
松村さんを送り出した後味は、非常にいやなものであった。
 翌日の一時ごろ松村さんから又電話があった。
 正一が取り次ぎに出たが今日から十日先の小切手をぜひ借してほしい、その小切手は十日の後でなければ絶対
に貴方の銀行に取り立てに行かない、その十日の日には必ず私が二万円お金を持って、貴方の銀行へ行きますから、
決して和泉君に迷惑をかけない、ぜひ頼んでほしというのであった。
 正一には松村さんの困っているらしい姿と女神の様な圭子さんの姿が、錯綜して目にうつって来た、そして有
りのままに和泉さんに通じた、和泉さんは、
『森田君、どうするかね。』
『僕には小切手というものの事はわからないのだが社長はどう考えるかね』
『もし十日目に松村さんが二万円持って来てくれなければ、不渡りと云って僕の信用は絶対地に堕ちてしまう、
印刷業界から、もの笑いの種になって親会社の専務からも叱られるし、巌先生からも叱られるに違いないと思う』
正一は困ったような顔をして、
大先生の所へ聞きに行くひまもなしとつぶやいて、小声で『兄貴、昔の商売で云えば電車の中で千番に一番の
かね合いだね』
和泉貞三は苦笑して
『馬鹿を云うな、お艶にきかれたら、又二人どやされるぜ』
 そこへ、又電話がかかって来た。
 松村さんからである。和泉貞三は電話口で承知をしたらしい。
『森田君、至急にこの小切手を今二万円と書くから届けてくれ、松村さんの事務所は知っているね』
『銀座七丁目の銀座パレスの裏のきたないビルディングの二階だった筈だ。』
 正一は表へ飛び出すなり円タクをひろって、八十銭を張り込んで松村さんの事務所へ行った。二階の突当たり
の薄暗い松村さんの応接間で松村さんに小切手を渡すやいなや、松村さんは目の色かえて表へ飛び出して行った。
正一は目をみはった。とたんに事務所の方の電話が鳴り出した。事務所には誰もいないらしい、正一は受話器を
取った。
『もしもし日本文化協会の松村さんですか、こちらは昭和銀行の本店です。一万八千円まだ不足しておりますが、
お持ちにならなけれぱ小切手はお返し致します。どうも毎日こう遅くては困ります』
 正一は目を白黒して、どう返事をしてよいかわからない。何のことかもさっばりわからなかった。ともかく金
を持ってこいということは確かだ。返すということは、どこへ返すことかそれもわからない。返してよいのかと
も思い返して困るのかも知れないと思い、のどをごろごろさせて返事につまった。そのとたんに支配人で顔見知
りの広田が入って来た。
『おい、銀行でおこっているぜ』と云って受話器を投げるように、彼の方にさし出した、広田支配人はすました
顔で、
『毎日のことだよ』と云いながら受話器に向かって
『ただ今、所長が持って上がりました、何分宜しくお願い致します。間違いは絶対にありません』
と云って受話器にペコリとおじぎをした。


    (二)
 十五分程広田と正一とが雑談している間に松村さんが帰って来た。
『やれやれ、ようやくすんだ、さてまた明日もあるんだ、いつになったら抜けることか、交換というものは辛い
ものだ』
 広田支配人が松村さんに向かって
『この間の出版した本が全然失敗に終わりましたからね、貴方は校正だ、印刷だとうるさいことばかりいって大
局を見ませんもの、どうしてもこの金融難を切り抜けるには名案がなくてはなりませんね、それについてはどう
です。所長、法華屋になりませんか』正一は広田支配人が妙なことをいい出したので奇妙に感じた。松村さんは
支配人の顔を見ながら
『何のことかね?』
『先日、所長が話していたではありませんか、神田に法華気違いの事業家で何とかいう人がいて、法華を信仰す
る者には、幾らでも金を貸してくれるそうではないですか』
 松村さんは正一の方をチラリと見て
『巌さんのことか』
 とまずそうな顔をした。
 広田支配人はそんなことにはお構いなしに
『掛軸一本かけて、その前にロウソクをたてて、線香をともして南無妙法蓮華経といいさえすれば、それで巌公
が二十万円程出してくれるならこんな結構な手はないではないか、そして今度の大冊を出版しましょうよ』
 正一はあまりの不真面目さに驚いて思わず叫んだ。
『罰が当たる! いや当たっているんだ。なぜさっきの電話の時に気が付かなかったか』
 腕を組み、目をつぶって、二分三分時が過ぎた。部屋の中はツンとして人がいないようである。目を開いた正
一は松村さんをにらむようにして声もおごそかに、
『貴方がたの不真面目な信仰に対する考え方が今日のこのざまではないか、松村さん! 貴方が事業に行きづま
り家庭がゴタゴタしているのは、こんな不真面目な支配人を使っているからだけではない、真の仏法、真の仏様
を真剣に拝んでいるあの立派なお嬢さんに反対し、僕があれ程申し上げた信仰に反対した結果ではないか、これ
が罰です。貴方は神様が居ると、僕にはっきりいったではありませんか。その神様はどうしてこんな時に貴方を
助けないのですか。氏子が苦しんでいるのを見逃しているような神様に何の力がありましょうか、目を覚ました
らどうです』
正一は順序だてずにではあるが、自分の確信をのべて松村さんを責めた。松村さんは小声で『神様がいない、
罰が当たる』そういって正一の顔をじっと見た。腹を立てている様子でもあるが、正一の確信にふれて何かつか
みたいような心が起こったのは事実であった。


     (三)
 松村さんは、正一の顔を真剣に眺めて訴えるように
『交換というものは実につらいものだ、資本主義の組織があるが、もっとも変型的な現象だ。一冊五円の単価と
して一万部作る時には二万五千円の金がいる、紙代も印刷代も製本代も手形で支払う、それまでは常道だ。六十
日間にその本が売れず金の回収が出来なくても、手形の期日には銀行には金を持っていかねばならない。二時ま
でに金を持って行かなければ不渡り手形と云って先方に迷惑をかける、此方(こちら)では信用が落ち銀行取り引きほ停止
になる。
 そこで、金を借りてでもその手形を落すことになる。最初、信用のある中(うち)は金利のやすい所でどこからでも借
りることが出来るがだんだん度量(たびかさ)なると、借り先きがなくなって高い金融業者の手にかかる、その度に手形の小
切手を発行するそれが期日になると、又銀行にまわって来る、又借りて払う、終いにはそれが毎日の仕事になっ
てしまう、これを交換というのだ。君から借りた二万円の小切手も十日間で千五百円の利率を払って今一万八千
円受取り、今日、銀行にまわって来た手形を清算したのだ。十日目には二万円の現金を君の銀行にやらなければ
和泉君が不渡りにする。もう十日先きも必要だ。十日先どころじゃない、明日はまた二時までに一万二干円なけ
れば僕は又、不渡りしなければならない。今日から明日の二時までそのことでとび歩かなければならないし、明
日の二時にできなければ又あぶらあせを流さなければならないのだ。地獄の生活だ、この地獄の生活から本当に
脱却できる道があるならばその道を求めたい』
と云ってがっくり首をたれた。
正一は気の毒になって
『松村さん、宗教は生活だよ。牧田大先生の所へ行きましょう、道はある。必ず貴方は生きる道が見つかる、偉
大なる宗教に頼る以外に地獄の苦をのがれる道はない、まだ貴方は神様の存在を認めますか』
 数分間の沈黙の後、松村さんは、スックと立ち上がって
『行こう! 大先生の所へ行こう宗教は理屈ではない、私は今まで宗教を理論として取り扱っていた、生活だと
すれば最高のものを求めなければなるまい』
『生活は幸福でなくてはならないのです。幸福の内容は価値です。価値が最高である程幸福は大きくなるのです。
その幸福を生む最高の宗教へ行きましょう』
 二人が連れ立って神田の錦町に向ったのは、四時を少しまわったころであった。
 夕陽をあびて、錦町の本部へと電車から降りた松村さんは、首をうなだれて正一の後について歩いていたが、
その姿はいかにも淋しそうでいかにも影が薄く疲れはてていた。街路樹の葉が一枚二枚散って来る、松村さんの
心は泣きたいばかりであった。その時、突然『お父さん』という声が聞こえた、圭子さんである。正一は突然の
ことで妙に胸が波打って来た。松村さんは当惑そうな顔をした。