迷 夢
(一)
身延の本尊を妹からもらって来て、おつやをだまして、それを一生懸命拝まして、自分も時折拝んで、小泉さ
んを悪い人だと大先生が言ったと思い込まして。三ヵ月後におつやの家には大事件がおこった。おつやはじめじ
めした破れ畳にふとんをしいて、ねんねこ一枚かけたきりの貞一の熱ぽい顔をじっとみつめて涙ぐんでいる。
手には、派手な長じゅばんを持ち、青ざめた顔で低い声で『南無妙法蓮華経』『南無妙法蓮華経』と唱えている。
十六燭の電灯は八畳の部屋にうすぼんやりとともって親子を哀れむように見える。題目をやめたおつやは、長じ
ゅばんを傍において、貞一に抱きついて泣声で叫び出した。『貞一死ぬんじゃないよ。貞一、お前が死んだらお母
さんは生きていないよ。いやいやお前一人を暗い所へやりゃしないよ。貞一、お母さんをおいて行く事はないだ
ろうね。御医者も呼んでやれないで本当にすまないね、お父さんがあんな事で牢へ行っているもんだから、悪い
お父さんでもいてくれたら三日もこんな大熱を出しているんだもの、何んとかしてくれるだろうに。お隣りの小
母さんに頼んだから御医者も来るかも知れないがそれまでがんばってよ。お母ちゃんて呼べないの、貞一や。お
母さんの大事な大事なたった一枚のじゅばん、お前が大きくなったら、お前のお嫁さんに御母さんの大事にして
いたものだよ、と言ってやろうと思っていたんだが、思い切って今夜うるのよ、その金でお医者も払うし、明日は
滋養物を買ってあげる、貞一、お前が食べなくってもお母さんは買うよ』とおしまいは絶えるような泣声になっ
た。
貞三が、すりのうたがいで警察に引かれて今日で一週間になる。貞一が原因不明の熱を出して、三日問こんす
い状態に入ったまま何一つうけつけない。医者をたのむにも金のないおつや、毎日々々身延の本尊に祈ったが祈
れば祈るほど悪くなるのだ。貞三がいなくなる一ヵ月前に会社はくびになって金の入る道もなく親子は食うや食
わずであった。おつやは毎日警察へ通っているが貞三の様子はさらにわからない。みじめな親子は、途方にくれ
るばかりである。時計が十時を打った。時計の振り子の音が聞こえているだけで何の音もしない。貞一は苦しそ
うである。おつやは立っても座ってもいられない気持ちである。
『貞一や苦しいかね、お母さんが馬鹿なんだよ、可愛そうに。許しておくれ。お母さんが死んでお前と代わって
あげるよ、ああどうしたら私と代われるんだろう、貞一がまんしてね。おも湯をのむかね、お隣りの小母さんか
ら貰ったお米でこしらえたんだよ。あすは小母さんがじゅばんを売ってくれるからお金が入るからね、牛乳をか
って上げるよ、まっ白なパンもね、キャラメルも、カステーラが好きだったね』と貞一を抱きしめておつやは泣き
ぬれた。
突然、話声が聞こえ、医者が隣りの小母さんと二人で入って来た。おつやは仏様か神様が来たように思った。
入口ににじり寄って手を合わせ、そして畳へ頭をすりつけた。
お医者は町でも有名な山田医院の院長さんだ。如才なくおつやに挨拶して貞一の診察にかかった。おつやは恐
ろしいものを見るようにじっと見つめた。その目は異様にかがやいて、医者の手の動く度に。目はそれにつれて
うごき生つばをのむのみであった。医者がおつやの方を向いた時、死刑の執行を言い渡される罪人のように、お
どおどしてまぶしそうに山田院長を見た。山田院長は一寸頭をかしげて、『急性肺炎で今日明日が大事な境目で
すね。注射を打ってあげますが私にはうけあいかねます、大分衰弱していますから』
おつやはワッと泣き伏した。
(二)
小母さんと山川院長をおくり出して、こんこんとねむっている貞一をみまもりながら涙にぬれて、おつやは時
間のたつのを知らなかった。
更けた夜に、人の足音がしてびっくりしておつやは戸をあけて、入って来た小泉先生を見て取りすがりたいよ
うな気持ちになった。夫の貞三が『小泉なんて奴とつき合ったら、日蓮様なんか拝ませないぞ』とおどした言葉
なぞは忘れて、自分の苦しい気持ちを打ちあけたい気持ちで一杯であった。
『おとなりの大工のおかみさんが来てね、貴女の御話を聞いてびっくりして来ましたよ。日蓮様ならどれでもよ
いと和泉君は言っていたが、日蓮聖人の教は只一つしかないんだ。身延も池上も中山も仏立講も何もかも偽物な
んだ。偽物の本尊を拝むから家の中に、色々な不幸が起きるんだ。この本尊を拝んで良い事あったかね、夫は警
察へ行く、可愛い坊やは、死に生きの境だ、貴女は、この実証を見てまだ気がつかんかね、偽物の百円のお札を
使えば国の法律に罰せられる。偽物の仏を作ってある、それを知らんからとて拝めば仏の法律で罰せられる、世
間法、国法律、仏法律の三つの法の中で仏法律はどうしても逃げられない。この悪い本尊を捨て、正しい立派な
木尊を拝みなさい。そして一人でも折伏して大善生活をしなさい』とこんこんとさとされたのである。おつやは
うなだれて聞いて居たが話のとぎれ目に、泣きぬれた目をあげて、
『坊やはたすかりましょうか』とおどおど聞いた。小泉さんはきっぱりと確信にみちた声で『助かります。貴女
の心の外に別に法はありません。日蓮正宗の御本尊を拝むと決心して、この偽本尊を焼き捨てなさい。必ず坊や
は助かります』
おつやは偉大な確信にふれたのである。言葉や説明ではない。事実、坊やが助かるかどうかのせと際にふれた
確信である。つと立ったおつやは貞三の持って来た本尊をはづして火鉢の中に投げ入れてマッチをすったのであ
る。小泉さんはもうもうと上がる煙の中で叫んだ。
『宜しい、明日一番で御本尊をうけなさい。さあ、御勤め致しましょう』と
ふところの中から御護り本尊を出して、おつやと二人二時間にわたって御勤めをしたのである。そして、帰り
際に札入れから二十円の金を出して、
『これは大工さんの小母さんが、貴方にたのまれて売りに来た長じゅばんのお金です、お金も必ず出来るように
なるからそれまで、私が長じゅばんを預っておきましょう』
昭和十六年の二十円の金は、倹約すると二人暮らしで半月間の生活費は十分であった。おつやは人の温い心に
ふれ、今拝んだ御本尊の清々しさを思い、坊やは必ず助かると信じたうれしさに目はかがやき、ほほは赤くほて
って娘のように見えた。ただ有難うございますと、言うだけであった。二週間後、元気な坊やを抱き、青ざめた
貞三をつれて小泉さんの宅に伺った時は、別人のように元気になって、お礼と一緒に次のように話していた。
『こんな情ない夫と別れるつもりでおりましたが、先生から一人の夫も救えない意気地なしが日本中の悪人をど
うして救えるとしかられまして、夫が帰ると三日三晩寝ずにけんかをしてなぐられたり、けられたりしましたが
とうとう夫も信仰するようになりました。どうも有難う御座います。今度は夫婦揃って大善生活をして御恩に報
います』と。