別な世界


       (一)
 独立してからも貞三と正一は、真面目に頑張って一年の月日も近くなった。五人の職工も真面目だし、仕事は
能率的だし、家は日々に楽になって来た。おつやも昔のかげもなく。立派な奥様ぶりで貞一はすこやかに育って
居る。貞三と正一は久方振りの休みを幸いと、
 一度も出かけたことのない学会の本部に出かけた。錦町の裏通りの二階建の家である。貞三は牧田先生の宅へ
向かった時の事を思い出し、変わった自分の境地、家庭、身なりを見て牧田先生を一(ひと)しお恋しくなっていた。自
分から出かける閑(ひま)のないのに、時折、お尋ね下さる先生の顔を思い出し、かけ上がるように二階に上がったので
ある。
 牧田先生は中央の床の間を背にして、机を取り囲んでいる小学校の先生方に、教育学の講義をしておられた。
小泉先生も真面目な顔をして御話を聞いておられた。貞三と正一が挨拶するとニッコリお笑いになって、一寸待
って下さいと言われて、窓の所で裸でふんどし一本で将棋に夢中になっている一人の男に
『巌君、かねがね話をしていた和泉貞三さんだよ。しっかり仕こんであるから、学会の中心人物に仕立てて呉れ
給え。小泉さんからも聞いていたでしょう、若い方が森田正一さんだ。青年部で仕上げて下さい』
 ふんどしの男は座り直して丁寧に大先生におじぎをして、
『ハア、承知しました』それから貞三と正一に向かって、
『和泉さん、貴方の心境がすばらしいと先生からうけたまわっている。御書の研究も熱心とか、学会は大幹部が
一人ほしい、是非しっかり頼みますよ。今ね、このヘボ将棋の弱いのを負かしてから御話しましょう』
 負かしてから御話しましょうはよいが、巌さんの王様は『せっちん』詰(づめ)の運命らしい。対手の四十位の人がニ
ヤリと笑って、
『その王様が助かりたかったら帝大病院へ行くんだよ、注射注射』と喜んでいる。
 正一も面白い人達だ、あの大先生の下にこのひょうきんな人達は似合わない。しかし朗らかな人達だ、これが
大先生の直弟子で巌九十翁さんだと思った。
 大先生は真面目に講義をなさっている。裸の大将はひやかされながらうなりうなり負けそうだ。
 その時、誰か人の気配がしたので振り返って見ると、二十歳位の細おもての目のパッチリした、すき通るよう
な肌の上品な娘が大先生に挨拶をしている。正一はドキンとした。自分が夢に見ていた人である。今様の髪の結
い方。身体にぴったりあった洋服、派手でもなく地味でもない、うるみを含んだ声、正一はただ見とれて頬の赤
くなるのを覚えた。
『やあ和泉君』と言う声に驚いて裸の大将を見た。
『印刷屋は刷りの全版を持たなくてはならない。組版だけでは頭でっかちの印刷屋だ。聞くところによると君の
工揚なら四六全版二台を入れなさい、仕事はウンとある、段々支那事変が烈しくなる、物資は少なくなるし、娯
楽が少なくなるから大衆小説の時代がきっと来る、四六全版は財産になるよ、借金して買うんだね』
  (二)
 正一は驚いた。大先生の御話をうけたまわるつもりで来たら、突然、巌先生から印刷屋談義である。組版は手
間仕事である。機械は違う、入力を省いて機械が仕事をしてくれる、これが資本主義だというのである。
正一も貞三も前々から機械は買うべきだと考えていたが、度胸が出なかったのである。職工上がりの自分等で
は大きすぎる仕事だと考えていた。巌先生が終わりに云うのには
『金をもうけることは人生の目的ではない。しかし価値を創造することは、人類の当然の仕事だ、一日の活動中、
よりよく利の価値を創造して社会に提供することが善の生活である。金のことはくよくよすることはない。信仰
が御本尊の御目(おめ)がねにかなえば入用丈(だけ)は出て来る。心配はいらない。君が真に仏様の御目がねにかない、且つ、
謗法がなければ御本山全体の木の葉は、皆百円札と化して君に役立つんだ。しっかり信仰なさい。私は至らぬ人
間だが、大先生は更に立派な御方だ、よくよく指導を受けなさい』
 貞三は、かしこまって話を聞いていたが、印刷業には全版の機械が二台もあれば非常に利益になることは知っ
ていた、これを揃えるのにふんぎりがたりなかった自分を省みた。正一は只もっともなことと感心して、裸の巌
先生の顔をみつめた。巌先生はゆっくり将棋をならべ直し乍(なが)ら『おい又、一番こい。こんどは負けんぞ』と何処
を、風吹くかと言うような顔をして相手を眺めている。その時、うるんだ甘みのある声が後から聞こえて来た。
『先生、お父さんがどうしても信仰を御許し下さらないんです』
正一がふりかえって見ると、御講義がすんだらしく、大先生の前に、先程の少女がつつましく座っていた。
その時、大先生が『和泉さん』と貞三の方を向いて呼んだので正一も一緒に大先生の傍(そば)へ行った。『和泉さん
貴方の二代目が現われたよ。こんな純なお嬢さんが信心するというのに、がんこな父親ががんばって止めて居る
んだ。
 可哀想(かわいそう)に家庭の不和を救い、自らも清純であろうと思うのに、どうして此の世の中には心の曲った者が多いの
かね』とつぶやく様におっしゃった。
『此のお嬢さんは学校に勤めて居る。だがお父さんは日本文化協会の理事長で松村有介さんと言って、相当の国
学者で神道家なんだ』これを聞いて貞三は正一の顔をちらりと見た。正一は貞三の腕を見こんで印刷物を頼みに
来ている御客で、この頃、毎日校正に来るようになったがんこ親爺とあだなのついている、ひげ親爺の松村先生
を思い出した。貞三は大先生に
『松村さんなら知っています。私共の御客です』
『ホウそれは奇縁だ。どんな方かね』
 貞三はお嬢さんの方をちらりと見て言い憎そうに『まことに…』と言いかけた時、お嬢さんが『とてもがんこ
でしょう。さぞ御迷惑をかけて居ることでしょう』と言った、その顔を立派な彫刻品を眺める様に、まじまじと
見ていた正一は、胸をドキドキさせて此のお嬢さんを苦しめたくない想で一ぱいで
『いいえ、それ程でもありません』といウておじぎをして、ハッと思った。大先生にしかられはしまいか、自分
の心を見破られはすまいかと思って赤くなった。その時、後から将棋で夢中の筈(はず)の巌先生の声で
『おいおい、がんこ所か度が過ぎているんだぜ』
 と言われて又びっくりした。

    (三)
 貞三は大先生に向かって
『松村さんには、私も森田君も何べんとなく此の信仰のことをお話したのですがどうしても聞きません。日本の
国は神様の国だ、南無妙法蓮華経なんかは間違って居ると言って仲々ききません。私の家内なんぞも何べんも言
うのですが、お前方は不忠者だなんて言いまして森田君なんかも散々です。先生がお会いになってお話して下さ
いませんか』
 その時、松村のお嬢さんも丁寧に頭を下げて『先生、どうかわかるように父にお話をしてやって下さいませ』
『一度御逢いして話し合って見ましょう』と大先生は御返事をなされた。
 その時、一人の青年が入って来た。ニコニコしながら大先生に挨拶して皆にもかるく会釈した。お嬢さんには
念入りに御辞儀をした。巌先生は『やあ』と言ったきり将棋ばんを夢中でにらんで居る。その青年は正一より一
つ、二つ上か、ぴったり身体に合った紺の服を着、色白の優形(やさがた)で物を言う度に、笑顔で人好きのする青年である。
巌先生になんかは何の掛合と言う態度で、色々と信仰の折伏のことを先生に報告している、その合間合間に松村
さんの顔をみては、自分の力を見て貰いたそうである。大先生は『フン、フン』と人がよさそうに聞いて居る。
『関東工業の職工連中も仲々よく信仰するようになりました。先生沖山君一人では困ります、どうか御出馬願い
ます』と結んだ。
 正一はねたましいような気持ちになり、なんとなく自分が見すぼらしい様な感じになった。その時、大先生が、
『巌君、沖山君を応援して関東工業の方へ行ってくれませんか』
 座り直した巌先生、一寸(ちよつと)頭をかいて
『ハ、私は一寸いそがしいんですが、寺本君が行って居るからよいではないでしょうか』
 その時、沖山青年は巌先生をあざ笑う様な一寸した表情をして、そして大先生に甘える様に
『先生折伏の方程式を教えるつもりで、今夜これから御出かけ下さいませんか、本所の縁町に七、八人待ってお
りますが』
 大先生はニコニコして
『よし、それでは行こう』ともう腰を上げられた。誠に気の早い話である。
『和泉さん、森田さん松村さん一緒に行きませんか』その時沖山青年は口を出した。
『先生、今晩は若い者だけですが』此の言葉を良いしおにして、和泉貞三は正一君もその様な青年の中に出して
やりたいと思いつつ
『私は今晩は遠慮致します。森田君はどうですか』とうながした。
 正一は行きたくなっていた。
『ハイ御供さして頂きます』と言った。
 沖山青年はなれなれしく
『圭子さんも一緒に行きましょう』と言った。松村さんは優しくうなづいた。正一の胸は、只あつくなって言葉
が出ず、つばをのんで、ほほが独りでに赤くなるだけだった。
 大先生は皆に丁寧に送られて御出かけになった。巌先生が先生をお見送りして、和泉貞三を振りかえって『和
泉さん、一パイどうだい、おでん屋で』と言った。貞三はびっくりした。大先生ととても似ない巌先生だと思った。

   (四)
 巌先生に連れられて貞三は錦町脇のおでん屋へ入った。巌先生は入るなり冷酒をいっぱいキュッとひっかけて、
落ちついた様な顔をして、おでん台の椅子に腰をおろして貞三に盃をさしながら
『先生は、御苦労にも毎晩折伏行だ。弟子は忙しいと称してお酒行だ。不肖の弟子だよ』とにやにやしている。
貞三は驚いた。ほんとうに不肖の弟子に違いないと思った。
『巌先生。どうして先生は大先生と一緒に折伏をやらんのです』
『私は私なりにやっては居るがね。しかしわしと先生は天地の相違がある。先生は大学者だ、私は一個の商人
だ。御本尊様の功徳の事は充分知っている。いや、事実私は功徳を受けている。その点では君と僕とは同じ境涯
だ。此の大御本尊様の功徳の点を、大先生は罰論で表現して而も急進的なんだ。それで理解してついて行く者が
ない。むしろ離れて行く者が多い。そのはなれて行く者をはなすまいとして、おさえて行くだけで私の仕事が一
ぱいなんだ。もし私が先生と同一行動を取ったとすれば只二人だけが藪の中へ藪の中へと入って行く様に思われ
てならない。まだ時が来ない様にも思われるし、大先生について行く程の者もないように思われるのだ。君もこ
こまでは来た、ここまでの境地には誰でもこられる、ここから先生の境地までふみ登った者は僕一人だろう。だ
からこそみんなのたやすく来る、この処でふみとどまって僕を乗りこえて先生の境地へ行く人を探しもし、求め
もし、一人でも見つかれば声援して先生につかせる様にと努力しているんだ。寺本君にしても西川君にしても矢
平君にしても有松君にしても野沢君にしても僕をのりこえつつあるようであって、いざという時には大先生は僕
にしか相談しない。これは悲しむべき事だ。君だけは大先生の境地まで登ってくれまいか。僕は二代の会長を求
めてやまないのだよ』淋しそうな巌先生の声に、貞三は大きな壁にぶつかったようなギクッとした気がした。
 その時、四、五人の人が入って来た。常連らしいその一人が巌先生に声をかけた。さっきの将棋の相手だ。貞
三はまた一寸びっくりした。
『稲田の父ちゃんを連れて来たよ』
 巌先生より十程年上の小柄な立派な紳士が丁寧におじぎをして、
『先生、おいてきぼりはひどいですねえ、おっかけて来ました。おやじさんは本所ですか』
『君等のような不良が弟子で大先生も可愛想だ』と巌先生は、にやにやして一ぱいひっかけた。その中の一人が
また巌先生におじぎをして
『先生、明日一万二千円また頼みます』とぴょこりとおじぎをした。四十七、八の小肥(こぶと)りの男であった。今一人の
やせこけた利巧そうな顔をした男がチロリから盃に酒をうつしながら
『僕は二千円ですよ、稲田専務に承知してもらいましたから報告だけです』
 巌先生はくったくなさそうに、また冷で一っぱいひっかけて、
『専務の意見次第さ、稲田君よろしくやってくれ給え。晩の専務はこれくらいにして、さあ飲もう』
 それから七人は食ったり飲んだりしてよっぱらった。話は事業界の話で種々雑多であるが、貞三には今まで知
らなかった珍らしい話の世界であった。