語訳(妙法蓮華経如来寿量品第十六の4)

 

【衆生を度せんが為の故に方便して涅槃を現ず】一切の衆生を救わんがために、方便のために涅槃の姿をあらわすのである。

御義口伝(七五六頁)に云く、

「涅槃経は法華経より出でたりと云う経文なり、既に方便と説かれたり云云」

 

【常に此に住して法を説く】大御本尊様は常に娑婆世界におられて、南無妙法蓮華経を説いておられる。

御義口伝(七五六頁)に云く、

「常住とは法華経の行者の住処なり、此とは娑婆世界なり山谷曠野を指して此とは説き給う、説法とは一切衆生の語言の音声が本有の目受用智の説法なり、末法に入って説法とは南無妙法蓮華経なり今日蓮等の類いの説法是なり」

 

【広く舎利を供養し】大御本尊様を讃嘆することである。

舎利には二つの見方がある。すなわち、①法身の舎利 ②生身の舎利である。生身の舎利とは、人間界に出現された仏の遺骨をいう。富士大石寺にある釈迦の骨のカケラ等がそうである。法身の舎利とは、仏が説いた経巻や教えをいう。法身の舎利、生身の舎利には、それぞれ、全身の舎利と砂身の舎利がある。

文底の仏法では、舎利とは御本尊と心うべきである。

 

【一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜まず、時に我及び衆僧、倶に霊鷲山に出ず】これは三大秘法の依文であります。

すなわち図示すれば、次のようになる。

 

一心欲見仏、不自惜身命……本門の題目

時我及衆僧、倶出……………本門の本尊

霊鷲山…………………………本門の戒壇

 

御義口伝(七五六頁)に云く、

「第十四時我及衆僧倶出霊鷲山の事

御義口伝に云く霊山一会嚴然未散の文なり、時とは感応末法の時なり我とは釈尊・及とは菩薩・聖衆を衆憎と説かれたり倶とは十界なり霊鷲山とは寂光土なり、時に我も及も衆僧も倶に霊鷲山に出ずるなり秘す可し秘す可し、本門事の一念三千の明文なり御本尊は此の文を顕し出だし給うなり、されば倶とは不変真如の理なり出とは随縁真如の智なり倶とは一念なり出とは三千なり云云。又云く時とは本時娑婆世界の時なり下は十界宛然の曼陀羅を顕す文なり、其の故は時とは末法第五時の時なり、我とは釈尊・及は菩薩・衆僧は二乗・倶とは六道なり・出とは霊山浄土に列出するなり霊山とは御本尊なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり云云」

 

【霊鷲山】梵語では耆闍崛山という。

①印度のベンガル州にある山で、三千年前釈迦が法華経を説いた時の場所である。その南に尸陀林があって死人すてばとなっているため、鷲が飛来するので、鷲山といい、三世の諸仏の心法たる法華経とどまるので、霊山という。

②大聖人の仏法からみると、本門の大御本尊を信じて題目を唱える者の住所はいかなる所でも霊鷲山である。別して申せば、人法一箇の本門戒壇の大御本尊の住所こそ霊鷲山であり、具体的には娑婆世界、その中には日本国、日本国の中には富士大石寺が霊鷲山である。天台は「霊山の一会厳然として未だ散らず」といっているのも、この意である。

 

【衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時も……憂怖諸の苦悩是の如き悉く充満せりと見る】一念三千の依文である。すなわち図示すれば、次のようになる。

 

三世間

我此土安穏……国土世間

衆生所遊楽……衆生世間

宝樹多華果……丑陰世間

十界

散仏及大衆……仏、菩薩(及)

園林諸堂閣……縁覚

雨曼陀羅華……声聞

天人常充満……天人

憂怖諸苦悩・如是悉充満……修羅、餓鬼

諸天撃天鼓……畜生

大火所焼時……地獄

 

御義口伝(七五七頁)に云く、

「第十五衆生見劫尽〇而衆見焼尽の事。

御義口伝に云く本門寿量の一念三千を頌する文なり、大火所焼時とは実義には煩悩の大火なり、我此土安穏とは国土世間なり、衆生所遊楽とは衆生世間なり、宝樹多華果とは五陰世間なり是れ即ち一念三千を分明に説かれたり、又云く上の件の文は十界なり大火とは地獄なり天鼓とは畜生なり人と天とは人天の二界なり、天と人と常に充満するなり、雨曼陀羅華とは声聞界なり園林とは縁覚界なり菩薩界とは及の一字なり仏界とは散仏なり修羅と餓鬼界とは憂怖諸苦悩如是悉充満の句に摂するなり、此等を是諸罪衆生と説かれたり、然りと雖も此の寿量品の説顕われては、則皆見我身とて一念三千なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云」

 

【大火に焼かるる】煩悩の大火に焼かるることである。

 

【伎楽】音楽のこと。    

 

【曼陀羅華】曼陀羅は梵語である。訳せば、天妙、悦意、円、白などの意。曼陀羅華とは天華の名である。釈迦の経文には多く引用される。この華は色がきれいで、見る者をして喜びの心をおこさせるという。

全インドおよび群島に産して、暑いときに花を開き、六、七月ごろ実を結ぶ。葉が多くて大樹陰を作る。インドではその花蕾は愛の神の一投箭に附せられる五花の一なりという伝説がある。

 

【三宝】仏宝、法宝、僧宝をいう。文底の仏法では仏宝は久遠元初の自受用身すなわち日蓮大聖人、法宝は三大秘法の南無妙法蓮華経、僧宝は第二祖御開山日興上人と立てるのである。

日蓮正宗以外の他宗では、三宝の立て方、敬い方を誤る故に、功徳がなく大罰あり、邪宗と名づけるゆえんである。

 

【我も亦為れ世の父】文上の仏法では、世の父とは久遠実成の釈迦である。文底の仏法では、御本仏日蓮大聖人である。

御義口伝(七五七頁)に云く、

『我とは釈尊一切衆生の父なり主師親に於て仏に約し経に約す、仏に約すとは迹門の仏の三徳は今此三界の文是なり、本門の仏の主・師・親の三徳は主の徳は我此土安穏の文なり師の徳は常説法教化の文なり親の徳は此の我亦為世父の文是なり、妙楽大師は寿量品の文を知らざる者は不知恩の畜生と釈し給えり。経に約すれば、諸経中王は主の徳なり能救一切衆生は師の徳なり又如大梵天王一切衆生之父の文は父の徳なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は一切衆生の父なり無間地獄の苦を救う故なり云云、涅槃経に云く「一切衆生の異の苦を受くるは是れ如来一人の苦」と云云、日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」

 

【放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕ちなん】五欲は前の語訳参照。

御義口伝(七五八頁)に云く、

「放逸とは謗法の名なり入阿鼻獄疑無き者なり、今日蓮の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は此の経文を免離せり云云」

 

【道を行じ道を行ぜざる】行道とは折伏にはげむこと。不行道とは折伏をしないこと。

御義口伝(七五八頁)に云く、

『十界の衆生の事を説くなり行道は四聖・不行道は六道なり、又云く行道は修羅・人天・不行道は三悪道なり、所詮末法に入っては法華経の行道は行道なり謗法の者は不行道なり、道とは法華経なり

天台云く「仏道とは別して今の経を指す」と、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは行道なり唱えざるは不行道なり云云』

 

【毎に自ら是の念を作す】御本尊様がいつも、このように思われている。

御義口伝(七五八頁)に云く、

「毎とは三世なり自とは別して釈尊惣じては十界なり、是念とは無作本有の南無妙法蓮華経の一念なり、作とは此の作は有作の作に非ず無作本有の作なり云云、広く十界本有に約して云わば自とは万法己巳の当体なり、是念とは地獄の呵責の音・其の外一切衆生の念念・皆是れ自受用報身の智なり是を念とは云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る念は大慈悲の念なり云云」

 

【何を以てか衆生をして無上道に入り速かに仏身を成就することを得せしめんと】御本尊様が常に、どうしたならば、衆生をして、無上道であるところの三大秘法を信じさせ、速やかに仏の境涯にしてやることができるだろうかと、念じておられる。

御義口伝(七五九頁)に云く、

「無上道とは寿量品の無作の三身なり此の外に成就仏身之れ無し、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は成就仏身疑無きなり云云」

 

御義口伝(七五九頁~七六〇頁)

第廿三久遠の事

御義口伝に云く此の品の所詮は久遠実成なり、久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かさざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の儘なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり云云。

 

第廿四此の寿量品の所化の国土と修行との事

御義口伝に云く当品流布の国土とは日本国なり、惣じては南閻浮提なり、所化とは日本国の一切衆生なり修行とは無疑曰信の信心の事なり、授与の人とは本化地涌の菩薩なり云云。

 

第廿五建立御本尊等の事

御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。

 

第廿六寿量品の対告衆の事

御義口伝に云く経文は弥勒菩薩なり、然りと雖も滅後を本とする故に日本国の一切衆生なり、中にも日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なく、弥勒とは末法法華の行者の事なり、弥勒をば慈氏と云う法華の行者を指すなり、章安大師云く「為被除悪即是彼親」と是れ豈弥勒菩薩に非ずや云云。

 

第廿七無作三身の事 種子尊形三摩耶

御義口伝に云く尊形とは十界本有の形像なり三摩耶とは十界所持の物なり種子とは信の一字なり、所謂南無妙法蓮華経改めざるを云うなり三摩耶とは合掌なり秘す可し秘す可し云云。